沿岸域に出現する浮遊珪藻類は、一次生産者として重要であると同時に、最近では珪藻赤潮やヌタ現象の原因種、また海外においては貝毒原因種としても取り上げられるようになってきた。いずれにしても、浮遊珪藻類は沿岸水域の漁場環境に対して大きな影響を与える生物である。このような浮遊珪藻類の分類や生理生態に関する研究は、これまでに精力的に行われてきたが、未だに明らかにされていない課題もいくつか残されている。その一つに、「休眠期細胞(resting stage cells)」に関する問題がある。休眠期細胞とは、環境の時空間的変動が著しく大きい内湾・沿岸域で生息している浮遊珪藻類が、その生活史の一時期に形成する休眠胞子、あるいは休眠細胞と呼ばれる耐久性の細胞である。これら浮遊珪藻類の休眠期細胞は、外囲の環境変化と珪藻類栄養細胞の出現・消失とを結びつける重要な働きを担っていると推察されてきた。しかしながら、実際に現場水域においてこれら珪藻類休眠期細胞の分布や動態を明らかにした知見はこれまでほとんど見あたらず、その生態的役割は未だに不明な点が多い。 以上のような背景のもとで、本研究では、特に現場水域(瀬戸内海)の海底泥中における珪藻類休眠期細胞の分布、生残ならびにその年間を通した動態把握に焦点を当てた調査を行ない、沿岸城における浮遊珪藻類休眠期細胞の生理・生態学的特徴を明らかにすることを目的とした。 第1章においては、浮遊珪藻類休眠期細胞に関する既往知見をまとめ、未解決の課題について把握するとともに、瀬戸内海における現場調査を行い海底泥中に存在している珪藻類休眠期細胞の形態を確認した。また、現場の海底泥中における分布とその動態を明らかにすることを目的として調査を実施し、以下のような結果を得たた。 (1)底泥中における休眠期細胞の分布密度とその季節変化 培養を基本とした終点希釈法を用いて、底泥中における珪藻類休眠期細胞を計数した結果、瀬戸内海の海底泥中には103〜106(cm-3・湿泥)という高い密度で休眠期細胞が存在していることが明らかになった。そのなかでも、Skeletonema costatum、Chaetoceros spp.、ならびにThalassiosira spp.の3つの分類群の珪藻類休眠期細胞が特に高密度で存在していた。 広島湾で行った周年調査から、上記3つの分類群の珪藻類休眠期細胞が年間を通して103〜106(cm-3・湿泥)という高い密度で常に存在していること、発芽可能な休眠期細胞数の変化には季節性は認められないこと、が明らかになった。 東部ならびに西部瀬戸内海の海底泥中における珪藻類休眠期細胞分布密度の調査結果から、水域によって海底泥中に優占して存在する休眠期細胞の種類が異なっていること、これらの休眠期細胞の種類は水中で優占して出現する種類と密接に関係していること、が明らかになった。 初夏の広島湾でSkeletonema costatum休眠細胞の短期変動を調査したところ、底泥中の休眠期細胞の一部が発芽することで水中への栄養細胞の供給源となっていることが強く示唆された。 第2章および第3章では、現場調査と室内培養実験の結果から、珪藻類の休眠期細胞の形成に関与する環境条件(栄養塩濃度や光強度)の検討を行うとともに、その生残・休眠ならびに発芽に関与する環境条件について検討し、以下の結果を得た。 (2)環境要因に対する応答(形成・発芽) Chaetoceros didymus var.protuberansの休眠胞子の形成条件を室内培養条件下で検討した結果、休眠胞子形成の引き金としては、栄養塩欠乏、特に窒素の欠乏が重要であることを明らかにした。同時に、休眠胞子の成熟(発芽能の獲得)には暗条件が必要であることが判明した。 夏季の播磨灘において現場調査を実施し、海水中の窒素濃度が1M以下になるとChaetoceros休眠胞子が形成される割合が高くなることを観察し、現場水域における休眠胞子の形成に栄養塩(窒素)の欠乏が重要であることを明らかにした。 S.costatumの休眠細胞形成条件を室内培養条件下で検討した結果、Skeletonemaの休眠細胞形成には栄養塩欠乏は必要ではなく、暗条件が休眠細胞形成に必須であることを明らかにした。 