学位論文要旨



No 214336
著者(漢字) 小林,かおり
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,カオリ
標題(和) 含窒素短寿命分子のマイクロ波分光
標題(洋) Microwave Spectroscopy of the Nitrogen-Bearing Transient Molecules
報告番号 214336
報告番号 乙14336
学位授与日 1999.05.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第14336号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 助教授 山本,智
内容要旨

 本研究では含窒素短寿命分子のマイクロ波分光による研究を行った。マイクロ波分光による研究の最大の利点は非常に高い精度のデータが得られる点にあり、電子状態についての広い意味での分子構造を明らかにすることができる。本論文は二部構成となっており、ひとつは電子励起状態にある分子について、もうひとつはNHDという1つの電子スピンと窒素、水素、重水素の3つの核スピンをもつ4スピン系であるNHDについてのマイクロ波分光による研究である。

1.電子励起状態分子種のマイクロ波分光

 基底状態の分子のマイクロ波分光の報告は多数あり、非常に精度の高い分光学的データを与えてきた。しかしながら、電子励起状態でのマイクロ波分光は電子励起状態分子種の報告は少ない。この最大の理由は目的の電子励起状態の分子をマイクロ波分光での測定に十分な量の生成させることが難しいためである。基底状態とは異なるスピン多重度の励起状態(準安定状態)の分子は放射寿命が比較的長く、濃度の高い状態を保ちやすいためマイクロ波分光を適用するよい候補である。これらの状態の超微細構造を含めた分子定数を明らかにすることは、電子励起状態での分子構造や電子構造の変化をマイクロ波分光の精度で検討することになり、その意味は大きい。本研究開始時点ではSO(1)が1970年に初めて報告されて以来、O2(1g),CO(3,b3+),NF(1),SO(b1+)についての報告にとどまっていた。

 O2,SOのような分子は二つの軌道(最高占有軌道)内の核スピンの配置が異なることにより基底状態(3-)以外に1,1+という二つの準安定状態がある。図1に概念図を示す。電子励起エネルギーはNFの値である。このような準安定状態の分子は化学レーザー発振への利用も検討されるなど興味のある分子である。基底電子状態やこれらの電子励起状態とのポテンシャルに関する定数を含めた分子定数の差異は核スピン配置の違いを反映したものと考えられる。本研究ではO2,SOと等価電子状態にあるNClラジカルについて、その第一及び第二電子励起状態である1,b1+状態でのマイクロ波スペクトルを初めて明らかにした。特にNCl(1)の回転定数は初めて実験的に得られたものである。またNFラジカルについても第二電子励起状態にある分子を初めてマイクロ波分光で検出することができた。実験はすべて光源変調型のマイクロ波分光器を用いて行った。図2にその構成を示す。液体窒素によって冷却した2mのパイレックス製のガラスセル中にNClでは窒素ガスとヘリウム中に希釈した塩素ガスを流し、直流放電することにより、電子励起状態にあるNCl分子を生成した。NFでは三弗化窒素と水素の直流放電によって生成した。ポテンシャルパラメーター及び平衡結合距離を求めるためにいずれも振動基底状態及び振動励起状態について測定した。NCl(a1),J=9-8のスペクトルを図3に示す。

図1 NFラジカルのエネルギー準位図図2光源変調型マイクロ波分光器のブロックダイヤグラム図3 NCl(1),J=9-8のスペクトル

 解析はそれぞれ1,1状態に適したハミルトニアンに超微細構造を取り入れて行ったが、NCl(1)の場合には窒素と塩素の核スピンの超微細構造の寄与が同程度であるため、従来の角運動量の結合様式,F1=J+ICl,F=F1+IN(Jは、核スピンを除いた全角運動量、ICl,INはそれぞれ塩素、窒素の核スピン、Fは全角運動量)によるエネルギー準位の記述が適していない。従って新たに上述の状況にふさわしい結合様式,G=Icl+IN,F=J+Gを定め、球面テンソルを用いてハミルトニアンの行列要素を求めた。この行列要素を用いて、最小二乗によって分子定数を求めるプログラムを作成した。

 Dunham展開を用いると核間のポテンシャルUは結合距離、r、および平衡結合距離、reを用いて次のように表される。

 

