学位論文要旨



No 214250
著者(漢字) 岡安,雅信
著者(英字)
著者(カナ) オカヤス,マサノブ
標題(和) 光ファイバ増幅器励起用0.98m帯InGaAs/GaAs歪量子井戸レーザの研究
標題(洋)
報告番号 214250
報告番号 乙14250
学位授与日 1999.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14250号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 中野,義昭
 東京大学 教授 榊,裕之
 東京大学 教授 菊池,和朗
 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 尾嶋,正治
内容要旨

 光ファイバ伝送方式の進展の歴史において、大きなブレークスルーとなったものの一つに光増幅器、特にエルビウム添加ファイバ光増幅器(EDFA)がある。EDFAは光ファイバの最低損失波長である1.5m帯で動作する光増幅器であり、高利得性、低雑音性、高飽和出力特性などの優れた特徴を有し、1987年頃から急速に研究開発が進展している。EDFAに用いられる励起光源のうち、励起効率、雑音指数の観点からは、0.98m帯での励起が望まれていたが、小型で実用的な半導体レーザは、従来の格子整合系レーザでは原理的に実現が困難であった。

 一方、半導体レーザの分野では、1986年に提唱されたバンドエンジニアリングのアイデアに端を発して、歪量子井戸レーザの研究が進展し始めていた。バンドエンジニアリングは、歪ポテンシャルにより、伝導体と価電子帯のサブバンド構造、特に半導体レーザの特性に大きく関与する価電子帯形状を自由に設計し、それによって閾値電流、効率、変調速度、スペクトル線幅などの諸特性を高性能化することを目的としている。歪のもたらす効果のうち、もう一つの大きな特徴として、格子整合系半導体レーザでは実現できない波長帯が実現可能となる点がある。バンドエンジニアリングの本来のアイデアでは、この特徴は付随的なものであったが、我々は、EDFAの励起波長である0.98m帯が、InGaAs/GaAs系歪量子井戸レーザで実現可能となることに着目し、同波長帯での半導体レーザの実現に向けた研究を行った。その結果、同波長帯でのレーザを世界に先駆けて実現し、増幅実験により励起光源として適用しうることを示した。またバンドエンジニアリングが理論的に予想するレーザ特性の向上に関しても検討し、歪量子井戸レーザが低閾値化に有利であることを実験的に明らかにした。

 さらに、歪量子井戸レーザを実用化していく上で最も議論の的となる信頼性に関しても系統的な研究を行った。EDFAの励起光源としての応用を考慮して、レーザにとっては過酷な高出力での劣化モードを明らかにし、実用レベルでの安定動作を報告するに至り、その後の歪量子井戸レーザの研究活発化の端緒となった。

 こうした研究を通して、格子整合系結晶でのみ製作されてきたこれまでの半導体レーザに対して、歪量子井戸の採用により、材料選択の幅が広がり、設計自由度の拡大がもたらされ、バンドエンジニアリングによる半導体レーザ設計が現実のものとなりうることを示した点で、半導体レーザ工学上意義あるものと考える。

 本論文の概要は以下のようである。

 第1章では、それまでの光ファイバ伝送方式、半導体レーザの歴史を概説しながら、本研究の位置づけについて明確にした。まず光ファイバ伝送方式を振り返り、その中で光増幅器、特にEDFAのインパクトの大きさについて概説した。また励起波長によって変化するEDFAの諸特性について触れ、0.98m帯励起の特徴を述べた。次に半導体レーザの歴史を紐解き、バルク型のレーザから量子井戸レーザへと進展してきた歴史を振り返った。次いで、1986年に提唱されたバンドエンジニアリングのアイデアに基づき、歪量子井戸レーザの研究が活発化してきたことを述べ、本研究がこうした背景のもとに開始されたことを示した。

 第2章では、本研究の出発点となる0.98m帯のレーザに実現に向けた歪量子井戸構造の設計、製作と評価について述べた。まず歪の導入による電子構造の変化に関する理論的考察により、バンドエンジニアリングが本来目的とする歪量子井戸レーザの低閾値性、高利得特性等の可能性を明らかにした。また本研究が目的とする0.98m帯を実現するための量子井戸設計について述べた。次に有機金属気相成長(MOVPE)法により作製した歪量子井戸構造の評価を通して、設計通りの良好な歪量子井戸構造が作製可能であることを明らかにした。こうした検討を踏まえて、0.98mで発振する歪量子井戸レーザを実現するとともに、格子整合系GaAs量子井戸レーザとの比較により、バンドエンジニアリングで予測される歪量子井戸レーザの低閾値性、高利得特性を実証した。

