学位論文要旨



No 214303
著者(漢字) 津田,均
著者(英字)
著者(カナ) ツダ,ヒトシ
標題(和) 分裂病者の「決定不能」に関する一考察
標題(洋)
報告番号 214303
報告番号 乙14303
学位授与日 1999.04.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14303号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 中安,信夫
 東京大学 助教授 大嶋,巌
 東京大学 講師 天野,直二
内容要旨

 「決定不能(Entschluunfahigkeit)」は、とりわけ躁うつ病においてうつ病相にあらわれる症状としてあまねく知られるが、分裂病の場合においても見過ごすことのできない症状である。たとえば、あの洋服を着るべきかこの洋服を着るべきかと奇妙なしかたで迷い続ける患者など、ときに病棟に散見される。このような決定不能と関係する先行論述としては、とりわけ、Bleuler,E.が基本症状とした両価性があげられる。Bleulerは、患者の「食事を摂ろうとすると同時に摂るまいとする」といった症状を意志の両価性として論じ、また、患者の行おうとしたことの逆を声が言ってくるという幻聴体験をやはり両価性の観点から論じている。しかし、分裂病者にあらわれる決定不能を正面から取り上げ、それがいかにして成立してくるかを論じた考察は、これまでに少ない。

 本論では、まず、筆者自身が主治医として入院治療を担当した48名を決定不能の出現という観点から振り返った。臨床上一時的にでも決定不能が問題となった症例は12名であった。これは、緊張病性のシュープにさしかかるときに一過性に決定不能を示す群、日常生活のこまごまとしたことに自信が持てず決定不能となる群、治療者が新たな活動へと患者を促すときに決定不能を呈する群、妄想体系との関連の中で決定不能が出現する群、自己の心的葛藤と関係して持続的かつ長期にわたって日常生活の些細な決定の場面で決定不能に陥る群に分けられた。

 本論では、特にこのうちの最後の群を取り上げ、それに属する3症例が共通に示している決定不能のあり方を検討した。方法論的には、以下に具体的に示すように、これまで依って立つ基盤の違いが強調されてきた人間学的端緒と構造論的端緒の接続が必要であり、それによってはじめて、取り上げた決定不能がいかに成立してくるかが明らかになると考えられた。

 症例A(最終回入院時25歳、女性)は、妄想の中に女性性に関する主題が多かったり唐突に結婚の話題を口にしたりすることから、女性性、結婚にまつわる心的内容が重要な役割を果たしていると考えられた症例である。この患者は、さまざまな日常生活上の行動を自分の期待の妄想的実現と結びつけていた。たとえばAは、買い物に出かけるたびに、それがうまくできれば「お嫁さんになる」と期待し、病棟行事の盆踊り大会の際には、それに出ることができれば「大岡越前のおかみさんになる」と考えていた。ところがAは、まさに買い物に行くという段になって、行くべきか行かざるべきかと迷い、盆踊り大会のために浴衣を着るという段になって、病棟が貸し与えるまったく同じ既製品の浴衣をいくつか並べてどれを着るか決められなかった。この決定不能には多くの場合幻聴が関与しているようだった。Aは、まさにある選択をしようとしたところで、声に「そんなことをしては駄目だ」、「うぬぼれるな」などと言われるために、決定不能に陥っていた。

 症例B(入院時25歳、男性)は、病棟生活で、他患と自分のどちらが優位に立つかということで葛藤を抱いていた症例である。広島ファンのBは、あるとき他患の一人が「ことさらに自分の前で」巨人が広島に勝ったことを喜んでから、プロ野球の結果にこだわり始めた。それと平行して、売店へ行くのにどちらの道を回るか、売店へ行くべきか行かざるべきかなどで決定不能に陥ることが続いた。Bは、あるルートで売店へ行こうとしたまさにそのときに、「あっちを回れ」と幻聴の中で声に言われて立ち往生した。Bにとってこのルートの選択は重要で、そこで誤ると広島が負けたりするとBは考えているようだった。Bは、声の言うことを聞いて売店へ行ったのに広島が勝ってくれないとも訴えた。

