学位論文要旨



No 214217
著者(漢字) 姜,再鎬
著者(英字)
著者(カナ) カン,ゼホ
標題(和) 植民地朝鮮の地方制度
標題(洋)
報告番号 214217
報告番号 乙14217
学位授与日 1999.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第14217号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西尾,勝
 東京大学 教授 大森,彌
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 森田,朗
 東京大学 助教授 木宮,正史
内容要旨

 地方制度は国の統治制度の一角をなすもので、地方自治と地方行政の両者を有機的に結び付けるものである。地方団体が国あるいは国民によって授けられたり認められた権限に基づいてその内外に対して有する自律を地方自治といい、国の地方官庁あるいはその役割を担うものがその管轄区域内においておこなう行政を地方行政と呼ぶことにする。戦前の近代日本に即しておおまかにいえば、地方自治の主流は明治4年5月の戸籍法に端を発したいわゆる大区小区制に始まり、同11年7月の郡区町村編制法などの3新法を経て、同21〜23年の市制町村制、府県制、郡制へといたり、他方の地方行政の流れはそれに対応する形で、廃藩置県後の同4年12月の府県官制に発し、同11年7月の府県官職制を経由し、内閣制の創設に伴い諸官制の制定改定が慌ただしく行われるなかで、同19年7月には地方官官制を生み出すにいたった。このような構造・系統に即していえば、戦前の地方制度の最たる特徴は、勅令の地方官官制に基づいておかれた地方官庁たる府県知事をして法律の府県制に根拠をもつ地方団体たる府県の執政機関をかねしめるところにあった。

 なお、台湾、樺太、関東州、朝鮮、南洋群島の諸外地にそれぞれ特殊の地方制度が設けられていたことはいうまでもない。

 本論文は上記のような基本認識のもとで、植民地朝鮮における地方制度の形成および進化を主として制度論的視点から考察したものである。本題に入る前に、まず第1章において朝鮮国後期の地方制度のあり方を概観したのち、第2章では、明治38年11月締結の第2次日韓協約後における統監府による諸「施政改善」を取り上げ、植民地朝鮮の地方制度にかかわる前史にふれた。第3章および第4章が本題にあたるものである。そこでは、統監府にかわって設けられた朝鮮総督府の手になる新しい地方制度づくり(第3章)と、大正8年3月の朝鮮独立運動後における地方制度の改正等(第4章)を考察した。

 こうした時系列的な考察を進めるにあたり特に心掛けたものはつぎの3点である。

 第1点は、上記に示した地方制度の構造に着目して地方自治および地方行政の両方に留意して考察をおこなうことであった。

 戦後の日本国憲法に地方自治と題する章を設けるなど地方自治を大きく推進した戦後改革以降、ごく一部の用語法をのぞき、地方制度という語は半ば死語化し、また地方行政という語も、地方公共団体がその権限において自主的におこなう活動であるところの行政(自治体行政)の意味で用いられているように思われる。これは現在の韓国においても同じである。しかし、近代以降の主権国家体制が存続するかぎり、国の地方制度はなくならず、それゆえ、地方に関する国の統治制度の構造を的確にとらえるためには、地方自治と地方行政の両面を合わせ持つ地方制度の視点に立つ必要がある。地方自治よりは地方行政の方に重点をおいていた戦前の地方制度の考察では、こうした視点は欠かせないものとなるであろう。

 第2点は、植民地朝鮮の地方制度の大枠ともいえる明治地方制度の歩みに注意を怠らないことであった。つまり、「植民地」朝鮮の地方制度を規定する朝鮮総督府地方官官制をはじめ府制、邑面制、道制、朝鮮学校費令などの諸法令は、朝鮮の事情を反映して定められたものであることはいうまでもないが、それにも増して、「本国」の府県官職制・いわゆる3新法、地方官官制・市制・町村制・府県制といった明治地方制度の歩みに強く規定されたものなのである。これは地方制度が国の統治制度の一つであることの当然の帰結である。この点を踏まえ、さらに、明治地方制度の特例(沖縄、北海道、樺太)や、他の外地(台湾、関東州)の地方制度にも目を配りつつ、朝鮮地方制度の位置づけを吟味した。

