本論文は、世界人口の8割を占める途上国の人々にも受け入れられる地球規模の正統性をもつ人権観とは何かを考察し、「文際的人権観』を提唱するものである。「文際的(intercivilizational)」とは筆者が年来提唱している概念で、複数文明の併存という観点から国際問題を見る視点、あるいは問題解決へのアプローチを意味する。欧米中心的な発想が支配的な状況の下では、それはまずもって欧米中心的発想への批判として現れ、欧米中心の文明の枠内でなく他の文明の観点をも取り込んで、新しい角度から国際問題を考えることを意味する。筆者によれば、このような文際的視点ないしアプローチは、安全保障、環境、経済などさまざまな国際問題との取り組みにおいて必要とされる。本論文は、このような文際的視点ないしアプローチの人権分野における試みであり、とりわけ欧米中心的な「普遍主義的人権観」が批判の対象とされる。 この欧米中心的な「普遍主義的人権観」に潜む問題点として、特に自由権中心主義と裁判中心主義が批判され、また「欧米=普遍、非欧米=特殊」という発想の問題性が明らかにされる。筆者によれば、普遍主義的人権観が、最初から欧米中心的な人間観と達成すべき価値についての暗黙の共通性を措定し、法中心主義的なメカニズムを重視するのに対して、文際的人権観は、異なる価値体系と人間観の併存を受け入れた上で、相互批判と受容の過程でこれらの差異を統合し、克服することを目指すものである。そして、地球的規模の正統性をもつ文際的人権観は、現行の主要な国際人権文書を手がかりとし、それを文際的視点から補完し是正するという方法によって確定していくべきであると主張される。 本論文は、序に続く7つの章から構成される。 序「問題の所在」においては、1990年代に人権が普遍的なものか相対的なものかをめぐる激しい論争が展開されたが、その要因が、(1)冷戦の終結に伴って西側諸国の体制理念である人権が一層強調されるようになったこと、(2)米国において人権論議が活発化したこと、(3)欧米の人権外交に東アジア諸国が反発したこと、などにあるとの指摘がなされる。そのうえで、「人権の普遍性」が「欧米先進国の普遍性」と同一視され、儒教やイスラームなどの文化や宗教が普遍性に反する「特殊なもの」として引き合いに出されている現状への疑問が提起される。 第1章「国際秩序を揺るがす3つの相剋と文際的アプローチの必要性」においては、1990年代に人権が国際社会で激しい論議の対象となった背景として、(1)経済、情報の国際化と主権国家体制との相剋、(2)先進国国民を中心とする世界的規模の人間尊厳の希求と先進国に対する途上国国民の被害者意識との相剋、(3)東アジア諸国の経済的勃興とアメリカを中心とする知的覇権との相剋、の3つの根本的問題があげられる。そのうえで、これらの相剋を克服する視点として、「文際的」人権観の必要性が主張される。そして、このような文際的視点と先行学説が唱えた「文化横断的(cross-cultural)」視点及び「民際的(transnational)」視点との異同が明らかにされる。筆者が「文化」でなく「文明」を分析の中心に置いた理由として、現行人権文書や人権理論・実務において、「文化」が包括的概念でなく、政治や経済を含まない狭義の概念として用いられていること、「文明」は一国、一民族を超えた広がりをもつものとして使われる傾向が強いことが説明される。 第2章「国際社会における自然権思想」においては、自然権思想が国家の基本権の理論を生み出したことが、ビトリア、グロティウス、ホッブス、ヴァッテルらの思想の分析を通して明らかにされる。そしてその後有力になる国家の基本権の理論及びその発展としての国家の権利義務を定式化するという考えは、第二次大戦後次第に影を薄くしていくが、その中にあって個人の自然権という発想の枠組は、さまざまなかたちで第二次大戦後も国際法の観念や制度の中に生き続けていることが指摘される。具体的には、個人の自然権は、国際人権保障、人民の権利、及び国家平等原則に大きな影響を与えたとされ、その影響が分析される。とりわけ、個人の自然権は国際人権保障の思想的背景をなしたばかりでなく、国際人権保障が個人の自然権の実現を国際的次元で確保するという関係にもあることが指摘される。そして、国際社会において弱小国が自らの主張を「権利」として定式化するのは、国際社会が分権的な格差の大きな社会であり、そのような「権利の言説」が要求の実現の上できわめて効果的な手段だからであると説明される。 第3章「人権は主権を超えるか-不干渉原則と『普遍的価値』との相剋」においては、人権と不干渉原則との関係が検討される。不干渉原則は、第二次大戦後、友好関係宣言などを通じて強化されてきた一方で、国内管轄事項は、経済と情報の国際化、人権に代表される普遍的理念などによって縮減される傾向にあることが指摘される。