8世紀半ばの『万葉集』から10世紀初頭の『古今和歌集』までの150年間、和語(漢語に対して和語と呼ぶ)による和文字(漢文学に対して和文学と呼ぶ)は歴史書などに歌がわずかに残されているだけで、「国風暗黒時代」と呼ばれるような、いわば空白の時代であったかの印象を受ける。『古今和歌集』が編まれて以降、10世紀半ばから『土佐日記』『竹取物語』『多武峯少将物語』と特色をもった仮名文学(いわゆる平仮名で書かれた文学)が次々に書かれ、『蜻鈴日記』『枕草子』『源氏物語』『和泉式部日記』『栄花物語』など、11世紀の隆盛を迎える。この一気の隆盛は、空白とみえる8世紀後半から10世紀の間が仮名文学の準備としてじゅうぶんな仮名文の蓄積をもったことを示している。しかし、仮名文の成立と習熟だけでは、仮名文学は生まれない。 従来の文学史は、公的な文である漢文では個人の内面をえがけず、私的な文である仮名文によって始めてえがきえたと考えている。そして、『土佐日記』が「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」と女の立場から書かれていることと関係して、政治的な関係のなかに身を置かざるをえない男に対して、女が自由な立場にいられたことが、平安期の女流文学の隆盛をもたらしたことを指摘する。しかし、個人の内面は漢文でも書けるし、女も宮廷の制度に組み込まれていた。むしろ、女の社会的な位置の高さが教養の高さに繋がり、女手と呼ばれる仮名文学の隆盛をもたらしたに違いない。このような従来の論は、文学を内面の表現とする、近代以来の自我の表現を中心にみる文学観、そして体制からの疎外者を憧憬する、近代的なロマンティシズムに基づいた考え方によっている。 さらに、漢文学をほとんど無視して、仮名による文学こそが日本人の文学だというナショナリズム的な考え方がある。日本人も、多和田葉子のように、ドイツで評価されるドイツ語の文学は書ける。平安期は漢文の文学と仮名の文字が並立、競合していた。にもかかわらず、仮名文学だけに価値を置くのは、いわば言文一致的なイデオロギーといっていい。 そこで、文学の評価の基準を、個人の内面に置くのではなく、言語表現としての価値、そしてそれぞれの時代の文学が担った課題とでもいうべきものにおいて、作品を考察し、奈良時代から平安初期の文学を関連づけようと試みたのが本論文である。「和文学の成立」と題したのは、漢文学との関係においてあること、『万葉集』が仮名文学に繋がるものであること、そして、漢文学をはっきり意識した文学の最初である大伴旅人、山上憶良らにおける文学の成立と、平仮名の文学を意識した『古今和歌集』、『土佐日記』などにおける文学の成立と、二つの画期を考えたかったからである。 I「『日本霊異記』の歴史」は、『日本霊異記』から読みとれる、奈良時代の人の心のあり方と社会を考察した。文学の側からみる歴史という問題を論じたともいえる。たとえば、中巻「行基大徳提子女人視過去怨令投淵示異表縁第三十」は、行基が、常に母にすがりつき泣きわめく子が前世で母の債権者であったことを見抜く話だが、これは自分の子でさえどういう存在かわからないという子に対する異和感を語るものであり、他にも母がその養育を子への貸しとして語る話などがいくつかみられることも含め、母子の関係が揺らいでいる社会をあらわしていることを論じた。そして、逆に母子の結びつきの深さを語る話もあることから、結局、それまでの安定した家族関係が崩壊し、新たな関係を求めていた時代の表現であると論じた。 本章では、他に愛欲が問題になる話、都市的な生き方が語られる話など取り上げ、『日本霊異記』は、新たな都市的な個人に基づいた生活思想や倫理を求めていた奈良時代を表現していることを論じた。さらに、蛇に犯された女から蛇の子を堕す話(中巻41縁)は堕胎の方法が詳しく述べられているが、それは編者の仏教による世界の把握という意図を超えて、医療と現実への関心を語っており、生活思想と同時に文学の問題がみえることも論じた。 II「『万葉集』の表現史」では、山上憶良、大伴旅人、大伴家持を取り上げ、『万葉集』の後期の文学にとって何が課題であったかを論じた。