 第3点は、事実記述に重点をおくことであった。植民地朝鮮の地方制度についての先行研究は極めて乏しい。これは日韓両国に共通していえることである。こうした現状のもとで、事実の裏付けなしにイメージや価値判断を先走らせるようなことはこれを排し、政治的価値判断にかかわる事象については必要最小限の考察にとどめ、地方制度を枠づける諸法令の制定・改正および運用実態を事実に即して淡泊に記述するよう努めた。これには一次資料の確保が先決課題となるが、記述に際しては、数少ない先行研究においてほとんど用いられることのなかった朝鮮総督府内部資料をはじめ、総督府関係者資料、総督府刊行物、当時の朝鮮語の新聞・雑誌を含む関係大衆媒体誌などを大いに用いた。これにより、地方制度なかんずく地方自治制度の形成・進化過程、公選制および地方議事機関の運用実態、ならびに準戦時体制・戦時体制期における地方制度の変容などが多少明らかになった。

審査要旨

 本論文「植民地朝鮮の地方制度」は、日本国政府の圧力の下で朝鮮国の親日政権が実施した世に言う「甲午更張」の内政改革の一環である地方制度改革の試みから筆をおこし、日本国政府が韓国に統監府を設置し同国を日本の保護国としていた時期、及び日本国政府が日韓併合に踏み切り、統監府に代えて朝鮮総督府を設置し朝鮮を日本の植民地として統冶していた時期を通ずる、朝鮮の地方制度の形成と変遷の全過程を制度論の視点から詳細に考察し直した通史である。

 本論文の本体は、上記の期間を4期に区分し、それぞれの時期に試みられた地方制度の改革とその帰結を順次時系列的に考察している第1章から第4章に至る4章であるが、この本体に先立つ「はじめに」では、先行研究についての簡単な紹介と論評をした上で、本論文では日本の内地における地方制度の歩みをつねに念頭におきつつ、これと対比しながら植民地朝鮮における地方制度づくりの過程を史実に即して淡泊に考察することを基本方針とする旨を述べ、合わせて本論文で言うところの「地方制度」の概念について簡潔に解説している。そして本体に続く「おわりに」では、日本の地方制度づくりの作法にかかわるいくつかのキー・タームを用いながら、植民地朝鮮の地方制度のなかに打ち込まれていた特色を整理し、本論文の結びに代えている。

 「はじめに」では、本論文に言うところの「地方制度」とは、「地方行政」に係る制度と「地方自治」に係る制度の双方を包括した概念であり、戦前の内地の制度づくりの作法に即していえば、「地方行政」とは、勅令の地方官官制に基づいて定められる国の普通地方行政区画ごとに置かれる普通地方行政官庁又はその役割を担うその他の諸機関がその管轄区域内で行う国の行政を意味し、「地方自治」とは、地方団体法の定めに基づいてその区域と住民と自治権を有する府県・郡・市町村などの地方団体による自治を意味するとする。

 第1章「旧地方制度の張り替え」は、日本国政府の圧力を受けて朝鮮国がその独立を宣し清国離れをして以降、朝鮮半島をめぐって日露両国が角逐していた時期を対象にしている。

 まず第1節では、朝鮮国後期の旧地方制度について概観し、国の第1級の普通地方行政区画であった道等には国王の代官として観察使が、もう一段下の第2級の普通地方行政区画であった府牧郡県等には国王の代官として守令が派遣され、これら観察使及び守令の施政権は国王の施政権の縮図であり、官制上は司法権・軍事権・外事権まで含み、及ばざるところのない広さをもっていたとする。そして道等の監営及び府牧郡県等の郡衙はそれぞれ中央官衙を小型化したような体裁を整えていたのであるが、これら国王の代官たる観察使及び守令に随行して中央から天下る直属の配下はごく少数に止まり、その他の配下の吏属・郷吏はすべて土着民で固められ、府牧郡県等のレベルの郷政の諮問・議事機関として設置されていた郷庁は完全に地方門閥勢力の牙城であった。そこで、守令の施政権は地方行政官庁たる守令、議会役をつとめる土着門閥勢力、そして補助機関たる吏属・郷吏の土着民の3極に事実上分有されていたと考えられるという。

 第2節では、このような旧地方制度を近代化すべく甲午更張政権が制定公布しながら、その2カ月後に甲午更張政権が倒壊したために実際にはほとんど施行されず、さりとて廃止もされずにそのまま放置された郷約弁務規程と郷会条規の意図と内容を詳しく紹介している。そこには三新法の制定、市制町村制・郡制・府県制の制定など明治前期日本の地方制度づくりの歩みを参考にした形跡が明白であり、「地方自治」の要素まで含む新しい地方制度が構想されていたからである。