 症例C(転院時23歳、女性)は、Aと同じく唐突に結婚の話題を持ち出すなどの傾向が見られた症例である。Cには、買い物に出かけようというときになって今出かけたものかと迷い続けたり、洗顔、歯磨きをしたものかと迷い洗面所に立ちつくすといった症状があった。Cは、トイレへ行くにもこちらから回れば「いい道」だとかあちらから回れば「悪い道」だとかがあり、「いい道」は「神様の御心にかなった道」で、それを選ぶことは「いい結婚」につながると考えているようだった。Cは、「いい道」だと思っていたのが実は「悪い道」だったりすることもあると述べた。Cは、前病院及び現在の病院が「選ばれた」病院で、そこでの指示に従うことにより、結婚の実現にすぐにも至るような治癒がもたらされると思っているようだった。しかし逆に指示を出し抜いた方がよいと思うこともあるようで、そのために、怠薬をしたり、洗顔、歯磨きをきちっとするという前病院のスタッフの指示に従うべきか従わざるべきかと決定不能に陥ったりするようだった。

 考察ではまず、決定不能の生じている地点の同定を行った。患者は自己の心的内容と関係してある期待の実現を目指しており、日常の、些細な行動をとることを、その期待の実現と結びつけていた。決定不能の生じる地点は、そのような患者が実際に行動の第一歩を踏み出そうとした地点、あるいは、選択肢から一つを選んで行動を進めようとした地点と考えられた。

 次に、決定不能の成立を理解する上で必要と考えられる2つの方法論を導いた。期待の実現へ向かおうとする患者の動きがいかなる特徴を持つかという問題は、患者の投企の特別な質についての問題であり、それについては、人間学的端緒を引きついで考察することが適当と考えられた。一方、決定不能がそこで生じている選択は、我々にとっては、些末な、それどころかほとんどの場合迷うべき意味連関のない選択であるのに対し、患者にとっては、自分を期待の実現へ導く選択肢を選ぶというきわめて重大な選択であり、当たりくじをひき当てるためのくじびきのようなものとなっていた。人は、実際に行動するときには、いくつかの選択肢からひとつを選んでそれを実行しなければならないという形で、人間の行動を分節化している構造に出会う。しかし、特別な質をもってあらわれた患者の動きは、この構造を通過することができず、そこに決定不能があらわれると考えられた。この点については、構造論的考察が必要と考えられた。

 人間学的観点から期待の実現へ向かおうとする患者の動きを見ると、そこにはまず、患者が自らが置かれた劣位を脱しようとする動きが見られること、同時に、その延長上には、出過ぎた、あるいは「思い上がった(Binswanger)」地点にまで至って期待の実現へ向かおうとする動きが存在することが指摘できた。また、この動きには、個別的な些事の実行が期待の実現の可能性へと結びつけられているという意味で、具象化傾向が認められた。さらにこの動きには、患者が自分をいちばん高い位置にまで引き上げようとする、患者が演技性を帯びた行動をとる、患者がある時は〜になる、ある時は〜になるというようにその都度違うものになろうとするといった特徴が存在した。

 構造論的観点から、このような特徴を持つ患者の動きがいかに決定不能に導かれるかを見ると、患者の動きを規定している論理は、患者自身と「あるもの」が結びつきそこで期待の実現が生じるという論理であると推定された。この論理においては、「あるもの」は、他のものとの比較、対置のもとにある「もの」ではなく、「それそのもの」として存在している「もの」である。しかし患者は実際に行動に移る地点で、排他択一的に他の選択肢との対置においてひとつの選択肢を選ぶことを要請される。この地点で我々は、選択肢を、それらが我々にとって持つ意味という観点から比較して、そのうちのどれかを選ぶ決断をし、その決断の実行によって、我々には、ある根拠のもとに、別の選択肢ではなくその選択肢を選んだという歴史が残されることになる。しかしこの地点で患者は、くじをひくようにして、いくつかの選択肢の中から、自分を期待の実現へと直接導く選択肢をあくまで選ぼうとすると考えられた。

 したがって選択の地点は、患者にとって、自力では通過することのできない関門のようなものとなっていた。そこでしばしば幻聴が介入した。患者は、幻聴の主が正しく自分を導いてこの関門を通過させてくれるのではないかと期待するので、幻聴の主に依存していた。しかし幻聴の主は、患者が行動を起こそうとするときにその行動の「出過ぎた」ところを厳しく指摘する存在として、あるいは患者を助けて期待の実現に導くような素振りを見せながら実は導かない「騙す」存在としてあらわれていた。そのため患者は、自分の行動を貫くことも、声の言うことに従うこともできず、決定不能に陥っていた。このような決定不能の時間性は、患者がまさに行動の第一歩を踏み出そうとしたときに、あるいはまさに選択肢からひとつを選んで進もうとしたときに決定不能に陥るという特徴を有していた。

