すでに従来の研究史において、戦前期の農本主義の時期的・段階的区分とその特色、それに対応する各時期の代表的農本主義者といわれる人々の決して一様ではない所説が検討されてきた。しかしながら、さまざまな評価を内包している「農本主義」を自明の分析概念として用いることの有効性に対しては疑問をもたざるを得ない。農業経済論にとどまらず、社会論や国家論さらには教育論や文化論にまで及ぶ「雑炊のごときもの」であったとされる農本主義について検討する際には、竹内好氏のことばを借りれば、「事実としての思想」という観点からの接近が有効なのではないかと考える。いいかえれば、現実に働き掛けるものとしての思想であり、ある思想が何を課題として自らに課し、それを具体的な時代状況のなかでどう解こうとしたのか(解いたか)、または解かなかったかを検証することである。従来の農本主義に関する研究においては、その見直しを主張する研究を含めて、あまりにも心情的側面および政治イデオロギー的側面に重点を置き過ぎていたのではないだろうか。 本論文ではこのような視角にもとづき、従来、農本主義者ないし農本主義的と評されてきた人々の農業・農村・農民観に焦点をあて、言説だけではなく、現実の活動をも視野にいれて分析することを試みた。それは当然のことながら、都市観や資本主義観などと密接にむすびついたものであろう。もちろん、主体が異なれば、その農業観も多様であったことは容易に想像がつく。資本主義への対抗思想としての性格をもつ農本主義は、資本主義自体の認識の如何によって、多様なベクトルを持ったと考えられるからである。しかし、本論文ではむしろ、多様な主張・活動を貫いているなかでの共通性に着目した。 本論文で取り上げた対象は、人物でいえば、横井時敬(1860〜1927年)・岡田温(1870〜1949年)のほか、山崎延吉(1873〜1954年)・千石興太郎(1874〜1950年)・古瀬伝蔵(1888〜1959年)等である。これらの人物は、それぞれ立場は異なるが、いずれも農会および産業組合と深いかかわりをもっていたという共通点がある。横井は駒場農学校を卒業後、福岡県農学校教諭・同県勧業試験場長を歴任しているが、山崎もまた愛知県安城を拠点として「全国行脚」するなど、地方農村の実情をよく知り得る立場にあった。帝国農会に入る以前、愛媛県農会で活躍した岡田温、産業組合中央会入りする前に島根県農会・産業組合で活躍した千石興太郎も同様である。同時に彼らは、農業政策とも直接・間接に関わり得る立場にいた。岡田温のことばを借りるならば、「学者と篤農家の中間に立ち、理論と実際を接合せしむる」ことに尽力し、地方農村レベルの指導者たちのリーダーとしての役割を担っていったといえよう。 このうち横井時敬は昭和初期に没しているものの、日露戦争以降、第一次世界大戦を経て昭和期に至る時期は、ほぼ全員が同時代人として活動している(古瀬伝蔵が社会的活動を開始した時期はやや遅れる)。横井の場合、その言論活動から明らかなように、日露戦争後は「エコノミスト」としての色彩をつよめていった時期である。ここにもその一端が示されているが、1914年(大正3)の社会政策学会第8回大会の討議題目(「小農保護問題」)に象徴される、日露戦争後の農業問題が社会問題として顕在化していった時期に、彼らが現実の農業・農村・農民をどのように捉え、何に対して危機感を抱いていたのか、また、彼らはそれをどのように打開しようとしたのかを検討した。その際、たんに彼らの言説だけではなく、現実にかかわった運動(産業組合運動・農民党運動・農村文化運動・国民高等学校運動など)も検討対象に据えた。本論文の意図は、彼らの主張やそれに基づく活動を通じて、戦前期日本農村の歴史的リアリティに迫り、同時に、「農本主義」と評されてきた主張・運動の核心、いいかえれば「日本の農本主義」の外皮を取り払った核心を捉えることである。 日清・日露戦争期を通じての産業化の進展にともない、すでに現代の公害問題の原点ともいえる足尾銅山鉱毒被害や、住友別子銅山煙害被害なども生じており、横井・岡田とも重大な関心をよせていた。横井も足尾銅山問題を踏まえたうえで、「工本主義」に対して「農本主義」を対置しており、急速に進む産業化=資本主義の深化という激浪に巻き込まれた農業・農村・農民の行方に危機感をいだき、対応策を模索することとなった。表現こそ違え、いずれの論者にも共通する商工業と農業との調和的発展、都市と農村との社会的均衡の主張は、ここに根拠がある。現実の土地所有のあり方(地主的土地所有)に対しては一定の批判を持ち、さまざまな提言を行ないながらも、彼らの所説が、商工業や都市にたいする「農業一般」の利益を強調するのもこの点と関わっていた。 