学位論文要旨



No 214274
著者(漢字) 深井,純一
著者(英字)
著者(カナ) フカイ,ジュンイチ
標題(和) 水俣病の政治経済学 : 産業史的背景と行政責任
標題(洋)
報告番号 214274
報告番号 乙14274
学位授与日 1999.04.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14274号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷口,信和
 立命館大学 教授 宮本,憲一
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 助教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 小田切,徳美
内容要旨

 本論文における私の問題意識は、主に2つある。その1つは水俣病の発生源となった電気化学工業の成立・発展・衰退の過程と関連させる産業史的視角に立って、いかなる要因が水俣病を生み出す原因と成ったのかを解明することにある。本論文では特に水力発電の展開との関連性を重視する。もう1つの問題意識は水俣病の発生・拡大過程において、熊本・新潟両県と政府各省庁の対応に、法的または道徳的な費任はなかったのかと言う問題を究明することである。その方法としては、可能な限り行政内部資料によって実証することを目ざした。

 第1章では電源開発の展開に則して、電気化学工業がいななる発展を辿ったのかを概観する。電気化学工業はカーバイド工業から出発し、初期の流込式発電が必然的に生み出す豊水期の余剰電力と石灰石を原料基盤として、東北・北陸を中心とする山間僻地に工場を立地させた。豊水期には昼夜兼行で続く高熱と粉塵のたちこめる電炉作業を担う労働力を、農山村で確保しえたことも、製品市場が農村であったことも、副次的な立地要因として見逃せない。

 電気化学工業は第一次大戦による輸入途絶によって、外国産化学肥料との競争を免れて発展の景気をつかむが、大戦後の遠距離送電技術の発展により、従来の安価な余剰電力の利用条件は失われていく。遠距離送電の時代が訪れると電源地帯では、いかなる事態に直面するかという問題を予告してくれたのが、宮崎縣における縣外送電反對運動の激発であった。電力を用いる縣内起業化を求めるこの運動は、送電する電力企業からの負担金徴収と、日本窒素肥料(株)(以下日窒)の延岡工場(現・旭化成)の実現の2つを成果として終息した。

 第2章では水力発電の発祥とともに始まった天然湖の湖面低下問題、続いて流込式発電による水温と水量の変化、さらにダム式への転換、特に高ダムの登場によって、農業・漁業・流筏林業・舟運などの既存河川水利主体がどのような被害を受け、電力企業との間に紛争を生み出したかを、富山県の庄川その他の県内各河川や、新潟県の阿賀野川を例にとって検討する。富山県の農業用水の合口施設の実現を除けば、ダムによる疎通阻害を克服するために、発電側が試みた流木コンベヤーやエレベーター魚道、あるいは閘門式の舟筏路などの設置は苦肉の策に過ぎず、漁業は養殖や稚魚放流に、そして流木・流筏は鉄道またはトラック輸送に転換して、電力企業が新しい河川水利秩序の形成者になっていった。

 第3章では日窒と水俣・延岡・鏡の各工場の曲折に満ちた歩みを、社史および各当事者の「証言」に基づいて検討する。私が特に注目したのは、新潟県青海における日窒の発電所工事が大洪水によって挫折し、九州においても前述の縣外送電反対運動の勃発に直面して、国内での電源開発に見切りをつけ、朝鮮に進出していく動機が形成されていったことである。この点は三井系の電気化学工業(株)が、日窒の放棄した跡の青海工場と、宮崎の縣害送電反對運動をしのいで送電を実現した大牟田工場を二大拠点とし、安田系の昭和電工の前身・昭和肥料(株)が、東京電燈(株)とともに阿賀野川中流の鹿瀬・豊実に高ダムを建設して、企業としての基礎を形成したのと対照的であった。日窒の歩みを子細に検討してみると、大胆な決断をする半面で緻密な計画性に欠け、紆余曲折を余儀なくされた経過が分かる。

 なお水俣工場のみならず、延岡工場においても戦時中の軍需生産が本格化するにつれて、排水による漁場汚濁、あるいは煙害による農業被害の問題を中心に、公害が日常的に発生していた。他方、熊本の鏡工場では米騒動に呼応して、賃上げを要求する労働者のストライキ闘争と、農漁民の公害反対運動が契機となって工場の閉鎖に追い込まれていった。日窒は各地で社の内外からの反対運動に直面させられていたことが分かる。

 第4章では国内を見限って、朝鮮での巨大規模の電源開発と電気化学コンビナートの建設に向かった日窒の歩みを、特に電源開発に焦点を合わせて検討する。赴戦江、長津江、虚川江、そして鴨緑江へと広がっていったその歩みは、未曾有の巨大規模の工事をさまざまな新技術の開拓によって進める点で確かに「パイオニア的」であったかも知れない。

 しかし河川も巨大化し、貯水池と発電所も大規模化したことは、膨大な数の水没者と既存水利主体への補償と生活再生の課題に、否応なく直面させられることを意味した。水利主体の中心は大河川の水面一杯に広がって下る流筏であった。しかも国内でのダム建設によって河川から追われた筏夫たちが、鴨緑江などに出稼ぎや移住で多数流れ込んでおり、流筏の方式も中国式から日本式への転換が総督府の奨励で進められたという。国内で食い詰めた民衆が植民地開発の先頭に立つのは、満蒙開拓と共通しているだろう。