 第3章では、EDFAの励起光源への応用を目的として、ファイバ出力の向上、及び波長安定化のための検討を行った結果について述べた。横モード制御の方法として、リッジ導波型構造を採用し、レーザ結晶構造の最適化を含めて、結合効率特性に影響する出射光特性について調べた。その結果、利得導波性、屈折率導波性をバランス良く保つことにより、キャリア注入効率の向上、横モードの安定化が図れることを示した。レーザモジュールの作製と評価を通して、横方向のホールバーニングを抑制することがファイバ出力の向上には重要であることを示し、200mW以上のファイバ出力特性を実現した。波長安定化の方策としては、分布帰還型(DFB)レーザの実現を目指した。光ガイド層よりも屈折率の大きいGaAs上に回折格子を形成するダブルチャネル型レーザ結晶構造を提案し、回折格子形成技術、及び。回折格子上の再成長技術に関する検討の結果、100mW以上の光出力を有するレーザを実現した。

 第4章では、信頼性に関する議論をした。歪量子井戸レーザの劣化モードの系統的な検討と、格子整合系レーザとの比較により、歪量子井戸レーザの劣化姿態を解明した。次いで長期通電試験とその統計処理に基づく寿命推定を行った。素子出力が60mWまでの低出力動作では、通常のレーザ構造でも10万時間以上の十分な信頼性を保証できるものの、100mWを越える高出力動作下では、通電中のCOD発生により著しく寿命が短いことがわかった。CODの発生を回避する構造として、端面非励起構造を適用することにより、COD発生までの時間を大幅に改善でき、100mW動作でも10万時間程度の素子寿命が期待できることを明らかにした。素子劣化に伴う波長変動と、EDFAの特性に与える影響についても検討を行った。最も一般的な一定光出力(APC)動作では、閾値キャリア密度の上昇に起因したブルーシフトと、接合温度の上昇に起因したレッドシフトにより、発振波長は複雑な変動を呈することを明らかにした。こうした波長の振る舞いにも関わらず、EDFAの利得特性などへの影響はなく、実用上は問題ないことを示した。最後にファイバ出力70mWでのモジュールの通電試験を行い、レーザ素子の横モードの安定性を含む結合特性も十分安定であることを示した。こうした一連の信頼性に関する検討を通して、歪量子井戸レーザがEDFAの励起光源として十分実用可能であることを明らかにした。

 第5章では、本論文を総括するとともに、本研究以降に行われている0.98m帯レーザの高信頼化に関する検討、及び0.98m帯以外の歪量子井戸構造、更には量子細線、量子ドットなどの低次元量子構造への格子不整合系への適用について述べ、これら歪量子構造の今後の展望について触れた。

 また補遺として、0.98m帯レーザを実現する上で基本となっているAlGaAs、InGaAs系の結晶成長技術について述べた。まず0.98m帯レーザのクラッド層、及びキャップ層に用いられるAlGaAs系の結晶成長技術について、MOVPE法の成長原理から出発した組成制御、膜厚制御に関する考察を行い、III族原料であるトリメチルガリウム(TMG)、トリメチルアルミニウム(TMA)の流量と成長時間の制御により、組成、膜厚を設計値通りに制御可能なことを示した。次いでp-n接合を形成するためのドーピングに関して述べ、レーザ製作に必要なドーピング範囲をカバーする領域で制御性よく行えることを示した。0.98m帯レーザの活性層に用いるInGaAs系の結晶成長についても同様の考察をし、組成、膜厚が制御性よく成長可能であることを示した。

審査要旨

 本論文は,エルビウム添加ファイバ光増幅器(EDFA)の励起光源として極めて重要な波長0.98m帯の半導体レーザに関し,その実現に必要なInGaAs/GaAs歪量子井戸構造に基づく材料技術,高出力/高安定化のための素子技術,歪量子井戸レーザの信頼性メカニズムと対策を研究し,その結果を応用して0.98m帯EDFA励起用半導体レーザを実用化した結果についてまとめたもので,5章より構成されている.