 得られた分子定数からこれらの0,1,2という非調和項を含む平衡点近傍のポテンシャルパラメーターを決めることができた。表1にNClの場合の値を、等電子状態にあり、準安定状態を含めてマイクロ波分光のデータの揃っているSOの結果と併せて示す。基底電子状態と電子励起状態を比較することにより、スピン状態の変化が結合距離やポテンシャルに及ぼす影響についての知見を得ることができた。そのうちのポテンシャルパラメーターについて検討すると、NClでは結合の強さ(ポテンシャルの深さ)を表す0(力の定数に対応する)は、基底状態から第一、第二励起状態へと大きくなるが、ポテンシャルの形状を表す1,2はほぼ一定に保たれていることが実験的にわかった。つまり、スピン配置の違いは結合の強さ、ポテンシャルの形状には影響していない。これを他にSOと比較すると、結合の強さはNClとは逆に減少していくが、形状はやはり一定に保たれている。NFの場合にもポテンシャルパラメーターを求めたところ、NClと同じ傾向を示した。

表1NClとSOのポテンシャルパラメーターaC.Yamada,Y.Endo,and E.Hirota,J.Chem.Phys.79,4159(1983). b本研究 cM.Bogey,C.Demuynck,and J.L.Destombes,Chem.Phys.66,99(1982). dY.Endo,H.Kanamori,and E.Hirota,Chem.Phys.Lett.141,129(1987). eS.Yamamoto and S.Saito,J.Chem.Phys.86,102(1987).
2.4スピン系NHDラジカルのマイクロ波分光

 NH2ラジカルは窒素の水素化の中間体あるいはアンモニアの解離生成物となる重要な分子である。その一重水素置換体であるNHDラジカルは膨大な研究例のあるNH2ラジカルに比べて研究例は少ないが、星間空間の重水素濃縮に関する知見を得るのに重要なプローブとなる分子であり、その静止周波数を得ることは電波天文学的にも重要である。また、NH2は対称性からb軸方向にしか双極子モーメントを有しないためにb-typeの遷移しか観測できないが、NHDは図4に示すように重水素による置換によって主軸が回転するため、永久双極子モーメントを,b両軸に対してもち、b-typeだけでなくa-typeの遷移も観測可能になり、より多くの情報が得られると期待される。NHDは1つの電子スピンと窒素、水素、重水素の3つの核スピンをもっているため非常に複雑なスペクトルを呈し、非対称コマでこのような4スピン系の分子についての研究例は少ない。これまでの最も詳細な研究である光-マイクロ波二重共鳴法による研究においても、超微細構造定数にはNH2ラジカルからの計算値を用いて解析を行っており、実験的には決定していない。本研究ではNHDラジカルの純回転スペクトルをマイクロ波分光法により測定し、超微細構造の実験的決定を目的とした。

図4 NH2,NHDの分子構造と主軸の対応関係。実線は主軸、破線はNH2の場合の主軸

 NHDラジカルはNH3とD2混合物の直流グロー放電により生成した。微細構造および窒素核、水素核、重水素核の各超微細構造によって最大36本に分裂した10本の回転線を177GHzから518GHzの領域で測定した。

 解析には二重項ラジカルについてのWatson’s A-reduced HamiltonianにN,H,Dの3つの核の超微細相互作用を取り入れたものを用いた。これにはNH2ラジカルの結果から予想される3つの核の各核スピン-回転相互作用も含まれている。電子スピンを含めて4スピン系についての超微細構造のエネルギー計算は、非対称コマについてはこれまで例がほとんどなく、その導出を初めて行い、スペクトル解析用のプログラムも開発した。低い回転準位では、弱い遷移が多数観測され非常に複雑なスペクトルであったことと後述の相互作用を当初は考慮していなかったため、スペクトルの帰属、解析はは非常に困難であったが、最小二乗解析によって、回転定数、遠心力ひずみ定数、遠心力項を含む微細構造定数およびそれぞれの核の超微細構造定数を精度よく決定することができた。超微細構造はNH2から予想される値とほぼ一致したが、NH2では決定されていない非対角項を実験的に決定することができた。また、水素の核スピンについてはK依存性を持つ項が双極子-双極子相互作用定数に必要であることがわかった。これはNHDラジカルがNH2より対称性が落ちるために、回転が励起されることによる構造変化が超微細構造に現れたものであることがわかった。