そのうえで、人権の国際的保障制度の説明がなされ、国連による履行確保、人権条約による履行確保、国際刑事手続による人権侵害の抑止が吟味されるが、これらは大規模で深刻な人権侵害の是正手段としては実効的でないと指摘される。そのため1970年代以降、一部先進国の学者は、個別国家による「人道的干渉」を是認する論を主張してきたが、先進国を含む多くの国々はこれを正面から認めることには消極的だったとして、筆者自身も慎重な姿勢を示す。他方で、1990年代に入ると、国連は、ソマリア、ルワンダなどにおける大規模な人権侵害に対して、国連憲章第7章に基づいて強制措置をとるようになった。このような国際社会の実行を踏まえて、筆者は、大規模で深刻な人権侵害を阻止するための干渉の合法性と正統性を考えるための準拠枠組みを提示する。それは、(1)人権侵害の種類・程度、(2)保護されるべき人権の主体、(3)干渉の主体と方法、(4)干渉の現実的可能性、(5)武力行使の最終性と均衡性、(6)異文化理解及び一貫性の要請、を考察する。 第4章「人権の普遍性対相対性論争と現行人権基準の問題性」においては、人権の普遍性対相対性論争が検討される。人権は欧米でもごく最近まで男性、有産者、白人、キリスト教徒、文明国国民などに限られたものとして捉えられてきたとして、「人権の普遍性」論のイデオロギー性が指摘される。他方で、非欧米知識人には、欧米による人権の普遍性の主張を否定しながら、自己が属する文明にも人権があったと反論するという議論のねじれがあるとされる。そして、このような問題を含む人権の普遍性対相対性の論争を対象化し、地球的規模の正統性をもつ人権の評価基準と枠組を確立することの重要性が説かれる。次に、国際的に大きな影響力をもつ主要人権NGOの人権評価が批判的に検討され、アムネスティー・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、フリーダム・ハウスなどの人権評価が、(1)過度の自由権中心、(2)評価手続の透明性の欠如、(3)文際的正統性の欠如などの問題を含むことが明らかにされる。そして最後に、人権の順位づけの枠組みが提唱され、当該人権が(1)どれだけ多くの当事国をもつ人権条約において規定されているか、(2)国家の対世的(erga omnes)義務によって保護されているか、(3)緊急事態でも効力停止できないか、(4)強行規範か、(5)その侵害は国際犯罪とされているか、(6)民際的正統性をもっているか、(7)文際的正統性をもっているか、などの検討が必要であると主張される。 第5章「欧米中心主義、自由権中心主義、個人中心主義の問題」においては、文際的視点から、欧米中心的な「普遍主義的人権観」が批判される.本章では、まず,人権が欧米を中心に発展してきたことから、欧米特にアメリカにおいて支配的な自由権中心主義が国際社会でも大きな影響をもってきたことが指摘される。しかし筆者は、次のような要因から、自由権中心主義の見直しの兆しが現れていると主張する。(1)途上国による生存権の主張、(2)先進国における社会権の重要性の認識、(3)自由権保障における国家の積極的義務の認識、(4)非国家主体による侵害からの自由の重要性の認識、(5)司法府の役割の相対化、(6)自由権と社会権二分論に代わる人権類型論の台頭、(7)人権の相互依存性の認識、などである。また、欧米では、人権の享有主体である人間を「個人」と同視し、途上国が主張する集団的権利を批判する傾向が強いことが指摘される。そして、人権は歴史的に変化するものであり、社会権や集団的権利といった自由権以外の人権が人権概念に包摂されてきたことは、近代欧州に生まれた人権にとっての勝利にほかならないと解釈すべきことが主張される。 第6章「人権の普遍化と非欧米諸国」においては、非欧米諸国(途上国と日本)の人権観が批判的に検討される。まず、途上国の一部が主張する相対的人権論には、特定の民族文化や宗教解釈の絶対化、不干渉原則の絶対化、現行国際人権文書における文際的要素の軽視などの問題があることが指摘される。そして、文化や宗教は変化しうること、大規模で深刻な人権侵害が、国家主権に基づく不干渉原則による抗弁を許さない国際関心事項であること、国際人権規約やウィーン人権宣言などの国際人権文書の作成に途上国も参与していることなどが指摘される。また、経済発展を優先する途上国の主張のイデオロギー性が指摘され、それを克服するためにも、経済的・社会的・文化的権利を取り込んだ文際的正統性をもつ包括的な人権評価システムを確立すべきことが主張される。日本の「援助=人権政策」は、独善的態度の抑制、社会権を含む人権保障の基盤と環境整備の重視など、欧米の自由権中心の強圧的アプローチとは対照的な面をもっているが、文際的人権観という理念を欠いているために、その積極的な意義が顕在化されてこなかったと指摘される。