憶良は、前章で明らかにした奈良時代の問題に国守として直接的に対応しようとしたかのように、生活倫理を説いていることを、嘉摩三部作といわれる長歌と反歌の三組(巻5・800〜6)で論じた。そして、土地の伝承を記す歌を詠むのも、国守という立場から任地を巡行して「風俗」をみるという律令の規定を実行したものであり、そういう経験から「貧窮問答歌」なども作られるようになると論じた。旅人では、大宰の帥であった旅人が京へ帰るとき赴任中に亡くなった妻への想いを詠む歌を取り上げ、それらが年月を記していること、旅人の旅に具体的に添ったものであることを指摘し、いわば日記的に記録することから、私的な想いによって一定の期間に一貫したものとして歌を詠むことが行われたことを論じた。これは『土佐日記』ときわめて似ているものであることも述べた。家持については、旅人の課題をさらに展開し、歌日記的なものを意識的に書いていくことの意味を論じた。そして、京の親族との間に手紙が交わされていることを取り上げ、私的な領域から歌を詠もうとしていることを論じた。 これらと関係して、憶良も旅人も、大宰府赴任中に漢文の序をもつ歌を書いているが、その歌が一字一音の音仮名表記であることに注目し、漢文学に対して和文学として意識され、平安期の仮名文学に繋がることも論じた。 III「仮名文学の成立」は、『古今和歌集』『土佐日記』『多武峯少将物語』『竹取物語』を取り上げた。『古今和歌集』では、仮名はわずかの文字を覚えればいいことだから、文字の大衆化とでも呼べる状況を生みだしたことを論じ、恋の歌が基本的に始まりから終わりまでというように配列されていることから、恋愛生活のモデル的なものになったことを述べ、それも大衆化に繋がるゆえ、歌人たちは文学つまり美としての和歌をいかに詠むかが課題であったと論じた。縁語のような掛詞による技法が発達したのも、その言語表現にとっての美という問題ゆえと論じた。また恋の始まりから終わりまでという配列は恋の物語を想定させるものであり、一首の恋の歌が物語の一場面であるかのように作られていることを指摘し、実際に詠まれた場面に限定されている『万葉集』の歌とは異なることも考察した。『土佐日記』は、漢文訓読文をモデルにして仮名で書くことを試みたこと、そして、大伴旅人の任地で妻を亡くしての帰京というテーマを取り込むことで文学にしたことを、『多武峯少将物語』は、手紙の贈答、会話が多いことと、いわゆる地の文は稚拙であることを指摘し、奈良時代以来の仮名文の習熟の過程を辿り、手紙文を使うことで仮名物語を書こうとしたものと、『竹取物語』は、散文文学の虚構という問題を、『万葉集』の「竹取の翁」の歌を受けて、仮名散文文学として書こうとしたものと論じた。 このように、特に初期の仮名文学は日記、手紙、物語というそれぞれの課題をもって書かれているが、それはいかに仮名で文学を書くかという試みがさまざまに行われたことを示しており、その試みが仮名文学の隆盛をもたらすことになったと論じた。 IV「郊外文学論」は、日本の文学は自然とのかかわりが深いが、それは、都市の周辺の郊外とでも呼ぶべき境界的な空間をもつことと関係していることを論じ、郊外における文学を考察した。いわゆる古代歌謡は自然を農耕などとの関係において詠み、自然そのもの、自然との接触を詠む歌は『万葉集』からであることを指摘し、和歌や物語に自然描写が多くみられるのはむしろ都市的な文化だと論じた。それは、中国の都城をモデルにしながらも城壁をもたなかったことと関係し、外と内を対立的にではなく、並立し競合するものとして捉える文化だと論じた。和歌の自然の事象を上の句に人事を下の句に置く二分構造も、そういう文化の言語表現とみなし、比喩や擬人法というような、人間中心の近代的な発想をそのまま当てはめて古典を理解するのは誤りであることも述べた。具体的には、『万葉集』『古今和歌集』における自然に触れる歌が郊外のものが多いことを指摘し、郊外文化とでもいえるものを明らかにした。そして、平安初期は、郊外への行幸従駕では漢詩が詠まれており、『古今和歌集』がそれを受け継いだことも論じた。 III章、IV章には補論として「平安漢文日記の歌」「平安都市人の一年」「都市生活と郊外」と題した、漢文私日記から抽出した史料とかんたんな解説を付してある。 |