審査要旨

 本論文は7章から成る。第1章は序論、第2章は実験方法と装置の概要、第3章ではNCLラジカルの第1電子励起状態のマイクロ波スペクトル、第4章ではNCLの第2電子励起状態のマイクロ波スペクトル、第5章ではNFラジカルの第1,第2電子励起状態と振動励起状態のマイクロ波スペクトル、第6章ではNHDラジカルの基底状態のマイクロ波スペクトル測定とそれらの解析、そして、第7章では全体の要約が述べられている。

 第1章では、過渡的な短寿命分子の高分解能分光法の歴史、マイクロ波分光法による分子の電子励起状態の研究をすることの意義、電気四重極、核スピンと分子回転運動とのカップリングがスペクトルにどのように影響を及ぼすかについて述べられている。

 第2章では、実験の詳細が述べられている。実験はすべて光源変調型のマイクロ波分光器を用いて行い、電子励起状態化学種の測定は、液体窒素によって冷却した2mのパイレックス製のセルに試料ガスを希ガスで希釈して流し、直流放電することによって生成して行ったものである。

 第3章では、NCLラジカルの第1電子励起状態(a1)のv=0,1振動状態の回転スペクトルについて述べられている。この場合、窒素と塩素の核スピンの超微細構造への寄与が同程度であるために、従来の角運動量の結合様式によるエネルギー準位の記述が適していない。そこで、新しい結合様式を考案して球面テンソルを用いて解析を行い、2つの振動状態に対して分子定数を求め、平衡構造を決定している。

 第4章では、NCLラジカルの第2電子励起状態(b1+)のv=0,1振動状態の回転スペクトルについて述べられている。第3章と同様な実験によって解析を行った結果、結合の強さを表すパラメーターa0は基底状態から第1、第2励起状態へと大きくなるが、ポテンシャルの形状を表すa1,a2はほぼ一定に保たれていることが分かった。

 第5章ではNFラジカルの第1電子励起状態(a1)および、第2電子励起状態(b1+)のv=0,1振動状態について同様なマイクロ波分光スペクトルの測定とその詳細な解析が述べられている。得られた分子定数、平衡構造やポテンシャル曲線に関する結果は第3,4章で述べたNCLと高い類似性を示している。

 第6章では、4スピン系NHDラジカルのミリ波からサブミリ波のスペクトルの測定とその解析結果について述べている。NHDラジカルは星間空間の重水素濃縮に関する重要な知見を得るプローブとなりうる分子として注目されている。しかし、この分子には1つの電子スピンと窒素、水素、重水素の3つの核スピンによって非常に複雑なスペクトルになる。このような4スピン系についての超微細構造のエネルギー計算は、非対称コマについてはほとんど例が無く、その導出方法を新しく開発した。そして、最小二乗解析によって天体観測で最も重要な回転遷移である101-000と110-101を含む10本の回転遷移に対して、回転定数、遠心力ひずみ定数、遠心力項を含む微細構造定数、および、それぞれの核の超微細構造定数を精度良く決定することに成功した。そして、NH2ラジカルと異なり、対称性の低下によって回転励起による構造変化が超微細構造に現れたことを示した。

 本論文は高分解能マイクロ波分光法の分子への応用研究であるが、それは大きく2つに分けられる。一つは不安定分子種の詳細な分子定数の決定であり、他の一つは複雑な4スピン系での超微細構造定数の決定である。いずれも複雑な核スピンと電子スピンとのカップリング、電気四重極子の効果を取り入れた斬新な解析法を開発して求められたもので、得られた情報は分子科学、特に星間分子科学、レーザー分光学などにおいて重要な価値を持ち、今後の発展に寄与するところ大である。

 なお、本論文に述べられている研究成果は共著論文の形で公表済みであり、共著者は研究の指導者、研究協力者であるが、論文提出者の寄与が最も大きいと判断される。また、共著論文の内容を学位論文にすることについては、全ての共著者の承諾を得ている。

 したがって、小林かおり氏は博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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