学位論文要旨



No 214297
著者(漢字) 高幤,秀知
著者(英字)
著者(カナ) タカヘイ,ヒデトモ
標題(和) ルカーチ弁証法の探究
標題(洋)
報告番号 214297
報告番号 乙14297
学位授与日 1999.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14297号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 山脇,直司
 共立女子大学 教授 城塚,登
内容要旨

 本論文『ルカーチ弁証法の探究』の主題は、今世紀初頭のウェーバーから現在のフランクフルト学派に至るドイツ社会哲学の思想史的展開のなかで、ハンガリー出自の哲学者、社会思想家としてのルカーチ(1885〜1971)が占める独自の位置と意義を探究することにある。その際、これまで論じられることの多かった中期モスクワ亡命時代の「ルカーチ」とは別に、ウェーバーの仕事との批判的継承関係のうちに形成された初期の構想、そしてファシズムやスターリン時代の後、フランクフルト学派との競合関係のうちに再構成されようとした晩年の思考に研究の焦点が置かれる。こうした問題設定をつうじて、ウェーバー、フランクフルト学派に関するこれまでの諸研究の欠落部分を補完することが意図されるとともに、そのうえでルカーチの弁証法思想が何を継承されるべき遺産として、そして何を未決の課題として残しているのか、を究明しようとする。

 第一部全三章、「初期ルカーチにおける弁証法的方法の成立-同一の主体・客体概念の形成過程」は、ルカーチの初期著作、『魂と諸形式』、『小説の理論』、『歴史と階級意識』を内在的に辿ることによって、ルカーチ弁証法の生命中枢をなす「同一の主体・客体」identisches Subjekt-Objektと把握される弁証法的主体の概念が、歴史的現実とのどのような対決過程をつうじて、いわば現象学的に形成されたものであるのか、を解明しようとする。それは、「同一の主体・客体」なるものが悪しきヘーゲル主義の反復にすぎない、といった非難に対する反論であるとともに、第二部における、ルカーチ弁証法の根本構想の探究への序説としての位置を占める。またそこでは、ルカーチがハイデルベルクの「ウェーバー・クライス」にあった時期の論稿『芸術の哲学』、そして『美学』への試みHeidelberger Schriften zur Asthetikがもつ決定的な重要性が論及されている。

 第二部第一章、「《新しいもの》という理念-ルカーチ弁証法の始源」はその論稿そのものについての研究である。「芸術作品が実在する-それらの作品はどのようにして可能であるのか」という、カント的な問題設定にはじまる『芸術の哲学(1912〜1914)』は、『美学(1916〜1918)』に至って、理念としての作品そのものの可能性の条件へとその問いを転換させている。ここでルカーチは、同時代の亡友ラスクの論理学体系における理論的意味の客観性・超越性という把握を継承するとともに、ラスクの体系における存在と意味との二元化を批判するなかで、〈美学の現象学〉を構想する。それは、体験的現実における〈自然的〉な体験主体、〈全体的人間〉der》ganze《Menschが、不適合的な客体世界に経験的に存在するというだけの拘束された様態を脱却し、純粋体験への憧憬に適合した客体、つまり〈芸術作品〉を規範的に創造する創造的主体、ならびにこれを規範的に受容する受容的主体、すなわち〈人間的総体〉der Mensch》ganz《へと様式化されてゆく行程であり、さらにいえば、既成の対象的世界の変革と、そこに拘束されていた主体自身の変革との合致による、自己解放の行程であるということになる。ただその都度、不断に開始され完遂される主体-客体関係の革新の行程のうちにこそ、《新しいもの》は、人間的意味の総体として、作品そのものへと生成するのである。こうした展開が、『歴史と階級意識』をも貫く、ルカーチ弁証法の理念をなすと考えられるが、論者の知るかぎり、欧米の研究書をもふくめて、この論稿、とりわけラスクからの継承と批判といった関係を解きあかしたものは皆無である。ちなみに、例えばアドルノが『ハイデルベルク論稿』の全貌を仮りに知り得ていたとしたならば、彼のルカーチ評は異なったものにならざるを得なかったであろう、と考えられる。

 第二部第二章、「客観的可能性のカテゴリー-ウェーバーから初期ルカーチへの発展」は、そのカテゴリーが、客観的可能性判断としてウェーバーからルカーチへ転用されているというばかりでなく、ウェーバーの『理解社会学のいくつかのカテゴリーについて』にみられる諒解関係Einverstandnisのもとにおける、「期待が客観的に根拠づけられている」という意味での客観的・実在的可能性として、展開されていることを論じようとしたものである。こうした継承関係に基づく、「階級意識の客観的理論とは、階級意識の客観的可能性の理論である」というルカーチの主張は、これまで、かろうじてメルロー=ポンティなどによって示唆的に解釈されてはいたが、明示されているわけではなかった。また続いて、技術と社会的生産諸力、官僚制とデモクラシーといった問題についても、ウェーバー社会学の成果が、効果的にルカーチ物象化論へと導入され再編成されてゆく次第が追求される。