 第3節では、甲午更張政権の後を継いだ親露政権の下では逆コースの流れもあったが、朝鮮国駐剳公使井上馨が甲午更張政権に対して提示した内政改革案のすべてが否定されたわけではなく、その近代化方策の一部は親露政権下でも着々と実現されていったとし、この時期の近代化の諸方策が府牧郡県レベル以下の地方行政に近代的な分離・分業の原理を持ち込み、土着勢力の影響力を徐々に弱め、地方の小宇宙の勢力関係を再編成していった過程を細かく考察している。そして最後の第4節では、上記の近代化方策の一環として企てられた郡県分合がいかに難航したかを叙述し、その背景について考察している。

 第2章「地方行政の進化と地方自治」は、日露開戦後から始まった「顧問政治」の時期、及び日露講和後の明治38年に統監府が設置され韓国が保護国化され、さらに明治40年成立の第3次日韓協約及び付随不公表覚書に基づいて「次官政治」が行われていた時期を対象にしている。

 まず第1節では、財政顧問が警務顧問の協力を得ながら推進した徴税機関ついで財務機関の普通地方行政官庁からの分離・特設の経緯について述べ、これによって土着両班や儒者らが地方施政に参画する場面をほどんど奪われたとともに、地方官公吏による隠戸・隠結及び人民による故意又は過失による漏戸・漏結を発掘し、国の収入源であると同時に統治の対象でもあった版籍をほぼ確実に捕捉し得るに至ったことに、その最大の意義があったという。次いで、同じく財務顧問によって推進され、漢城府及び各道ごとにその公共事業経費に充当することを目的に創設された地方費は、明治34年に北海道会法と同時に制定された北海道地方費法の体裁に範を求めた一種の地方団体であったが、北海道地方費の制度とも異なり議事機関としての府会又は道会すら設置されず、地方団体としての実体をもたないものであったとする。そして、このような変則的な地方団体を道等のレベルに敢えて創設し、これをして国税とは別途の賦課金を徴収させるようにした専らの理由は、日本人官吏の採用増を主たる要因とする歳出予算の年々の膨張にもかかわらず、国税歳入額が歳出予算の半分にも達しないという当時の財政の窮状を緩和するためであったという。

 第2節では、初代統監伊藤博文の発議によって設置された地方調査委員による地方制度調査について概説した上で、この調査の本来の主眼であった大規模な合郡の企ては、国王の降位と軍隊の解散に触発された排日の義兵が各地に蜂起していた当時の状況から先送りされたものの、日本軍憲兵と日韓人警察の全国配備が進むにつれ、その支援を得て、郷長制度の廃止など在郷門閥勢力を地方庁から駆逐し郡県制を強化していくための諸方策、及び吏員の世襲の禁止、定額俸給制の徹底、資格任用制の一部導入など道庁・郡庁の組織を近代官僚制組織に変えていくための諸方策が着々と推し進められていったとする。しかしながら、郡県制や官僚制の整備強化は必ずしも官僚制組織の作動原理の確立につながるものではなかった。何故ならば、「次官政治」下では、内地の次官・副知事・助役などに相当するポストに就任した日本人韓国官吏とその官制上の韓国人上司との間では官僚制組織の作動原理の多くが正常に働かなかったからであるという。

 第3節では、この時期に急速に台頭していた地方自治制度の創設を求める論議の系譜をたどることによって、先行研究が見落としがちであった地方制度史のもう一つの側面に光を当てようとする。すなわち、地方調査委員及び韓国政府の内部の韓国人官吏の間には先の郷会条規の実施など地方自治制度の導入を求める動きが度々あったこと、これに触発され呼応するかのように、当時の新聞雑誌には日本の地方自治制度を解説したものを中心に地方自治について論じた論説が続々と掲載されていたことなどが紹介され解説されている。

 第4節では、住民自治の実践運動として民会又は民団を設立する自発的な動きも首府の漢城府を初め各地に見られたが、これらの民会又は民団の設立に際してそのモデルになっていたのは在韓日本人の居留民団がその自治によって学校の設置・運営など公共事務を幅広く処理している姿であったとし、明治38年の帝国議会による居留民団法の制定及び翌39年の統監府令・居留民団法施行規則の制定に至る経緯、並びに人口要件等を満たせず居留民団を設立することができなかった地域における日本人会が学校を設置し運営することを容易にするために明治42年に統監府令・学校組合令が制定されるに至った経緯について紹介し解説している。

