縄文時代人から現代日本人へ至る過程で歯槽性突顎と前歯の咬合形態が著しく変化することは従来より指摘されてきた。一方、海外の先行研究により、前歯前突の程度が加齢もしくは咬耗と関連すること、これが隣接歯間空隙の調整に機能すること、前歯の咬耗と咬合形態が密接に関係することなどが提唱されてきた。しかしながら、内外の諸研究にはこれらの事象を包括的に取り扱った例はない。本論文は日本の古人骨資料を活用し、前歯の咬耗と傾斜との関連、これと上下歯列の咬合形態、隣接歯間空隙の発達との相互関係を実証的に追求するものである。また、前歯咬耗のこうした多岐に渡る影響の普遍性を検討し、日本人形成論におけるその意義を論ずる。特に、本研究により前歯の咬耗と傾斜との関係が初めて直接的に示され、これが議論の核となっている。また、前歯前突の程度がその咬耗度に大きく依存しながらも、系統的出自、顎骨発育、咀嚼習慣など様々な要因に規定され、日本人諸集団における時代変異が生じたことが明らかとなった。 本論文は三部からなり、第一部は縄文時代から現代に至る歯槽性突顎および前歯前突の時代変化を明らかにし、第二部は日本人の永久歯列における咬耗パターンの時代変化を論じ、第三部は前歯前突と咬耗の相互関係を直接的に取り上げ、結論を導く。 第一部では歯槽性突顎を再考し、前歯傾斜との関連を探る上でより適切な測度を考案し、先行研究の結果と対比した。その結果、従来、鎌倉時代人の独特な特徴とされていた強い歯槽性突顎は認められず、より一様な時代変化が検出された。また、歯槽性突顎と前歯前突を同一視することの危険性が示され、日本の古人骨資料においては前歯前突そのものの時代変化を初めて明らかにした。 第二部では縄文時代人から現代日本人に至る各集団において咬耗速度を各歯列部位ごとに調べ、歯列全体としての咬耗様式の集団差を明らかにした。内外の類似先行研究には様々な方法論的問題が存在し、本研究でこれらを部分的に解消した意義は大きい。特に年齢推定が可能な未成年個体群の解析により、先ずは咬耗速度の集団差の評価を行い、これを基盤とし、各日本人集団間の咬耗様式の変異を考察した。また、隣接面咬耗による歯冠近遠心径の減少程度を推定した。その結果、前歯と後歯の咬耗度のバランスには様々な集団間変異が存在し、目的に応じて咬耗度の評価方法を設定する必要が明らかとなった。 第三部では先行研究および本論文の前二部の成果を十分に踏まえ、前歯咬耗と前歯前突の測度を直接取り扱い、その相互関係を各集団で調べた。その結果、咬耗前では集団差は比較的小さく、どの日本人集団も前歯前突の傾向が存在するが、咬耗の進行に伴い、明らかに舌側方向へ傾斜し、歯冠高が約1/3から1/2まで咬耗が進むと切歯はほぼ直立することが示された。この時、咬合形態が鋏状咬合から鉗子状咬合へと段階的に移行する。その要因が上顎切歯の著しい舌側傾斜にあることが特定され、先行研究によって提唱されてきた他の要因は否定された。また、咬耗に伴う近心移動は前歯部では重要でなく、舌側傾斜によって隣接歯間空隙が回避されていることが示された。なお、前歯の傾斜変化は量的に歯槽骨全体の傾斜変化を遥かに上まり、舌側傾斜は連続的萠出とそれにまつわる歯槽骨の骨改造によるとの見通しを得た。また、鎌倉時代人以降では萠出時の前歯前突の変異が大きく、これが咀嚼習慣の強弱、歯と顎骨の大きさのバランス、前歯と後歯咬耗のバランスなどにも依存することが示唆された。即ち、現代日本人における比較的強い前歯前突傾向は咬耗の減少を基盤としながらも様々な要因が複合的に寄与しているとの結論を得た。 このように本論文は独創的な視点と解析方法により、咬耗と前歯部の形態変化の関係とその人類学的意義について格段の知識の進展をもたらし、博士論文としての価値を十分に有すると判定された。従って、博士(理学)を授与することを認める。 |