 患者に対して具体的、指示的なアプローチをする人、たとえば、患者に具体的に規範的な行動をとるように要請する人、決定不能に陥っている患者を見かねてどちらかを選ぶように勧める人などは、患者にとって、この「騙す」存在の位置を占める可能性がある。そのような人に対する患者のふるまいは、両価的なものとなる。したがって治療スタッフは、このことを理解し、患者の両価的なふるまいに耐えることが必要であることを指摘した。また治療スタッフは、決定不能そのものに対処するだけではなく、そこに関与している患者の葛藤と、期待の実現へ向かう動きの背景をなしている状況に注意を払うことが重要であることを論じた。

審査要旨

 本研究は、分裂病患者に見られる「決定不能」がいかに成立するかを明らかにしようとしたものである。この決定不能は、Bleuler,E.が基本症状とした両価性のあらわれであるという点で精神病理学的に重要な現象である。一方それは、患者が治療者の促しにしたがうべきかしたがわざるべきかで迷うという形としてもあらわれるので、治療的観点からも重要である。

 著者が実際に主治医として入院治療にかかわった48症例を決定不能の出現という観点から見ると、臨床上一次的にでも決定不能が問題となった症例は12症例あった。これは、緊張病のシュープにさしかかるときに一過性に決定不能を示す群、日常生活のこまごまとしたことに自信が持てず決定不能となる群、治療者が新たな活動へと患者を促すときに決定不能を呈する群、妄想体系との関連の中で決定不能が出現する群、自己の心的葛藤と関係して持続的かつ長期にわたって日常生活の些細な決定の場面で決定不能に陥る群に分けられた。

 本論ではこのうちの最後の群に属する3症例を特に取り上げ、そこに共通にあらわれている決定不能の成立のあり方を検討し、次の結果を得た。

 1.この群では、決定不能は、ある期待の実現へ向かおうとする、心的内容に担われた患者の動きと結びついていた。この動きが、実際にある行動を開始するに至る地点、排他択一的にひとつの選択肢を選ぶという課題に逢着する地点が、決定不能の生じる地点であると考えられた。

 2.期待の実現へ向かおうとする患者の動きの特徴を人間学的観点から考察した。それは、患者が自らの劣位から具象化された方法で脱しようとする動きとしてあらわれていた。同時にそれは、「出過ぎた」地点にまで至って、演技的に、自分がさまざまなものになろうとするという傾向をもった動きとしてもあらわれていた。

 3.この動きが決定不能に陥る様態を、構造論的観点から考察した。患者の動きの論理は、期待の実現へ向かおうとする一回一回の動きにおいて、患者がある「もの」と結びつき、そこで「自分が〜になる」ということが実現するという論理であると推論された。この論理においては、ある「もの」は、他の「もの」との対置のもとにはない。しかし患者は実際には、排他択一的選択の地点で、ある選択肢ではなく別の選択肢を選ぶという形で「もの」とかかわることを要請される。選択の地点で我々は、選択肢をお互いに対置するものととらえ、選択肢間の差異が我々に持つ意味を考慮して選択をする。しかし患者は、選択肢の中に自分の期待の実現に直接つながるものがあるとして、あくまでそれを選ぼうとして、決定不能に陥っていると考えられた。

 4.この選択の地点で患者は幻聴の介入をしばしば蒙っていた。また実際に治療スタッフが決定不能に対して介入することを余儀なくされた。このとき、幻聴の主や実在の他者は、患者にとって、患者の起こそうとしている行動の「出過ぎた」ところを指摘するものとして、あるいは、患者を助けて期待の実現に導くような顔をして実は導かない「騙す」存在としてあらわれていた。そのために患者はさらに決定不能に陥っていた。

 5.治療的には、患者に対して具体的指示的なアプローチをする治療者は、自分が患者にとってこの「騙す」存在の位置を占める可能性があることを理解し、そこに生じる患者の両価的な感情に耐える必要があると考えられた。また、直接決定不能という問題行動にかかわるのではなく、期待の実現へ向かおうとする患者の動きの背景をなしている、患者の置かれた状況やそこでの患者の葛藤に目を向けることが重要であると考えられた。

 以上、本論文は、従来方法論的基盤の相違が強調されていた人間学的立場と構造論的立場を接続することによって、分裂病患者にあらわれる「決定不能」の少なくとも一部は、特異な人間学的特徴を持ってあらわれる患者の投企が排他択一的選択を行うことを人に要請する構造に出会うところから生じてくることを、明らかにした。これは、分裂病の一現象に対する新たな精神病理学的理解の可能性を示しその現象に治療的接近をする上での留意点を示唆したものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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