近年、ますます多様な生物種を対象にゲノム解析が行われてきており、昆虫については大規模なショウジョウバエゲノムプロジェクトが進行中である。しかし動物種の約80%を占めるほどに多様に分化して生態系において大きな比重を占めていることを考えると、系統的に異なる昆虫種に対してもゲノム解析を進めることの意義は小さくない。特にカイコは伝統的な絹糸生産に加え、近年ではバキュロウイルスを用いた異種蛋白質の発現にも利用されるなど、有用物質の効率的な生産系となりうるものと期待されている。また、数百系統もの突然変異を始めとした古典的遺伝学研究の蓄積に加えて、データベースに登録された遺伝子等の種類も昆虫ではショウジョウバエに次ぐなど分子レベルの研究も盛んである。さらに、主要な農業害虫の多くを含む鱗翅目に属するので得られた知見の害虫防除への応用も考えられるなど、昆虫のalternative modelとしては最適である。そこで外来遺伝子の導入系や高精度の遺伝地図・物理地図など、ゲノムレベルからの生命現象の理解に不可欠な研究基盤を、カイコにおいて早急に確立することを目的として研究を行った。 まず、外来遺伝子の導入のためのマーカー遺伝子とするべく、カイコのキサンチン脱水素酵素(XDH)遺伝子のクローニングを行った。ショウジョウバエとラットの間で保存されているアミノ酸残基をもとにdegenerated primerを設計し、産卵後48時間の胚のmRNAを鋳型としたRT-PCR反応をおこなったところ、2種類の増幅断片が得られXDH遺伝子の一部と思われた。これらをもとに各約4kbのcDNAの全塩基配列を決定して、その推定アミノ酸配列を他生物種のXDH遺伝子と比較したところ高い相同性が見い出されたので、BmXDH1およびBmXDH2と命名した。両遺伝子の発現はマルピーギ管・脂肪体・中腸でともに顕著であり、XDH酵素活性から推定される結果とよく一致した。 XDH酵素活性の著しく低い油蚕突然変異系統であるog,ogt及びoqについてBmXDH1・XDH2の遺伝子構造や発現を調べたところ、oq系統のBmXDH1遺伝子に多くの塩基置換が見い出された。またBmXDH1遺伝子の第2イントロン長も野生型と異なっていたので、このイントロン長多型とoq形質との連関を検索したところ、BmXPH1遺伝子とoq形質が強く連鎖していることが判明し、BmXDH1遺伝子がoqの油蚕形質の原因遺伝子であることが強く示唆された。以上の結果から、BmXDH1遺伝子をマーカー遺伝子にoq系統をrecipientとした外来遺伝子の導入系を構築しうるものと考えられた。 次に、カイコの高密度連鎖地図を作製した。カイコのゲノムサイズは約530Mbとされているので、マーカーの平均間隔を1Mb以下にするためには少なくとも530個以上のマーカーが必要である。カイコの場合1個体から得られるDNA量が限定されるため、PCRに基づく連鎖解析法を検討することとし、短期間に大量にマーカーを単離するために塩基配列の情報を必要としないRAPD(Random amplified polymorphic DNA)法を試みることにした。 一般にRAPD法では1種類のプライマーが用いられているが500個以上のマーカーを得るには数千本ものプライマーが必要となり事実上不可能である。そこで、通常のPCR反応と同様に2本のプライマーを用いたRAPD法を試みた。市販の10-merのプライマー140本を2本づつ組合せた7,757通りについて、F2連鎖解析の親系統である支108とp50間の多型を検索した。このうちの712組から生じた1,010本の多型バンドを最終的に地図の作製に使用した。また、DNAデータベースに登録されている遺伝子からSTS(Sequence tagged site)を設定し、多型を示した8種類についてもマッピングを行った。これらのマーカーを用いて、支108とp50間のF2166個体の連鎖解析を行った結果、カイコの染色体数と一致する28個の連鎖群が見出された。 カイコの性決定はZW型であり、その卵子形成時に相同染色体間の組換えが起きないことが大きな特徴である。その結果として、F2個体の常染色体1対のうち母親(F1)由来の1本は非組換え型であり、父系統由来か母系統由来かを識別することができる。この非組換え型染色体のF2個体における分離パターンは各染色体について固有と予想されるが、どの連鎖群もパターンが異なり互いに独立であった。したがって、これらの連鎖群がカイコの全常染色体とZ染色体と1:1に対応していることが確認できた。