 第3章「朝鮮地方制度の形成」は、明治43年の日韓併合により朝鮮総督府が設置され、朝鮮が日本の植民地となって以降、大正8年3月1日に朝鮮独立運動が勃発するまでの時期を対象にしている。植民地朝鮮の地方制度としては、当初は、漢城府及び各道に設置されていた地方費を除けば、朝鮮総督府地方官官制に基づく地方行政官庁の制度しかなかった。そこで、内地の地方制度の展開に照らしていえば、地方制度にかかわる次の課題はしかるべき地方自治制度を模索し導入して、各級の普通地方団体を創設することであった。

 そこでまず第1節では、併合の直後に制定された朝鮮総督府地方官官制について論じ、この新たな地方官官制が普通地方行政区画とこれを管轄区域とする普通地方行政官庁として、道・道長官→府・府伊又は郡・郡守→面・面長の三層構造を定め、面および面長に関する規定を新設し、面長を官吏待遇にしたことを述べ、これは、内地において三新法体制から市制町村制への移行に並行して行われた地方官官制の改正の動向とは逆行したもので、その後の植民地朝鮮の地方制度づくりの行方を大きく規定する結果になったとする。なお、同官制は面長の手当及び事務執行に要する費用は面の負担とすると定めたが、これは、先の地方費の制度と同様に、面が面長手当等の費用負担にその権限を限定された、実体を伴わない地方団体に擬せられたことを意味するという。

 続いて、内務部が明治44年にまとめたと考えられる、本文45頁からなる内部資料『朝鮮地方制度改正ニ関スル意見』の内容について詳細に紹介している。この内務部『意見』は、朝鮮総督府附属図書館所蔵の図書資料等を引き継いだ韓国国立中央図書館に収蔵されているものであるが、先行研究ではほとんど言及されていないからである。ところで、この内務部『意見』は、従来の地方費に法人格を付与するとともに、従来の居留民団に代えて新たに創設される府と在来のすべての面を法人格を有する地方団体とし、従来居留民団により設置・運営されていた内地人児童に対する教育事務は学校組合の経営に移管することを骨子にしたものであったが、同『意見』には、こうした内務部の構想に対して朝鮮総督府内外に存在した各種の異論に論及しこれらの異論に対して反論している論述も含まれており、これによれば、意見が最も顕著に分かれていたのは内鮮人双方の児童に対する学校教育行政体制をいかに再編成すべきかという点であったとする。

 第2節では、上記の内務部『意見』に提示されていた府制案が朝鮮総督府内外にあった種々の異論にもかかわらず大筋において維持され、これが朝鮮総督府提出の府制案として本国の法制局の審査に付され、ここでも若干の微修正が加えられたものの、大正2年10月には改正学校組合令と同時に制定・公布され、大正3年4月に施行されるに至るまでの一連の経過を、韓国行政自治部政府記録保存所所蔵の『日政関係文書』に収録されている当時の朝鮮総督府の内部資料を用いて、詳細に解明している。この府制の施行により、旧来の府及び居留民団が廃止され、これらに代えて京城府を含む新しい12の府が普通地方行政区画として設置されたと同時に、この普通地方行政区画をその区域とする新しい地方団体たる府が創設された。この新たに創設された地方団体たる府は法人と明記され、住民の規定が設けられ、条例制定権など一応の自治権を認められたが、その執行機関には普通行政区画たる府を管轄する地方行政官庁である府伊が充てられた。また、地方団体たる府には、府協議員と府伊からなる諮問機関として府協議会がおかれたが、府協議員は内鮮人の双方から官選された。なお、従来居留民団により設置・運営されていた内地人児童のための学校は、改正学校組合令に基づき新たに設立された学校組合に移管された。

 第3節では、府制案と併行して構想されていた面制案の方は漸く大正6年に至って法制局の審査に付されたが、面に法人格を与え住民の権利義務を規定する総督府案は徒に朝鮮民族の自覚を促し朝鮮自治、ひいては朝鮮独立の運動につながりかねないものであるとする法制局の強い反対に遭遇したこと、その結果同年10月に制定された面制及び面制施行規則は大幅に後退したものとなり、面は法人格も住民も有しない地方団体とされ、その事務の範囲は限定列挙されたこと、しかしながら、この面制の施行により、それまでは○○組合、○○協議会、契などの名義の下でその実は地方行政官庁たる面長に実施させてきた各種の事務事業がその後は名実共に地方団体たる面の事務事業とされ、これらの事務事業に要する諸費用を支弁するため賦課金及び夫役・現品を賦課徴収する権限が公式に付与されたこと、内地人集居地を中心に23地域に一般の面とは区別された指定面を設け、この指定面には起債を認めるとともに、内鮮人よりそれぞれ半数を選任する相談役の制度が設けられたこと、洞里長の名称を廃止しこれに代えて名誉職たる区長を設けたことなどが詳述される。