 第二部第三章、「ルカーチ弁証法の再構成のために-フランクフルト学派の問題圏」は、フランクフルト学派とりわけアドルノからのルカーチ批判に関わる問題群を探究する。A・シュミットなどによる論評の次元を越えて、問題の真の所在は、実在的自然の概念、そして実践倫理の問題圏のうちに探られるべきではないか、という方向がひとまずの提起である。たしかに、ルカーチの『歴史と階級意識』は、「自然とは社会的カテゴリーである」という決定的論点を提起していたが、社会的弁証法と分離された自然の弁証法についてはたちいってはいない。この間題へのアドルノの介入は、ベンヤミンを先行者として、『自然史という考え方』にはじまり、『啓蒙の弁証法』では、実在的自然の圧倒的威力が社会的諸関係へと反照するという把握に達する。自己保存=保身の手段を追求することそれ自体が目的となる全体主義的社会統合そして自然支配という構図のもとでは、しかし、いかなる実践も単なる盲動を越えるものではない、ということにのみなろうか。例えば、1956年のハンガリー「動乱」、すなわち「強制された和解」に対するルカーチの自己解放への決起と敗退の2年後、アドルノによって放たれた中期ルカーチ「文学論」批判は、ある不可解で錯綜した諸事情の介在を推測させるところである。こうして、アドルノのいう意味での「自然史」が、あらためて歴史的カテゴリーへと変換されなければならないのではないか、という方向性がふたつの問題次元にわたって論定される。補論として、ハバーマスの『コミュニケイション的行為の理論』にたいする批判的検討の試みを置く。

 第三部第一章、「後期『社会的存在論・論稿』、『社会的存在論序説』の位相-『歴史と階級意識』の〈過渡性〉試論」では、ルカーチ晩年の大作『社会的存在の存在論のために』が、当時の「ブタペスト学派」のメンバー、A・ヘラーやG・マールクシュ等によって批判された後、あらためて起稿された『社会的存在論のためのプロレゴーメナ』を軸にして、最晩年におけるルカーチの思想的境位を探ろうとする。スターリン時代を通じての「批判」と「自己批判」を越えて、とりわけ『プロレゴーメナ』では、社会的存在は非有機的存在、有機的存在をその基盤的存在性格としながら、目的的・選択的実践活動をその特性とする、という把握が反復されている。それは、いわゆる「初期ルカーチ」の方法をより実質化し、あらたな過渡性の水準を開く試みとして評価されるが、そこにいう「人間活動の社会的・歴史的理論」に相当すべき批判の次元が、なお充分には展開されていないと考えられる。補説として、1976〜78年ハンガリーでの「問題としてのルカーチ」をめぐる状況報告を置く。

 第三部第二章、「社会哲学の論理学のために-価値自由・総体性・批判」は、1961年ドイツ社会学会でのアドルノとポパーの報告に端を発する「ドイツ社会学における実証主義論争」から、その基軸的争点として、「価値自由」、「総体怯」の概念を把握したうえで、遡ってウェーバーにおける「価値自由」の理念とその現実とをその動機と展開において究明する。そして、ルカーチの「総体性」概念が、ウェーバーの理念の具体的徹底のひとつのかたちとして位置づけられ、再論される。そしてあらためて、例えばM・ジェイなどの談義が依拠する、アドルノの「ルカーチ』批判が再審されるであろう。アドルノにおける「感受性の現象学」への端緒、ルカーチが透視する「美学の現象学」こそが注目されなければならない。本章は、こうして「価値自由」の理念と「総体性」の概念とを社会哲学の論理学の、不断に新しく現実的たらざるを得ない範例として定礎しようとする。