 彼らに対して格安の補償金で片付けたことが、規模のもたらす効率性ときわせて、驚くべき低コストの電力を実現して、日窒の超過利潤を保障していったのである。国内では必ず直面させられる在来の水利主体と地元住民、そして労働者たちの抵抗を植民地支配の官憲の力で封じてしまえば、企業にとっては思いのままに開発と操業をなしうる訳であるが、それによって日窒の企業体質・倫理感覚が歪められてしまったのであろう。

 第5章では私が発掘した熊本県の水産課と衛生部の膨大な内部資料を分析して、一九五六年の水俣病の公式発見前からの、同県政の対応過程をつぶさに明らかにし、被害の発生・拡大を未然防止する機会を生かさなかった責任と、その原因・背景を検討した。当時熊本県は赤字団体になって財政再建の途とにあった。県内最大の新日窒水俣工場をはじめ、主要工場が不知火海沿岸に立地し、水質・大気汚染などの公害発生源となっていたが、太平洋ベルト地帯の重化学工業化が進み始めると、これらの工場が縮小ないしは閉鎖の動きを店はじめたために、県はそれらの工場を繋ぎとめながら新たな工場誘致を推進しようとしていた。

 特に水俣海域の汚濁と魚介類の病変に関しては、早い時期から漁協による通報と調査依頼を受けていた水産課は、その事実をまとめて対策を提起した報告書をまとめたが、県中枢の対策委員会によって握りつぶされた。調査結果を一部変更して公表したこともあった。

 県のそのような対応が変わるのは、水俣病の原因物質が魚介類であると、公衆衛生学会で発表された後のことで、衛生部は食品衛生法第四条による販売のための漁獲の禁止措置に踏み切る予定で、同省に問い合わせたところ、水俣湾内のすべての魚介類が有毒化している証拠がないという奇妙な理由づけで、同法の発動は出来ないものとした。

 新患者続出にたまりかねて県と市が、水俣湾での漁獲を禁止する特別立法化を求めて上京陳情した時に、政府自民党は漁獲禁止は補償を要するが、高度成長が始まった段階でそのような措置は悪しき前例になるとして、応じようとしなかった。その当時江戸川で発生した三菱江戸川化学の水質汚染への対策をめぐっては、いち早く水質二法を制定したことと比べて対照的であった。県と市はそれ以後は被害者を分断したり、思いつきの糊塗策でその時々の事態を乗り切ることに終始するようになった。

 早い時期に漁獲禁止措置を取っていれば、被害の拡大を防止しえたであろうし、補償措置に伴う生活補償と実のある漁業転換策を実現することが出来たかも知れない。第7章で照会する新潟県の対応は、そのことを如実に物語っている。

 第6章では次の第7章で新潟県の対応を熊本県と比較しつつ検討するために、両水俣病の基盤・背景の異同を分析している。昭電と日窒の発展史も先述の通り対照的であり、しかも水俣工場と比べて、鹿瀬工場が県内で占める比重、社内で同工場が有する役割の小さいことも県や昭電の対応に影響を及ぼしていたであろうし、被害者運動と県の衛生行政をそれぞれ担った主体的条件において、明確な相違があったことを明らかにしている。

 第7章では前章の分析を踏まえつつ、これまた私が発掘した内部資料に基づいて、患者の公式発見以後、県衛生部が極めて迅速に一連の措置を取った。すなわち阿賀野川下流域の広範な健康被害調査によって患者の把握に努めるとともに、妊娠規制と乳児への粉ミルク支給、漁獲規制と漁業転換対策などを実施していった。その中でも出色だったのは発生源の特定に総力を挙げ、遂に鹿瀬工場排水口の管壁と出口から水苔を採取し、有機水銀が含まれていることを実証して、異論の余地なく昭電犯人説を根拠づけた。患者の発見直後から水銀薬との関係が疑われ、衛生部が農薬管理責任を負っていたことも一因だったであろうが、北野博一部長の指揮下で職員たちの奮闘は目覚ましかった。彼らは公務員人生の精華を凝縮してこの2年間に経験したと語っている。北野部長の経歴と人格も大きな意味を持っていた。

 第8章は主に電気化学工業界の資料を用いて、化学工業の石油化学への転換をめぐる事態を分析している。昭電のみが日本石油川崎計画に参加しえたのを例外として、当業界各社はいずれも第一次石油化学計画の後発組に位置づけられ、旧財閥系化学企業に最も有利なポリエチレンの生産を先取りされ、やむなく石油からのアセトアルデヒド生産をめざすことになった。カーバイドによるアセトアルデヒド生産工程から有機水銀が漏れ出して、水俣病を発生させたことは周知の通りである。旧設備の償却促進とやがて訪れる新製法による大量生産を見通して市場を確保するために、各社の過当競争と過剰生産が進むのを抑制するために、通産省と興銀とトップ企業の新日窒が音頭を取ってアセトアルデヒド懇話会を結成し、各社の、の生産量を調整することをめざしたが、失敗に終わっている。老朽化した旧製法の設備を使い尽くし、安全投資も「節約」しつつ設備能力の限界まで量産を続ける過程で、水俣病は拡大していった。そのような時には当該工程の労働者たちの士気も著しく低下してしまうものであるが、そのことも安全管理を疎かにしてしまう要因の1つとなった。