 第4節では、まず上記の府制施行の前後に断行された府郡分合と面分合の実施状況と、この永年の懸案がこの時期に至って解決可能になった背景について論じ、続いて、道庁・府郡庁・面事務所などの地方官公署に勤務する職員の任用と待遇などに関する制度の変遷について論じ、その一環として、明治43年の朝鮮台湾満州樺太在勤文官加俸令に基づき内地人の文官に支給されていた加俸・加給を初め、官舎・宿舎料、旅費といったいわゆる外地手当の制度とこれに由来する内鮮人職員間の待遇格差の大きさについて詳述している。

 第4章「朝鮮地方制度の進化」は、大正8年3月1日に朝鮮独立運動が勃発して以降敗戦に至るまでの時期を対象にしている。

 まず第1節では、3・1朝鮮独立運動の衝撃を受け、原敬内閣によって新総督に起用された元海軍大臣斎藤実が「文化統治」・「文化政治」を標榜し、銃剣携行の憲兵警察や文官の制服帯剣の制度の廃止、朝鮮人経営の朝鮮語新聞の発行許可など従前の武断政治の色彩の払拭を図る傍ら、種々様々な朝鮮人国政参加案や朝鮮自治領案を模索し本国政府に打診していく経緯を、国立国会図書館所蔵の『斎藤実関係文書』にある諸資料を活用して詳述している。

 朝鮮地方制度の改正もこの流れの一環として検討されたのであるが、そこでは沖縄や北海道の地方制度特例がモデルにされたこと、そしてその結果として大正9年7月に実現した朝鮮地方制度の改正が台湾や関東州における地方制度に影響を及ぼした事実に鑑み、第2節では、沖縄・北海道・樺太のそれぞれに施行されていた内地の地方制度特例と朝鮮と並ぶ外地であった台湾・関東州における地方制度の動向について概説し、これらが朝鮮地方制度の動向とどのような相互関係にあったか考察している。

 第3節では、まずその第1項で、大正9年7月の地方制度改正と昭和5年12月の地方制度改正について概説している。すなわち、大正9年7月の改正により、従来の府と面に加え、府・郡・島ごとに新たな地方団体として学校費が設けられ、各道に設けられていた地方団体の地方費が道地方費に改められた。これに合わせて、従来からあった府協議会に加え、指定面には従来の相談役を廃しこれに代えて新たに面協議会を、学校費には学校評議会を、道地方費には道評議会を新設するなど、普通面を除くすべての地方団体にその長たる地方行政官庁の諮問機関として議事機関を設置し、その構成員の選任を直接公選に改めた。昭和5年12月の改正では、府における学校組合及び学校費を廃しその事務を地方団体たる府に移管し、府協議会を議決機関たる府会に改め、この府会に内地人教育費と朝鮮人教育費の各特別経済について審議し議決する機関として、内地人議員からなる教育部会と朝鮮人議員からなる教育部会を別個に設置することにした。また、従来の指定面の呼称を邑に改め、面制を邑面制に変え、邑には議決機関たる邑会を設置した。そして、道地方費を道に、道評議会を道会に改め、道会に議決権を認めた。ただし、その人口がほぼ朝鮮人で占められていた普通面の面協議会と、郡・島内居住の朝鮮人で組織されていた学校費評議会とは、従前どおり諮問機関のままに留め置かれた。

 続いて、これらの改正によって導入された議事機関構成員の公選制の実態と、地方制度改正のつど論議の焦点になっていた内鮮人児童に対する初等学校教育の実態とについて、それぞれ項を改め詳細に考察している。

 第4節では、満州事変後の準戦時体制へ、ついで日中戦争に突入後の戦時体制へと移行するにつれ、地方行政事務が急激に拡大し地方官公署職員数が膨張していく状況、さらには、やがて内地の部落会町内会及び隣組の制度にほぼ対応する町洞里連盟及び愛国班の制度が構築され、自然村の洞里が地方行政の末端単位として復権していく状況を克明に描いた上で、この地方行政事務の拡大と地方官公署職員数の膨張に伴う地方財政の膨張に加え、昭和12年度以降は朝鮮総督府特別会計から本国の臨時軍事費特別会計への金員繰り入れを強いられることになったという一段と厳しい財政状況の下で、朝鮮総督府が国税・地方税の体系を再編成し、昭和15年4月には地方財政調整補給金制度を創設するに至る経緯を解説している。

