タテジマフジツボBalanus amphitriteは、蔓脚類中最もコスモポリタンな種で、船底やその他の水中構築物にしばしば付着して大きな経済的被害を与える。このため古くから、その付着機構は研究され、多くの知見が得られているが、付着・変態に際して幼生体内で起こる情報伝達とそれに伴う生化学的変化はほとんど不明のままであった。そこで本研究では、キプリス幼生の付着・変態に関わる情報伝達系について検討を行い、幼生の着生機構の解明、ひいては環境に優しい付着防止剤の開発に寄与することを目的とした。その結果、幼生の付着は神経支配であり、変態はホルモンが関わる内分泌支配であることを世界に先駆けて明らかにできた。その概要は以下の通りである。 タテジマフジツボは雌雄同体で、親体内で受精卵から孵化する。遊出したノープリウス幼生は、6回の脱皮後、付着・変態を目的とするキプリス幼生となる。この幼生を用いて以下の実験を行った。すなわち、ポリスチレン製の6穴マルチウェルプレートの各ウェルに、6mlの人工海水(Van’t Hoff)と10±2個体のキプリス幼生を入れ、さらに情報伝達系に関わる試薬を溶解した試験液6lを加えた。プレートをオービタルシェイカー上に設置し、22℃で5-6日間、顕微鏡下で毎日観察を行い、キプリス幼生の付着・変態の様子を記録した。各実験は、5回以上繰り返した。なお、サンプルによっては、DMSO、メタノール、あるいはエタノールに溶解したが、本実験における濃度範囲内では、溶媒の影響はみられなかった。 1.セロトニンとドーパミンの付着および変態に及ぼす影響 まず、神経伝達物質7種類についてキプリス幼生の付着と変態に及ぼす影響について調べたところ、セロトニンのみが付着と変態を促進した。そこで、セロトニンのアゴニスト、アンタゴニストおよびアップテイクブロッカーの作用を検討した。その結果、5-HTQなどのアゴニストは付着を促進したが、アンタゴニストとアップテイクブロッカーは阻害した。なお、ケタンセリンなどのアンタゴニストとアミトリプチリンを始めとするアップテイクブロッカーは、濃度依存的に付着しないで変態した幼体を出現させた。特にアップテイクブロッカーの効果が顕著で、セロトニンとの混合実験やキプリス幼生へのマイクロインジェクションからも、付着の過程においてセロトニンが関わる情報伝達が重要であることが明らかになった。 一方、リスライドは濃度依存的に幼生の付着を阻害し、しかも0.01-1Mの低濃度では探索行動を継続をさせるという特異的な効果を示した。この物質は、主にドーパミンのアゴニストとされているが、その他にもセロトニンのアゴニストならびにアンタゴニストとしても報告されている。そこで、セロトニンとドーパミンのアゴニストおよびアンタゴニストの混合実験を行ったところ、セロトニンとドーパミンの混合系がリスライドと同様な効果を示した。すなわち、リスライドはセロトニンのアゴニストと同時にドーパミンのアゴニストとして作用していると考えられた。さらに、キプリス幼生体内における濃度を測定した結果、セロトニンとドーパミンがそれぞれ0.414ngおよび0.005ng/幼生含まれていた。したがって、キプリス幼生の付着は神経支配で、セロトニンが促進的に、ドーパミンが抑制的に作用しているものと考えられた。 2.幼生の変態に係わるプロテインキナーゼC情報伝達系とホルモン様物質 先ず、プロテインキナーゼC(PKC)を活性化するホルボールエステルを、キプリス幼生に作用させたところ、変態が促進され、しかも付着しないで幼体に変態する個体が多く観察された。一方、不活性型のホルボールエステルはこの効果を示さなかった。さらにH7などのキナーゼ阻害剤について調べたところ、H7、スタウロスポリンなどのPKCに特異性の高い阻害剤は、ホルボールエステルの作用を打ち消したが、特異性の低いものにはこの作用は認められなかった。 次に、甲殻類のホルモン様物質として知られるメチルファルネソエート(MF)とそれに類似した構造を有する昆虫の幼若ホルモン(JH-III)をキプリス幼生に作用させたところ、いずれも変態促進効果を示し、付着しないで幼体になる個体が多く観察された。これは、ホルボールエステルによる効果とよく似ていた。そこで、種々のキナーゼ阻害剤について検討した結果、MFとJH-IIIの変態促進効果は、PKCの活性化を通して発現することがわかった。さらに、両物質のキプリス幼生と成体における存在をHPLCとGC-MSを用いて調べたところ、いずれにもJH-IIIは認められなかったが、MFはキプリス幼生1個体当たり38pg、成体では1.95ng/g含まれていた。したがって、MFはキプリス幼生の変態においてPKCの活性化に関与していると考えられた。 さらに、甲殻類の変態ホルモンである20-ヒドロキシエクジソン(20-HE)について検討した。すなわち、10-100mMの20-HE存在下では、キプリス幼生は付着するが、変態と脱皮が抑制された。これは、マイクロインジェクションによっても確認された。さらに、MEやJH-IIIとの組み合わせ実験からも、変態と脱皮、特に、脱皮の調節に20-HEが関与していることが示唆された。なお、キャピラリー電気泳動で幼生に20-HEが検出された。 3.カルモジュリンの付着・変態における役割 細胞内カルシウム結合タンパク質として広く知られるカルモジュリンのイムノブロットを、タテジマフジツボの成体とキプリス幼生に対して行ったところ、標準サンプルのウシ脳由来カルモジュリンと同じ分子量の位置(17,000)に陽性バンドが認められ、カルモジュリンの存在が示唆された。そこで、様々なカルモジュリン阻害剤をキプリス幼生に作用させたところ、そのほとんどが濃度依存的に付着と変態を阻害した。さらに、セロトニンの合成系へ関与するカルモジュリンキナーゼIIの阻害剤の影響を検討した。その結果、高特異性のKN-62が顕著な阻害効果を示し、一方活性のないKN-04は、ほとんど影響を示さなかった。すなわち、セロトニンが付着を促進することから、カルモジュリンも付着に関与することを示唆している。さらに、カルモジュリンはcAMPの分解酵素のホスホジエステラーゼを活性化するので、その阻害剤についても検討した。その結果、カルモジュリン依存性のホスホジエステラーゼ阻害剤のみが、付着を阻害した。すなわち、Clareら(1995年)によりcAMPが付着に関与すると報告されているので、このホスホジエステラーゼは、カルシウム-カルモジュリン非依存性の可能性が考えられた。以上、カルモジュリンは付着・変態に重要であり、特に付着に関与していることが示唆された。 本研究の結果から、キプリス幼生の付着は神経支配であり、特にセロトニンが促進的に、一方ドーパミンが抑制的に働いていることが明らかとなった。恐らく、これらの生理活性アミンのバランスにより制御されていると考えられる。また、セロトニンに関しては、変態も含んだ過程にも関与することが示唆された。一方、変態には、MFを介したPKCの活性化が重要であること、脱皮の調節には20-HEが関与するものと考えられた。また、細胞内カルシウム結合タンパク質のカルモジュリンの存在が確認され、関連した酵素系が付着に関与している可能性も示唆された。結局、付着と変態は、何らかの形で繋がっていると考えられるが、各々に独立して起こりうる現象と結論された。 以上、本研究は、タテジマフジツボのキプリス幼生の付着・変態に関わる細胞内情報伝達系について数々の新知見を得たもので、その成果は従来無かった方法で付着防止を可能にするものと期待される。 |