このうちZ染色体については、母系統由来の優性マーカーが1:1に分離し父系統由来の優性マーカーは全ての雄に例外なく検出されることが予想され、その条件を満たす連鎖群を同定することができた。作製した連鎖地図は約2,000cMの領域をカバーするものと考えられ、マーカーの平均間隔は遺伝的距離としては約2cM、物理的距離としては520kbと推定された。さらに既存の形質マーカーによる古典的連関群との対応づけのために、支108と劣性突然変異系統との交配も行った結果も総合して、7個の古典的連関群との対応関係が明らかになった。 次に、遺伝子等の生物学的な情報をもつ塩基配列をより効率的に連鎖解析する方法として、ヘテロ2本鎖形成の応用を試みた。通常のPCR反応の後に熱変性・アニーリング反応を行いヘテロ2本鎖の形成を促し、1Mの尿素を添加したアガロースゲルまたは市販のポリアクリルアミド系ゲルを用いたCSGE(Comformation-sensitive gel electrophoresis)解析を行うことにより、特異的に出現する泳動速度の遅い断片を検出した。この断片はS1 nucleaseに対して感受性であり、F2個体の遺伝子型について他の方法で得られた結果とも一致することから、ヘテロ2本鎖であると考えられた。この方法により、新たに13種類の遺伝子をマッピングすることが出来た。 カイコゲノムのW染色体を除く全領域を網羅する連鎖地図が構築できたので、次の段階として挿入可能な断片長の長いベクターによるカイコのゲノミックライブラリーの作製を行うこととした。ベクターとしては、取り扱いの容易さやキメラクローン形成率の低さ等から、バクテリア人工染色体(BAC)を用いることにした。カイコの5齢幼虫の後部絹糸腺から調製したアガロースプラグをHind IIIで部分消化しパルスフィールド電気泳動によりサイズ分画した高分子量DNA(200-500kb)をBACベクターpBAC-Lacに挿入して、大腸菌にエレクトロポレーションして得られた形質転換体を96穴マイクロタイタープレートに保存した。F2連鎖解析の親系統として用いた支108とp50の双方からライブラリーを作製し、最終的に支108については13,824個、p50については23,040個のクローンを保存した。平均挿入断片長はそれぞれ120.8kb(支108)および134.5kb(p50)であったので、ライブラリーの規模はカイコのゲノムサイズの約3.2倍と約5.8倍に相当するものと考えられた。 これらのBACライブラリーから実際に目的とするクローンを単離できるかを確認するために、いわゆる3次元PCRスクリーニングをp50のライブラリーについて行った。すなわちクローンを保存する際に、各マイクロタイタープレートの行と列ごとに培養液をまとめてBAC-DNAを抽出し、これらをプールすることにより、プレート12枚を1単位とした行(xA-H)・列(y1-12)・プレート(zA-L)の各プールを調製した。スクリーニング用のマーカーとしては、既知の遺伝子28種から設定したSTSを使用し、スクリーニングの信頼性を検討するために5種の遺伝子については複数のSTSを設定した。以上、合計で34種のSTSによるPCRスクリーニングを行ったところ、STS1個あたり3-11個、平均6.1個の陽性クローンが単離され、ライブラリーの規模であるゲノムサイズの約5.8倍とよく一致する結果が得られた。複数のSTSを設定した遺伝子については、一例を除いて部分的または完全に重複するクローンが単離された。以上の結果から、作製したBACライブラリーの規模、品質及びPCRスクリーニングの信頼性は共に高いものと結論した。また、このスクリーニングの過程で、セリシン1遺伝子とDH-PBAN遺伝子が約22kbの間隔で背向して隣接していることが判明した。 PCRスクリーニングにより単離したBACクローンをさらにサブクローニングして塩基配列を決定し、それに基づく新規STSを設定することにより、多型の見出されなかった遺伝子をマッピングすることも試みた。その結果、9種類の中7種類について新たにマッピングすることができた。また、カイコにおけるホメオボックス遺伝子の位置関係についても、Antp,Ubx,abd-A,Abd-Bの順に配列していることが新たに明らかになった。 以上述べたとおり、カイコの全ゲノムを網羅するコンティグを構築する上での基本的な問題点は、既に解決できたものと考える。現在、ゲノムの特定領域についてコンティグの構築に着手したところであり、ポジショナルクローニングやジーンターゲッティング、将来的には全ゲノムの塩基配列の決定など様々な用途への利用が可能となろう。 |