 「おわりに」では、近代日本の地方制度づくりにおいては地方団体の区域と住民に関する制度保障の如何こそが地方団体の自治権の度合いを窺わせるバロメーターであったとし、地方団体の区域と国の地方行政区画の区域との関係、住民と公民の規定の存否、「公共事務」を処理する権限の付与の有無、委任事務の根拠法令の範囲の限定、地方団体の執行機関と議事機関の仕組みなどの諸点について、内地の地方制度と朝鮮地方制度との比較対照がなされる。そして最後に、朝鮮の府制、邑面制、道制の条文数はそれぞれ内地の市制町村制の市制、町村制、並びに府県制のそれに比べ著しく少なく簡素であったこと、そしてこのことが朝鮮における総督以下各級の地方行政官庁に広範な自由を与え、地方制度上の種々の実験を可能にしていた側面があることを指摘している。

 以上が本論文の要旨であり、以下はその評価である。

 本論文の長所としては、以下の諸点を上げることができる。まず第一に、地道な先行研究の乏しかった領域を開拓し、植民地朝鮮の地方制度づくりに関する通史を完成したこと、しかもその研究方法がきわめて着実で手堅いことである。すなわち、《高宗実録》等に収録されている甲午更張政権の手になる郷約弁務規程と郷会条規、韓国国立中央図書館所蔵の朝鮮総督府内務部『朝鮮地方制度改正ニ関スル意見』、韓国行政自治部政府記録保存所所蔵の『日政関係文緒』中の諸資料、並びに国立国会図書館所蔵の『斎藤実関係文書』中の諸資料など、先行研究が全く又は必ずしも十分に紹介し活用してこなかった諸資料を発掘し活用して制度設計の立案・形成過程まで解明していること、制度の変遷を解説する際にはその根拠法令をきわめて綿密に検索していること、また制度の実際の作動状況を検証するにあたっては、まず各種の統計資料を的確に活用して全体状況を読み取り解説した上で、各種の新聞・雑誌に報じられた個別の事件の生々しいエピソードを紹介しその傍証としていることである。

 第二に、終始一貫して、北海道・沖縄・樺太の地方制度特例を含め日本の内地の地方制度の動向、さらには朝鮮と並ぶ外地であった台湾・関東州の地方制度の動向と関連づけながら植民地朝鮮の地方制度の展開を考察するという比較制度史になっていることである。そして植民地朝鮮においては、地方団体の創設が地方費や学校費などに典型的にみられるように費用負担団体の創設を主目的にしていたこと、居留民団自治から始まった内地人児童向けの公立学校の経営問題がその後の地方制度の展開にきわめて大きな影響を与え続けたことなどを明らかにしている。

 第三に、「地方制度」という日本固有の概念を中核に据えて、地方官官制によって創設される「地方行政」制度と地方団体法によって創設される「地方自治」制度との間の複雑な相互乗り入れの関係を克明に解明したことである。そしてこの作業を通して、朝鮮地方制度の特色を浮き彫りにするとともに、日本の内地における地方制度づくりの標準的な作法を逆照射することにも成功している。

 しかしながら、本論文にも物足りない点がないではない。第一に、本論文は、極めてイデオロギー性の強い先行研究の轍を踏むまいとしたためではあろうが、地方制度史を史実に即して淡泊に考察することに徹し切っているため、植民地支配史、国際関係史、政治史、社会史の色彩が余りにも希薄で、朝鮮をめぐる国際環境の変動、植民地経営上の課題の変遷、本国における政変など、そのときどきの時代的な背景との関連が必ずしも十分に解説されておらず、専門外の読者にはもう一つ面白みに欠け、物足りなさを覚えさせることである。

 第二に、「地方行政」に係る制度と「地方自治」に係る制度とを明確に区別し、その上でこの双方を包括して把握する「地方制度」の概念と分析枠組みとがもつ意味については、冒頭の「はじめに」において予めより一般的普遍的に詳しく解説しておいた方が、本論文に対する読者の理解を容易にしたのではないかと惜しまれる。

 以上のように本論文にも若干とはいえ物足りない点はあるものの、これらは先に述べた本論文の大きな価値をいささかも損なうものではない。本論文は植民地朝鮮の地方制度史に関する最も実証的で包括的な研究として完成されたものであり、日本の地方制度史研究における空白の周辺領域を埋めたものでもある。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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