日本の中世には、多くの説話集が作成された。中世は説話の時代という言い方も行われているが、説話は日本文学の全時代を通じて流通している。説話は固有の名をもつ作者が知られることは極めて稀であり、無名性のもとに時代の思潮を表現し、文学の基盤的動向を表すと考えられている。しかし、個々の説話集という形で作品が成立してくる時には、その説話集には、編者もしくは作者という者が存在しており、説話集ごとにある種の個性を持ち、説話集ごとに偏差が存在する。したがって、たとえば説話集の中の説話を無前提にそのまま歴史史料として利用するなどということは極めて危険なことであると言える。まずは、説話も一つの文学作品であるという観点から検討し、その個性なり偏差なりを、いかなるものであるか確認しておく必要があろう。本論文は、中世に成立した説話集を採り上げて、その編者もしくは作者と、説話集の作品としての形成との関わりを明らかにしようと試みたものであり、表現あるいは文体としてどのような特質を持つものであるかを論じたものである。 I「中世説話集の編者」は、説話集の編者としてたまたま固有名の知られている、平康頼・慶政・無住の三人について、伝記的な事実と説話集の編纂との関わりを考察したものである。 「1 平康頼の文学」では、『宝物集』を編纂したとされる平康頼の、伝記的に知られる人格的特徴と、今様・和歌・説話という文学・芸能との関連性を考察し、康頼の人格的特徴が文芸の特徴に反映していることを論じた。「2 慶政の生涯と『閑居友』の編纂」では、慶政の幼時の原体験が、『閑居友』の不浄観説話と節食説話という特徴的な説話を生み出していることを論じている。「3 無住の生涯と著述活動」では、無住の生涯を伝記的に概観し、次の「4 無住と医術」において、無住が東福寺派の中で医術を伝承していたことを明らかにし、副次的に、無住が梶原氏の出身であることを明らかにした。その上で、無住の医術の知識への造詣が、彼の語る説話にある種の特質をもたらしていることを論じている。「5 無住晩年の著述活動」、「附 無住著述関係略年譜」は、五十歳代半ばに『沙石集』を執筆してから没するまでの最晩年を、四期に分けて考察したものである。 II「中世説話集の形成」は、『閑居友』『撰集抄』『沙石集』『雑談集』『聖財集』の作品としての形成を考察したものである。 「1 『閑居友』の成立」では、『閑居友』について執筆動機、執筆方針、執筆意図、構成、思想等多角的に考察し、慶政の徹底した自力救済への意思が、『閑居友』の説話に独自性を与えていることを論じている。「2 『撰集抄』の形成」では、「(1)『撰集抄』概観」において『撰集抄』を全般的に概観し、「(2)『撰集抄』における『閑居友』受容」において、『撰集抄』が『閑居友』の受容を通して説話を創作していることを明らかにした。「(3)『撰集抄』の創作方法」においては、複数の素材を組み合わせて説話を創作し、その一つの説話の創作が契機になってさらに新しい説話が創作されるという、具体的な説話創作の方法が行われていることを明らかにした。さらに、「(4)『撰集抄』における『和漢朗詠集』受容」においては、『撰集抄』巻八の説話がおおむね『和漢朗詠集』に基づいて創作されていることを明らかにし、伝本における二系統の説話配列から、増補の実態を考察した。「3 無住の説話集編纂」では、「(1)『沙石集』の伝本と研究史概観」において、多様な伝本の有り様を整理し、研究史を概観した後、「(2)『沙石集』の成立過程についての一試論」において、一類本系統のいくつかの伝本にのみ見える説話を採り上げて、当該説話の成立時期を推定し、『沙石集』における説話の裏書の本文化の具体的な様相を考察した。