学位論文要旨



No 214212
著者(漢字) 海部,陽介
著者(英字)
著者(カナ) カイフ,ヨウスケ
標題(和) 歯槽性突顎と前歯前突に与える歯牙咬耗の影響
標題(洋)
報告番号 214212
報告番号 乙14212
学位授与日 1999.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第14212号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 諏訪,元
 東京大学 教授 木村,賛
 東京大学 教授 鈴木,隆雄
 東北大学 教授 百々,幸雄
 日本大学 教授 金沢,英作
内容要旨

 人類は、過去およそ1万年間に、農耕革命や都市化、産業革命など、生活環境の劇的な変化を経験してきた。こうした変化は生活をより豊かにした一方、我々の身体に様々な影響を及ぼしている。このような影響の詳細を知ることは、現代人の健康と病理を理解する上で重要であるが、その1つの最も有効な方法は、人骨資料を用いて、現代人と古代人の健康状態や身体形質を比較対照することである。本研究では、日本の古人骨資料を用い、「歯槽性突顎」(上顎歯槽骨前面の側面観における傾斜度)および「前歯前突」(出っ歯)について、縄文時代から現代に至る時代変化を調べ、その成因を検討した。またさらに、その結果をもとに、現代人における前歯部の咬合形態が進化適応的観点からどのように解釈されるかを考察した。

第1部日本人における歯槽性突顎の時代変化

 日本人の歯槽性突顎の時代変化についての従来の研究は、歯槽性突顎の定量法に問題があった。そこで本研究では、縄文、弥生、古墳、鎌倉、室町、江戸時代および近現代の7集団について、従来と異なる新たな計測法に基づいて歯槽性突顎と前歯前突の時代変化を調べたところ、これまでの解釈と異なる結果が得られた。本研究結果の示すところでは、前歯前突は時代を追って強まっているが、特に縄文時代と弥生時代の間での変化が著しく、弥生時代以降の変化幅は小さい。一方、歯槽性突顎には大きな時代変化は認められなかった。

 本分析から明らかになった前歯前突の時代変化の要因について検討した結果、歯の咬耗パターンの時代変化が主要因である可能性が示唆された。一方、従来の他の仮説は、どれも前歯前突の時代変化を包括的に説明することができないと結論づけられた。

第2部日本人における咬耗パターンの時代変化

 第1部で指摘した、前歯前突の時代変化の要因についての可能性を実証的に検討する下準備として、日本人における咬耗パターンの時代変化を調べた。用いたサンプルは、縄文、弥生、鎌倉、江戸時代および近現代の5集団である。

 分析の結果、前歯と後歯の咬耗度の時代変化は同様でないことが示された。後歯の咬合面咬耗は、縄文時代人と弥生時代人ではほぼ同程度に激しく、鎌倉時代人でも比較的激しいが、江戸時代以降の集団では軽くなっていた。一方、前歯の咬合面咬耗は、縄文時代から弥生時代にかけて急激に減り、鎌倉時代人ではさらに軽くなって近現代へ至るという変化パターンを示した。また、咬耗による歯冠近遠心径の損失量を検討した結果、縄文時代人では大きな量の損失が検出され、弥生時代人と江戸時代人の男性でも軽度の損失が確認された。最後に、前歯と後歯の咬耗パターンの時代変化を生じた原因について考察した。

第3部前歯前突と歯牙咬耗

 縄文、弥生、鎌倉、江戸時代および近現代の5集団について、集団ごとに、前歯の咬合面咬耗の進行に伴う歯槽性突顎、前歯前突、咬合形式、隣接歯間空隙などの状態の変化を調べた。

 その結果、まずどの集団でも、永久歯列形成期には前歯(特に上顎歯)はある程度前突しておりかつ前歯部は鋏状咬合の状態にあることが判明した。次に縄文時代人では、これらの形質が前歯の咬耗に伴って劇的に変化していることが示された。つまり縄文時代人では、前歯の咬耗が激しいために生じる前歯部の隣接歯間空隙を埋めるように、前歯(特に上顎歯)が歯列に対してほぼ直立するまで後方へ大きく傾斜して行き、その結果初期の前歯前突が次第に弱まるとともに鉗子状咬合が達成されるのである。

 次に、第2部で判明した咬耗パターンの時代的変異についての知見を織り交ぜて、咬耗に伴う前歯部形態変化の傾向を各集団間で対照した結果、この変化についての群間変異が、主に前歯の咬耗度に依存していることが明らかになった。つまり、縄文時代人に認められたような変化は、他の集団ではより軽度にしか生じていないが、これは他の集団では前歯部の咬耗がより軽いためであると解釈される。そして前歯前突の時代変化は、基本的に、時代を追って前歯部の咬耗量が減ったために、歯列形成期の前歯の前突状態が維持される傾向が強まったことによって生じたと言える。