とはいえ、いずれも商業的農業の発展を積極的に捉えており、だからこそ、農会や産業組合の重要性を強調したのである。すなわち、まず何よりも、家族農業経営に立脚している日本農業・農村の現状をふまえ、資本主義体制下の小農のとるべき方途をそれぞれの立場から追求したといえる。なお、現実に進行する事態(「近代化」)への対応を模索するとともに、その過程での農業(農村・農民を含む)の位置に対するつよい批判は、時としてエキセントリックな「反」的言説となって奔出することがあったと思われる。これらは、産業途上化社会において農業部門から発せられた「異義申立て」といえよう。このように農本主義が現実に進行する「産業化」の在り方に対する批判であるとすれば、それは日本にのみ固有な思想ではあるまい。 ところで、上記のような批判はたんに経済的側面からの発言にとどまらず、「農村文化」の独自の価値を説くことによって、現に進行する産業化・都市化を批判するという形をとった。ただし、この場合の「農村文化」にかかわる主張は、たんに精神論的次元で論じられているわけではない。「農村文化」・「農村文明」建設の主張もまた、多くの論者に共通するものであったが、「農村文化運動とは要するに農山漁村の生活安定問題」(古瀬伝蔵)という表現が端的に示しているように、生活レベルでの改善・向上を含意していたのである。つまり、農業経営の安定や都鄙間の社会的・文化的施設配分の適正化を求める見地に基づいていた。千石興太郎の提唱する「安固快適なる生活」(安固快適生活主義)、山崎延吉の説く「生活価値の意識」も同様の認識によるが、この背景には、生活水準意識の形成もかかわっていた。いずれにしても、農民自身に対しては生活基盤の安定のために、受動的な政策客体ではなく、経済的主体・政治的主体として行動することを求めたのであった。 以上、彼らの主張の根幹をなすのは、日本農業・農村の担い手を家族農業経営として捉え、その生活・生産面での十全な発達を第一義としていることである。同時に、家族労働に立脚する小農経営にとって、村落の持つ意味が重要であること、そしてそれを基盤にした「共同」と「協同」が不可欠であるいう認識も共有していた。彼らの活動が顕著になったのは、農業問題がまさに社会問題として立ち現れてきた時期からであり、資本主義体制下の農業・農村ならびに農民の置かれた現状に危機感をいだき、それぞれの立場から発言し行動していったといえよう。彼らはその危機感にもとづき、産業としての農業の重要性のみならず、家族農業経営という形態および農民の社会的存在価値-戦前にあっては国家的重要性の強調へと直結する-を説く。各自の活動は、農会運動および産業組合運動(経済)・農民党運動(政治)・農民教育への関与等と重点の置方は異なっていたが、それぞれが分かちがたく結びついていた。また、現状すなわち産業化・「近代化」のあり方への批判から、社会運動としての一面も有することになった。 彼らが小農保護的農業政策の確立を主張するとともに、農民には、経済的・政治的主体としての自覚を強調していったことは指摘した通りである。もちろん、土地政策を例にとっても、各自の認識や論点が一致していたわけではない。土地政策の視点から「小農」のあるべき存在形態をどのように考えるかについても、議論は異なる。しかし、彼らは日本農業が現実として家族農業経営によって成り立っており、また、その安定こそが農業・農村・農民はもちろんのこと、社会的・国家的意義を持つのだという認識から、それぞれ発言・活動していった。農業政策への提言もこの認識に基づいていたのである。このように家族農業(家族小農経営)に価値をおき、そこから農業・農村のあるべき姿を模索し、現実に働きかけていこうとした言説・運動を貫くものをペザンティズムと規定したい。このペザンティズムは、戦前期農本主義の核心をなすものであった。しかしそれが必ずしも戦前に限定されないのは、戦後の石黒忠篤の発言などにも明らかである。 すでに指摘したように、農本主義は資本主義への対抗思想としての性格を持っており、資本主義の認識如何によって、その論点は当然異なってくる。現在、産業としての農業が国民経済に占める位置は圧倒的に小さくなったという現実がある。現代における農本主義的主張は、その現実にも規定され、農業・農村の多面的価値を説くものであり、ある種文明論的な色彩を帯びざるを得ない。生産と生活とが一致するような生産様式、いいかえれば「生活(様式)としての農業」への着目が認められるが、むしろ農業・農村からの危機感以上に、「都市」の側からの主張という傾向がつよい。しかしながら実は同時に、依然として家族小農経営が主流である現代日本において、農業の発展とは何か、将来の日本の農業像(理念)をどのように考えるのかという問題ともかかわっているのである。 |