海底泥中に存在する珪藻類休眠期細胞(S.costatum、Chaetoceros spp.、Thalassiosira spp.)の発芽に及ぼす種々の温度(5〜25℃、6段階)の影響を季節的に調べた結果、いずれの珪藻類においても、年間を通してすべての温度条件下で発芽が観察されることが明らかになった。このことから、水温は珪藻類休眠期細胞の発芽の制限要因とならないことが示唆された。 海底泥試料から分離した珪藻類休眠期細胞の培養実験により、休眠期細胞の発芽が非常に速やかに(概ね培養後1日以内に)起こることを明らかにした。 マイクロコズムを用いた海底泥培養実験によって、海底泥に照射する光強度が約0.25mol/m2/S以下では珪藻類休眠期細胞の発芽が起きないが、約10mol/m2/S以上の強度の光を照射することで発芽が起こることを確認し、休眠期細胞の発芽には、光が引き金として重要であることを明らかにした。 (3)休眠および生残期間 室内培養条件下で形成されたChaetoceros休眠胞子の発芽実験から、約1週間程度の内的休眠期間(発芽に充分な条件に置かれても発芽しない期間)があることが示唆された。 現場水域から採取した海底泥を約10℃の暗黒条件下で保存し、その中に存在する珪藻類休眠期細胞の生残を調べた結果、休眠期細胞の生残期間は少なくとも約3年であることが明らかになった。 海底泥を5〜25℃の温度(5段階)で保存した実験により、保存温度が低いほど休眠期細胞が長期間生残すること、同一の保存条件であれば、Skeletonema<Thalassiosira<Chaetocerosの順に生残期間が長いこと、が判明した。 第4章では、本研究で明らかになった成果を総括して、内湾・沿岸域における浮遊珪藻類休眠期細胞の生理・生態学的な特徴とその役割について論じた。すなわち、本研究で得られた結果と、これまでに明らかになっている他の植物プランクトンの休眠期細胞に関する知見を総合すると、珪藻類休眠期細胞の有する特徴については以下のようにまとめることができた。 1.鞭毛藻類など、他の植物プランクトンの休眠期細胞(シスト等)と比較して底泥中の存在密度が高い。 2.内的休眠期間が比較的短く、光の照射を引き金として速やかに発芽・増殖を開始する。 3.比較的広い温度範囲での発芽が可能である。 珪藻類休眠期細胞の持つこれらの特徴は、現場水域になんらかの擾乱が起こった直後にすばやくその場を占有するのに有利な性質であると考えられる。つまり潮汐、吹送流、河川からの大量な淡水の流入等、擾乱が起こった際には、海底泥中に存在している植物プランクトンの休眠期細胞が捲き上げられ、光の照射を受ける可能性が高くなる。特に、海底泥中に高密度で存在している珪藻類の休眠期細胞は、他のプランクトンの休眠期細胞と比較して、光を照射される細胞数がより多くなることが推察される。また、光の照射を受けた珪藻類休眠期細胞は、広い温度範囲で速やかに(概ね1日以内)発芽を完了することから、擾乱後間もなく、初期個体群となる原地性の(autochthonous)栄養細胞を海水中に供給するものと考えられる。さらに、擾乱が起きた後の海水中には、底層に存在していた栄養塩が表層にもたらされることなどによって、比較的多量の栄養塩が存在する場合が多く、その後の珪藻類の栄養細胞個体群の増殖にとっても好適な環境であると判断される。 我が国の水産業の将来においで、沿岸・内湾域における漁業・養殖業は、今後さらにその重要性を増していくものと考えられる。その際に必要とされるのは、これらの水域における適正な漁場環境を把握すること、そして、その環境を維持することであろう。前述のように、浮遊珪藻類は一次生産者として、あるいは、貝毒・赤潮現象とも密接な関係を持つことで、これらの水域の漁場環境に大きな影響を与えている生物群である。すなわち、浮遊珪藻類の(休眠期を含めた)生理・生態的特徴をさらに精細に明らかにしていくことが、我が国の沿岸・内湾域における漁業・養殖業の発展に不可欠であると考えられる。 |