 このように、本研究からは、過去1万年間に生じた咬耗量の減少が、顎顔面・咬合形態の大きな変化を引き起こしたことが示された。人類は、数千年前まで常に咬耗の激しい環境下に置かれてきた。咬耗により歯の外形は変化するが、それでも機能的な咬合を維持するには、歯が移動して隣接歯間の歯牙接触を維持するなどの必要があり、人類はこれまでの進化適応の歴史の中で、このような激しい咬耗の存在を前提とした咬合の発育形成機構("咬耗に対する生理的補償作用")を発達させてきたと考えられる。この文脈において、前歯前突が弱く鉗子状咬合を示す縄文時代人の状態が人類元来の適応的状態と考えられ、現代人では、咬耗量が大きく減少したことにより、この元来の発育機構が部分的に乱された結果として、前歯の前突傾向を生じたと解釈できる。

審査要旨

 縄文時代人から現代日本人へ至る過程で歯槽性突顎と前歯の咬合形態が著しく変化することは従来より指摘されてきた。一方、海外の先行研究により、前歯前突の程度が加齢もしくは咬耗と関連すること、これが隣接歯間空隙の調整に機能すること、前歯の咬耗と咬合形態が密接に関係することなどが提唱されてきた。しかしながら、内外の諸研究にはこれらの事象を包括的に取り扱った例はない。本論文は日本の古人骨資料を活用し、前歯の咬耗と傾斜との関連、これと上下歯列の咬合形態、隣接歯間空隙の発達との相互関係を実証的に追求するものである。また、前歯咬耗のこうした多岐に渡る影響の普遍性を検討し、日本人形成論におけるその意義を論ずる。特に、本研究により前歯の咬耗と傾斜との関係が初めて直接的に示され、これが議論の核となっている。また、前歯前突の程度がその咬耗度に大きく依存しながらも、系統的出自、顎骨発育、咀嚼習慣など様々な要因に規定され、日本人諸集団における時代変異が生じたことが明らかとなった。

 本論文は三部からなり、第一部は縄文時代から現代に至る歯槽性突顎および前歯前突の時代変化を明らかにし、第二部は日本人の永久歯列における咬耗パターンの時代変化を論じ、第三部は前歯前突と咬耗の相互関係を直接的に取り上げ、結論を導く。

 第一部では歯槽性突顎を再考し、前歯傾斜との関連を探る上でより適切な測度を考案し、先行研究の結果と対比した。その結果、従来、鎌倉時代人の独特な特徴とされていた強い歯槽性突顎は認められず、より一様な時代変化が検出された。また、歯槽性突顎と前歯前突を同一視することの危険性が示され、日本の古人骨資料においては前歯前突そのものの時代変化を初めて明らかにした。

 第二部では縄文時代人から現代日本人に至る各集団において咬耗速度を各歯列部位ごとに調べ、歯列全体としての咬耗様式の集団差を明らかにした。内外の類似先行研究には様々な方法論的問題が存在し、本研究でこれらを部分的に解消した意義は大きい。特に年齢推定が可能な未成年個体群の解析により、先ずは咬耗速度の集団差の評価を行い、これを基盤とし、各日本人集団間の咬耗様式の変異を考察した。また、隣接面咬耗による歯冠近遠心径の減少程度を推定した。その結果、前歯と後歯の咬耗度のバランスには様々な集団間変異が存在し、目的に応じて咬耗度の評価方法を設定する必要が明らかとなった。

 第三部では先行研究および本論文の前二部の成果を十分に踏まえ、前歯咬耗と前歯前突の測度を直接取り扱い、その相互関係を各集団で調べた。その結果、咬耗前では集団差は比較的小さく、どの日本人集団も前歯前突の傾向が存在するが、咬耗の進行に伴い、明らかに舌側方向へ傾斜し、歯冠高が約1/3から1/2まで咬耗が進むと切歯はほぼ直立することが示された。この時、咬合形態が鋏状咬合から鉗子状咬合へと段階的に移行する。その要因が上顎切歯の著しい舌側傾斜にあることが特定され、先行研究によって提唱されてきた他の要因は否定された。また、咬耗に伴う近心移動は前歯部では重要でなく、舌側傾斜によって隣接歯間空隙が回避されていることが示された。なお、前歯の傾斜変化は量的に歯槽骨全体の傾斜変化を遥かに上まり、舌側傾斜は連続的萠出とそれにまつわる歯槽骨の骨改造によるとの見通しを得た。また、鎌倉時代人以降では萠出時の前歯前突の変異が大きく、これが咀嚼習慣の強弱、歯と顎骨の大きさのバランス、前歯と後歯咬耗のバランスなどにも依存することが示唆された。即ち、現代日本人における比較的強い前歯前突傾向は咬耗の減少を基盤としながらも様々な要因が複合的に寄与しているとの結論を得た。

 このように本論文は独創的な視点と解析方法により、咬耗と前歯部の形態変化の関係とその人類学的意義について格段の知識の進展をもたらし、博士論文としての価値を十分に有すると判定された。従って、博士(理学)を授与することを認める。

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