 第三部第三章は、「イデオロギー批判の問題次元-アルチュセール・テーゼの転換」は、以上のように解釈されたルカーチの社会的存在論、社会哲学の論理学への基礎づけをイデオロギー批判の問題次元へと展開しようとする試みである。アルチュセールの『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』にみられるスピノザへの回帰が、ひとまずは人間存在の受動的契機に着目した点において評価されるが、その能動的・目的的実践の契機を位置づけ得ない点において批判される。諸集団から社会構成体にわたる社会的存在の「共同性」の動揺、危機は、イデオロギー的統一像の危機、解体として意識され、イマジネールであり、イデオロギー的ともなり、イデアール・レエールであり得るという社会的存在の原次元を露呈させつつ、転換への発端がかたちづくられる。「すべてがうまくいく」(アルチュセール)というのではなく、それが「何であり、何に成るか」という問いに、不断に新しく応答し続けることのうちに、社会的存在の本質ははじめて現成する。かくして、イデオロギー批判の問題次元こそが永続的なのである-これが、本論文における〈ルカーチ弁証法の探究〉を集約し、継承する原基的提題となる。

審査要旨

 審査対象となる論文-論文題名、「ルカーチ弁証法の探究」-の主題は、今世紀を代表するハンガリー生まれの思想家であるジェルジ・ルカーチの思想がどのようなものであったか、それが今世紀の困難な歴史のなかでどのような展開をしていったか、またその今日における意義はどのようなものなのかを研究したものである。そのために、取り分け、彼の初期において深い関わりがあるマックス・ウェーバーの思想、学問をどのように摂取したか、それをどのようにマルクス主義の思想へと作り変えていったか、またモスクワへの亡命時代のルカーチと所謂西欧マルクス主義の論客ルカーチとの整合性はどのようにつくのか、また戦後におけるフランクフルトフルト学派との競合関係はどのようなものなのか、さらに社会主義の崩壊の後におけるルカーチの評価はどうなるのかということが、研究の焦点となっている。

 本論文の第一部は、ルカーチの初期の著作、「魂と諸形式」、「小説の理論」、「歴史と階級意識」に展開された思想を辿ることによって、ルカーチの弁証法の中枢をなす「主体・客体同一」という概念の形成過程を明らかにする。

 第二部第一章は、「ウェーバークライス」にあった時期の論稿についての研究である。「芸術作品が実在する。それらの作品はどのようにして可能であるのか」というカント的前提から始めて、ルカーチは、「美学の現象学」を構想する。それのことを、高幣氏は、「全体的人間」が自らにとって不適合な世界に存在することによる拘束から脱却して、純粋な体験に適合した客体たる芸術作品を創造することへ向かう行程を明らかにするものと要約している。そして、ここで示された人間的意味の総体としての「新しきもの」への展望は、全面的にマルクス主義者としての作品である「歴史と階級意識」にも貫かれているとしている。

 第二部第二章では、高幣氏は、ウェーバーの客観的可能性概念が、ウェーバーにおいて価値への拘束からの解放という意味をもっていることを捉えて、これが、ルカーチによって「歴史と階級意識」の基本テーゼとして吸収されていく過程を論じている。それが、資本主義社会の階級闘争の状況を全面的に把握することが、この状況下での全面的被抑圧者であり、かつこれの撤廃の可能性を与えられたプロレタリアートにのみ託されているという理論が形成されることにつながっていくというのである。このような考え方は、マルクス主義の内部の理論であるには違いないが、またそれを超えて、今世紀前半の様々な思想潮流と響き合うものを持つ-たとえば、ハイデッガーの世界概念もそれに加えることができるというように-ものであり、それが、ルカーチを西欧マルクス主義の論客たらしめている所でもあれば、また彼をマルクス主義陣営で孤立させるところでもあったとしている。

 第二部第三章は、フランクフルト学派とりわけアドルノによるルカーチ批判を対象としている。そこで「自然史」という概念が問題点として取り上げられ、ここに示された物象化理論を再び歴史的カテゴリー、実践の文脈に変換するというルカーチの立場が確認される。

 第三部第一章は、ルカーチ晩年の「社会的存在論論稿」「同序説」の考察であるが、そこに、「人間活動の社会的・歴史的理論」という初期の主題が、不十分ながらも再生させられていることが確認されている。

 第三部第二章は、1960年代の所謂実証主義論争のなかでのルカーチの位置付けの検討に当てられ、その上で、第三部第三章にいたって、改めて、社会存在の共同性というものが、常に、その危機においてこそその真相を示すものであること、その意味でイデアール・レアールの両義性をもったものであることが確認され、そこにルカーチの弁証法の真髄があったと結論付けている。

 このようなルカーチ研究に、マルクス主義という枠を超えた二十世紀思想史研究としての意義があることはあきらかである。それを辿る高幣氏の論述は、苦汁に満ちたものであり、読者に対して必ずしも親切なものではない。ことにアドルノとの対比については、改めて論じ直す必要がある。しかし、永年にわたりルカーチに取り組んできた研究の厚みが示されていることも明らかであり、本審査会は、高幣氏に博士(文学)の資格あるものと判定した。

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