「(3)『雑談集』の成立と法然法語『登山状』」においては、無住の編纂した第二の説話集である『雑談集』の、主として巻四の問題点を採り上げ、その執筆年時を推定し、巻四末尾に収められる三十九首にのぼる和歌群が、初め裏書として加筆され、後に本文化したことを推定した。さらに、『雑談集』末尾に「無常ノ言」として収録される文章と、法然法語の『登山状』との関係について、両者を対比的に考察し、無住が『登山状』を引用したことを明らかにした。「(4)『聖財集』の成立過程について」においては、東北大学狩野文庫蔵の『聖財集』が長母寺旧蔵の写本であることを明らかにして、天理図書館蔵『聖財集』の奥書とともに奥書を検討し、板本とも併せて、現存する『聖財集』の三種の伝本の成立過程を考察した。 III「中世説話集の世界」は、I・IIにおいて考察した作品の形成・成立の問題をふまえて、作品としての意味世界を考察したものである。 「1 『撰集抄』の回国性と辺境」では、「(1)『撰集抄』の回国」において、語りの視点という観点から作品世界を分析し、『撰集抄』は移動する視点から遁世者を発見し、彼らの純粋性を語るものであるということを論じた。「(2)辺境へのまなざし」においては、語り手は辺境において純粋の遁世者を発見するが、語り手はその辺境から常に都へ回帰する意識を潜在させていることを明らかにして、『撰集抄』という作品が、辺境へ向かう意識と「都」へ回帰する意識との往還の相において遁世者たちを描いていることを論じている。「2 『撰集抄』の神明説話」では、『撰集抄』における神明説話の構造的な特質を論じて、語り手〈西行〉の移動する視点が捉えた空間は、常に王法の支配下にある領域に止まっており、皇室・藤原氏の二元支配の枠組みの中に回収されるものであったことを論じている。「3 『西行物語』の方法」は、断片的な西行説話を統合して行く方法の一つとして『西行物語』が存在するという仮説に基づいて、その方法を考察し、『西行物語』は「往生伝」を枠組みとして利用し、西行の和歌を仏道修行として構成していることを論じた。「4 『西行物語』の旅と和歌」においては、『西行物語』が和歌を取り込みつつ西行伝を構成していながら、実際の西行が旅の中で詠んだ和歌がほとんど採り入れられなかったことを指摘し、一方で『西行物語』の旅は、都へ回帰する旅として造形されていることを論じている。 IV「中世説話集の表現」は、時代的に、あるいはジャンル的に、中世説話集という枠の内に止まらず、それらを越える範囲を含めて、その表現の諸相を論じたものである。 「1 『撰集抄』の表現」では、『撰集抄』の説話がどのような表現上の特色を持つかを考察し、説話の崩壊あるいは説話の終末を現出してしまう体のものであることを論じている。「2 引用の重層-「野寺の鐘」」は、院政期から中世初期にかけて、「野寺の鐘」という語句が韻文と散文との間で引用されながら、次第に含意の幅を拡げ、時代の共通感覚や思想の一端を荷う言葉として定着して行った様相を探ったものである。「3 『和漢朗詠集』の受容」では、『和漢朗詠集』所収の秀句を中世説話集がどのように受容したのかを、四点に絞って考察した。第一は『和漢朗詠集』所収の秀句をめぐる詩人に焦点を当てる説話であり、第二は『和漢朗詠集』所収の秀句自体を主題とする説話である。第三は『和漢朗詠集』所収の秀句が話中に引用される説話であり、第四は『和漢朗詠集』所収の秀句がレトリックとして利用される説話である。とりわけ4のようにレトリックとして利用される文体は、説話以外の同時代の他のジャンルにも見られるものであり、中世の衒学的な文章作法に連なるものであることを指摘している。「4 法語と説話-明恵の法語を中心に」では、語義的に重複する点の多い「法語」と「説話」との実際の有り様を、明恵の法語『阿留辺幾夜宇和』を例に取りながら、「法語」と「説話」との共通点と相違点とを論じ、文体的な特質を論じた。 |