 第1章は序論であって,研究の背景,動機,目的と,論文の構成を述べている.まず光ファイバ伝送方式について概説し,その中で光増幅器,特にEDFAが与えるインパクトについて説明している.また励起波長によって変化するEDFAの諸特性について述べ,0.98m帯励起の特徴と意義を整理している.次に,半導体レーザの歴史を概観し,バルク型レーザから量子井戸レーザへと進展してきた道程を振り返った後,1986年に提唱されたバンドエンジニアリングのアイデアに基づき歪量子井戸レーザの研究が活発化したことを述べ,本研究がこうした背景のもとに開始されたことを説明している.

 第2章は「歪量子井戸構造の設計,製作と評価」と題し,0.98m帯レーザの実現に向けた歪InGaAs/GaAs量子井戸構造の設計,製作と評価について述べている.まず格子歪の導入による電子構造の変化に関する理論的考察を行い,歪によって本来量子井戸レーザの有する低閾値性,高利得特性等が一層向上する可能性を示した.また,本研究で目的とする波長0.98mを実現するための量子井戸設計について論じている.次に,有機金属気相エピタキシャル成長法(MOVPE)により作製した歪量子井戸構造の評価を通じて,設計通りの良好な歪量子井戸構造が実際に作製可能であることを明らかにした.こうした検討を踏まえて,0.98mで発振するInGaAs/GaAs歪量子井戸レーザのプロトタイプを試作・実現するとともに,格子整合系GaAs量子井戸レーザとの比較を通じて,上で予測された歪量子井戸レーザの低閾値性,高利得特性を実証した.

 第3章は「高出力化・高安定化の検討」と題し,EDFA励起光源への応用を目的として,ファイバ出力の向上,及び波長安定化のための検討を行った結果について述べている.横モード制御の方法としてリッジ導波路構造を採用し,そのエピタキシャル積層構造の最適化も含めて,ファイバ結合効率特性に影響する出射光特性について調べた.その結果,利得導波性,屈折率導波性をバランス良く保つことにより,キャリア注入効率の向上と横モードの安定化が図られることを示した.レーザモジュールの作製と評価を通して,横方向の空間ホールバーニングを抑制することがファイバ出力の向上には重要であることを示し,その結果200mW以上のファイバ出力特性を実現した.波長安定化の方策としては,分布帰還(DFB)構造の導入を試みている.光ガイド層よりも屈折率の大きいGaAs上に回折格子を形成するダブルチャネル型レーザ結晶構造を提案し,回折格子形成技術,及び回折格子上の再成長技術を検討した.その結果,100mW以上の光出力を有する0.98m帯DFBレーザの試作に成功した.

 第4章は「歪量子井戸レーザの信頼性」と題し,歪量子井戸において最大の関心事である信頼性に関する議論を行っている.歪量子井戸レーザの劣化モードの系統的な検討と,格子整合系レーザとの比較により,歪量子井戸レーザの劣化メカニズムを解明した.次いで,長期通電試験とその統計処理に基づく寿命推定を行った.素子出力が60mWまでの低出力動作では,通常のレーザ構造でも10万時間以上の十分な信頼性を保証できるものの,100mWを越える高出力動作下では,通電中のCOD(catastrophic optical damage)発生により著しく寿命の短縮化することがわかった.CODの発生を回避する構造として端面非励起構造を提案し,これを適用することによりCOD発生までの時間を大幅に改善でき,100mW動作でも10万時間程度の素子寿命が期待できることを明らかにした.素子劣化に伴う波長変動と,EDFAの特性に与える影響についても考察を行った.最も一般的な一定光出力(APC)動作では,閾値キャリア密度の上昇に起因したブルーシフトと,接合温度の上昇に起因したレッドシフトが混在し,発振波長は複雑に変動することが明らかになった.しかしこうした波長変動はEDFAの許容値内に収まっており,利得特性などへの悪影響はなく,実用上は問題ないことを示した.最後に,ファイバ出力70mWでのモジュールの通電試験を行い,レーザ素子の横モードの安定性を含む結合特性も十分安定であることを実証した.こうした一連の信頼性に関する検討を通して,InGaAs/GaAs歪量子井戸レーザがEDFAの励起光源として十分実用可能であることを明らかにした.

 第5章は結論であって,本研究で得られた成果を総括している.

 以上のように本論文は,InGaAs/GaAs系歪量子井戸の材料物性を理論,実験の両面から研究し,同量子井戸を活性層に用いた半導体レーザの試作およびその高出力化/高安定化研究を行うとともに,歪量子井戸レーザの劣化機構の究明と高信頼性構造の開発を行った結果,EDFA励起用光源として最適な0.98m帯半導体レーザの実用化を果たしたものであって,電子工学の分野へ貢献するところ多大である.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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