本論文は、平安時代末に出現した藤原俊成という歌人の和歌と歌論を中心にして、古代和歌から中世和歌へと転換した和歌史の動態を把握しようとするものである。渡部氏は、古代社会の産物であった和歌が、中世以降、現代に至るまで存続しえたのは何故かという問題意識を核に持っており、古代和歌から中世和歌への転換を、和歌的様式意識が風体・姿という形で内在化したことに求めている。そのような転換を体現したのが藤原俊成という人物であるという判断から、俊成の和歌の方法の精緻な読みと分析に基づいて、風体や姿が、「身」という語に象徴されるような固有の自己意識・存在感覚を吸収し組織づけたことに、その内在化の機制を見ようとしている。 本論文は序章および第一章から第四章までの五章に分けて論述されているが、まず序章「古代和歌から中世和歌へ」では、転換期の和歌の変容を「千載集」の形成に至る時期、「新古今集」の時代、「新勅撰集」の形成、という三つの時期に大きく分かれることを、俊成・西行・定家という巨大な歌人の表現の考察を通して論じており、本論文の総論をなすとともに問題の所在を明らかにしている。 第一章「藤原俊成の和歌と千載集」では、第一節「述懐百首について」において、藤原俊成の初期百首である「述懐百首」の表現分析から、客体化の文脈と同化の文脈を掛け合わせることで、我が身を転移するにふさわしい仮構的な「われ」を歌の中に築くという表現方法を俊成が獲得したことを明らかにする。第二節「久安百首について」では、歌人俊成の才能が本格的に開花したとされる「久安百首」において、俊成の本来的な主情性が和歌の中に転移する方法を精緻に解き明かしている。第三節「千載集の主題」では、俊成の編纂した勅撰集「千載集」の月の歌に着目し、天上と地上がはるかに通じ合う脱俗的な気分を促す指向性を「感応の主題」と名付け、述懐の主題と感応の主題とが緊密な相互関係を持って、「千載集」の和歌に固有の情調を生み出していることを明らかにしている。第四節「千載集の本歌取り」においては、本歌取りという表現方法を和歌の前面に押し出したのが藤原俊成であるとして、その表現構造を分析し、古歌の世界から距離を置きながらも逆にそこに自己を重ね合わせたいという欲望をかき立てていく、という構造を見出す犀利な指摘を見せている。第五節「俊成の自讃歌について」では、俊成の代表歌の一首を例にして、落花の美と嘆老の述懐との結びつきが漢詩の世界の表現に即すところから生み出され、それがさらに王権との関わりを不可避的にもつ和歌という文芸の表現の可能性の一つを切り拓いたことを指摘している。以上の第一章において、この時代を領導した藤原俊成の生涯の和歌事蹟に沿いつつ、俊成が如何にして新たな表現の方法を獲得し、何故それが時代の表現たりえたのかを論じている。 第二章「藤原俊成の歌合判詞」では藤原俊成の歌論に焦点を当てて、第一節「〈一句引用)の姿」においては、藤原俊成の歌合判詞に一句を引用して歌の姿を論ずるという特異な批評の方法が見えることを指摘して、「姿」という用語が「断層/重層構造」と渡部氏の呼ぶ表現構造と密接に関わることを論じている。ここには、〈一句引用〉の姿は『源氏物語』などの王朝物語の引歌とも密接に関わるという新鮮な指摘もある。第二節「『ふるまふ』・『ふるまひ』考」では、藤原俊成と顕昭に特徴的に見られる「ふるまふ」「ふるまひ」という和歌批評用語を分析して、両者の用法の相違を明らかにし、「新古今的美意識」の前提に豊かな人間的な形象が存することを述べる。第三節「艶と六百番歌合」においては、藤原俊成の批評用語のうち最も主要なものと言ってよい「艶」の用例を分析し、それらに王朝的な風流人の身と姿を彷彿とさせる機能があることを指摘して、それゆえに同時代の歌人たちの表現意識を、感覚的な部分をも含めて導くことが可能になったと論じている。 第三章「古来風躰抄」は、第一節「序文をめぐって」、第二節「狂言綺語観をめぐって」第三節「下巻冒頭部をめぐって」において、古来風躰抄の序文を読み手を和歌の世界に導き入れる戦略的な文章として分析し、身体的感覚を喚起しながら読み手を誘い込む言説とし、狂言綺語観が仏法の名のもとに和歌史と今の歌人とを結び合わせる触媒の働きをしているとした上で、「姿」は読み手が詠み手へと化身するための指標であるという、鮮やかな指摘を示している。 第四章「中世和歌の修辞的形成」では、第一節「歌合における題詠」、第二節「院政期の縁語の位相」、第三節「中世和歌と見立て」において、この時代の表現方法の主要な命題である、題詠、縁語、見立ての三つの方法を取り上げて、この時代の和歌が一種の古典回帰であることを示唆しつつ新たなる表現を生み出して行った様相を解明している。 筆者は本論文以外に、本歌取りや縁語、掛詞の分析を進めており、それらの成果もここに吸収されれば、より豊かな中世和歌の世界を提示しえたであろうと思われ、また、本論文で考究された問題は「修辞的」と呼ぶ以上の構造的深みにまで届いているとも思われるので、なお望蜀の言を提したいが、それらは本論文の価値をいささかも減じるものではなく、犀利な方法と精緻な表現分析とに基づいて随所に鮮やかな考察を展開し、中世和歌文学の研究に画期的な成果をもたらしたものとして高く評価しうると考える。 よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。 |