数値モデルで再現される深層海洋大循環が中・深層の鉛直拡散係数の値と分布に敏感に依存してしまうことからもわかるように、中・深層の鉛直渦拡散過程を定量的に把握し、精度良くパラメータ化することは、海洋大循環の理解のみならず、気候変動を理解し予測していく上でも重要な研究課題である。しかし、現在の数値モデルで用いられている鉛直拡散のパラメタリゼーションは、海洋大循環を理解するのに必要な精度には遥かに及ばない。 海洋の内部領域における鉛直混合は、主に乱流に伴うものである。その乱流は、海洋中における運動のスペクトル空間の低波数領域で、風や潮汐によって与えられたエネルギーが、内部波の非線形相互干渉で高波数に運ばれることによって維持されていると考えられる。一方、海洋の中・深層における運動場のスペクトルは、陸岸境界および海底に近いところを除けば、かなりの程度まで普遍的で、Garrett and Munk(1976)によって経験的にまとめられたモデルスペクトルに形もエネルギーレベルもよく一致することが知られている。従って、このようなモデルスペクトル空間内でのエネルギー輸送を理解することが、鉛直混合過程を的確にパラメータ化していく上で重要となる。しかしながら、モデルスペクトル内のエネルギー輸送に関する従来の理論的研究は、主に低水平波数の領域に限られており、しかも、その理論によって見積もられるエネルギー輸送量は実際に海洋中で観測されたものの約半分にしかならないという問題が提起されていた。申請者は、従来の研究では注目されていなかった高水平波数の領域におけるエネルギー輸送を詳細に調べることにより、その領域を通して流れるエネルギーを考慮に入れれば従来の見積りの足りない部分を補えることを示すとともに、そのエネルギーの輸送には、内部重力波モードのみならず渦モードも寄与していることを示すなど、その物理機構を初めて明らかにした。 具体的には、水平・鉛直ともに100m程度の3次元の領域にGarrett and Munkのモデルスペクトルを与えることによって、この高波数領域でのエネルギー輸送を詳しく解析した。ちなみに、従来の3次元モデルによる数値実験は、低波数領域か、すでに乱流状態となっている波長1〜10m以下の超高波数領域を取り扱ったものに限られており、これだけ広い波数空間を対象に行った高解像度の直接的数値実験は本研究が初めてのものである。まず、低波数領域と同じように、高波数領域でも非局所的相互作用が支配的であるのかどうかを調べるために、低波数の流速場がモデル内に存在する場合と存在しない場合の計算結果を比較した。その結果、低波数の流速場の影響はそれほど強くなく、エネルギー輸送は、主に高波数の内部波間の相互作用、つまり局所的相互作用に伴っていること、しかも、その輸送量は従来の理論的な見積りの不足部分を補い得る程度にまで達することを明らかにした。また、その局所的相互作用には、内部重力波モードのみならず渦モードの寄与が大きいことを示すとともに、運動エネルギーとポテンシャルエネルギー間の変換の詳細な解析から、運動エネルギーの輸送とポテンシャルエネルギーの輸送との関係を決めるのに渦モードが大きな働きをしていることを示唆した。一般に、渦モードは観測が難しく、その強さやスペクトル分布などがよく分かっていないため、従来のエネルギー輸送の研究は、内部重力波モードのみを考慮してきた。しかし、本研究結果は、乱流スケールへのエネルギー輸送量の見積もり、ならびに、鉛直混合と密接に関連する運動エネルギーとポテンシャルエネルギー間の変換を理解するためには渦モードと内部重力波モードの両方を取り扱わなくてはならないことを明確に示したもので、今後の海洋乱流研究の方向づけという意味でも非常に重要な貢献をしたものといえる。 以上をまとめれば、申請者は、従来考慮されてこなかった水平・鉛直高波数領域も海洋の中・深層の運動場のスペクトル中でのエネルギー輸送に重要な役割を果たしていること、また、その高波数領域では内部重力波モードと渦モード間の相互作用が強いため、3次元性を考慮に入れなければならないことを初めて明らかにした。このことは、エネルギー輸送に関する新しい知見であるのみならず、深層海洋大循環の理解に不可欠な鉛直渦拡散過程の定量的把握とそのパラメータ化に対して大きな寄与をしたものといえる。よって、審査員一同は、申請者が博士(理学)の学位を授与されるに十分な資格があるものと認める。 |