 最後に資料として収録した「水俣病問題年表」は、第5・7章の行政の対応過程と被害者運動の動向に焦点を当てたもので、対象とした期間が1977年8月までに限られている。

審査要旨

 1960年代末に日本列島は公害の渦に巻き込まれたが、それは一方では公害の発生を十分に予知・認識できなかった科学技術の遅れと、他方では高度成長至上主義的な企業活動と産業政策の落とし子、という性格をあわせもっていたということができる。

 高度成長期にみられたこうした日本経済の影の部分は、1973年の石油危機を転換点とする低成長経済への移行の中では、公害除去・防止技術の積極的な開発・適用による新たな産業分野の開拓などを通じて、日本経済の相対的に良好なパーフォーマンスの源泉ともなったが、かかる公害=禍を教訓とする上で四大公害裁判の果たした役割は少なくない。

 本論文は四大公害裁判のうちの二つをなした熊本県と新潟県の水俣病問題を素材として取り上げ、第1に、水俣病の発生源となった電気化学工業の成立・発展・衰退の過程と関連させる産業史的視角に立って、いかなる要因が水俣病を生みだす原因となったかを解明すること、第2に、水俣病の発生・拡大過程において熊本・新潟両県と政府各省庁の対応に法的または道徳的な責任がなかったのかを解明すること、を課題としたものである。

 その際、前者においては水力発電を中心とした電源開発と電気化学工業の興隆の相互関係に光をあてたこと、後者においては行政内部資料の発掘・整理を丹念に行うことによって実証するという点が、方法論上の著しい特徴として指摘できる。

 第1の課題についての結論は次のように要約できる。

 (1)電気化学工業は初期の流込式発電が必然的に生みだす豊水期の余剰電力と石灰石を原料基盤として東北・北陸の山間部に立地した(第1章)。(2)しかし、第1次大戦後の遠距離送電技術の発展により安価な余剰電力利用の条件が失われ、高ダムの登場によって電力企業が河川水利秩序の形成者になるとともに、水利権をめぐる紛争が各地で激化する(第2章)。(3)こうした中で日本窒素は国内での電源開発に見切りをつけ、朝鮮での大規模開発に傾斜したが、かかる行き方は三井系の電気化学工業や安田系の昭和肥科(昭和電工の前身)とは対照的であった(第3章)。(4)朝鮮での大河川における大規模電源開発は、日本国内から出稼ぎ・移住した流筏夫を格安の補償金と植民地警察権力で封じ込めることによって初めて可能であり、それが規模の経済とあいまって巨額の利潤を保障したが、植民地経営における緻密な計画性と企業倫理観の欠如が企業体質にまで高められてしまった(第4章)。(5)第2次大戦後の第1次石油化学計画において、新日本窒素はポリエチレン生産参加に乗り遅れ、旧式設備によるカーバイドからのアセトアルデヒド生産にしがみつかざるをえなかったことが有機水銀流出の背景となった(第8章)。

 第2の課題については、(1)熊本県は県内最大企業の新日窒の縮小・移転が県経済に与える影響の大きさから、水産課が調査していた水俣海域の汚染と魚介類の病変の事実を握りつぶしたり、改竄して公表した。(2)しかし、水俣病の原因物質が魚介類と公衆衛生学会で公表された後は方針転換し、食品衛生法の適用による漁獲禁止に踏み切ることを厚生省に問い合わせたが、厚生省はこれを認めなかった。(3)経済企画庁は水質二法の制定によって、県が用意していた工場廃水規制条例の制定を抑え、原因確定後に水質調査をするとして、法の適用を延期した(以上は第5章)。(4)これに対し、新潟県では衛生部が患者の公式発見後に迅速な措置をとり、漁獲規制や漁業転換対策を打ち出す一方、自ら発生源の特定を行い、被害の拡大を防止し、熊本県とは対照的な姿勢をとったこと(第6、7章)、などが明らかにされた。これらの事実は裁判でも証拠として採用され、熊本地裁第3次訴訟、福岡高裁、京都地裁の判決で国の行政責任が認められる上での有力な根拠とされた。

 以上のように、本論文は水俣病の発生についての企業の社会的責任を明らかにするというそれまでの公害研究の枠を打ち破って、第1に、公害を生みだすような企業が生まれざるをえなかった産業史的背景を詳細に跡づけることによって、こうした事態が再び起こらないような産業構造・産業政策のあり方へ問題提起を行うとともに、第2に、水俣病問題に対する中央・地方政府の責任の所在を具体的な問題への対応過程に即して明らかにすることを通じて、公害問題における政府の行政責任論に対して初めて社会科学的な解明を行った点で、理論上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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