また、人権に関する日本の学問が、欧米中心的人権観を相対化する姿勢において不十分であった、という問題も提起される。 第7章「文際的人権観の模索」においては、以上の議論を踏まえて、真に地球的規模の正統性をもつ文際的人権観の手がかりが示唆される。まず人権が、近代主権国家体制の下で個人の利益と価値を守るのに最も効果的な防御手段であることが再確認される。筆者によれば、人権が先進国の人権外交や国連などの国際組織による審査・勧告といった「外圧」によって途上国に押しつけられている限り、人権が途上国の社会に根付くことはない。人権が定着するには、その国の宗教、文化、社会、家庭倫理のうちに取り込まれ、それに適合するものとしてその国の民衆によって受け入れられなければならない。そのためには、各国の思想、宗教、文化が人権適合的に再解釈されなければならないと主張される。 そして、文際的人権観は、世界人権宣言、社会権規約、自由権規約、ウィーン人権宣言の4つの基本的人権文書における人権観を中心とし、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、拷問禁止条約、ジュネーブ人道法四条約などに規定された人権のうち、国際司法裁判所の判決、国連国際法委員会の国家責任条文草案などに示された対世的義務、逸脱不可能な人権規範、強行規範、その侵害が国際犯罪とされる人権規範などの考え方、さらに欧州、米州、アジア、アラブ諸国などの政府間文書、NGO文書、学説などを参照しつつ、上記4つの基本的人権文書の人権観を補完・是正することによって、その内容を推認していかなければならないとされる。 以上が本論文の要旨である。次に、本論文に対する当審査委員会の評価を述べる。まず、本論文には以下のような長所がある。 第1に、従来の人権に関する議論は、17、8世紀の欧米の思想家によって主唱された自然法に根差す人権観を所与のものとして、その概念の修正・拡大・発展の中で行われてきたと考えられるが、筆者はこの欧米中心的人権概念そのものを対象化し、「文際的人権観」という、それを乗り越えようとする独創的視点の提示を、本論文全体を貫く基本的テーマとして、説得力あるかたちで展開している。この主張は個々的、部分的にはこれまでの人権論議においてもさまざまなかたちでなされてきたが、その多くは政治的意図をもつものであったり、欧米とは異なる「文明」の視点からの批判であったりして、必ずしも客観性をもつ理論的に精緻な検討を行った結果の主張ではなかった。本論文は、こうした、非欧米的立場からの伝統的人権観に対する批判を、その問題点を含めて理論的に整理し、学問的に意味のある主張に止揚することに成功している。 第2に、筆者のこの独創的視点は、これまでの日本や欧米の国々の先行研究はもちろん、従来人権の分野の研究においては軽視される傾向のあったイスラーム世界やヒンドゥー、儒教などの非欧米世界における人権に関する論文、研究、主張等も丹念に渉猟して、その検討を踏まえて形作られている。さまざまな政治的、学問的主張を考慮してそれらを理論的に吟味し、それに基づく筆者としての意見を的確に提示しており、その姿勢は学問的に真摯かつ極めてフェアである。このことは、筆者の研究者としての誠実な姿勢を示すと同時に、可能な反論に対する目配りを周到にしていることをも示している。 第3に、論述は平易であり、また、多岐にわたる複雑な論点が理論的に整理されていて、その論旨は極めて明快である。国際的な人権の議論においては、人権の普遍性、不可分性、国際性、人権基準の履行確保など、本論文が扱う論点がこれまでさまざまなかたちで提起されてきており、国連の人権関係の会議などにおいては一応の妥協的決着をつけつつあると言えるが、それはあくまでも政治的な取引の結果の一つの答えであって、厳密に理論的な解答が出されているとはとても言えず、むしろ議論としては混乱の状況にある。本論文はこうした国際的な人権論議の混乱した状況に理論的枠組みを与え、建設的な議論を積み上げていく上で、貴重な示唆を与えるものである。 以上のような長所をもつ本論文にも、若干の問題がないわけではない。 まず第1に、筆者の主張の根幹をなす「文際的」の意味が、人権のコンテキストにおいていかなる意味をもつのかが、必ずしも明確ではない。とくに、この言葉が人権に関する視点、すなわち人権観の内容を意味する用語として使われているのか、それとも人権へのアプローチの仕方、すなわち「地球規模の正統性」をもつ人権観を確立するための方法論の意味で用いられているのかが、必ずしもはっきりしないという問題点がある。 第2に、欧米の人権概念も、国により、時代により、また人により相当に異なると思われるが、それを「自由権中心主義」、「個人中心主義」として一般的に性格づけることには問題がないとは言えない。また、そのうちの1つの文明や国をとっても、人により、政党により、人権の捉え方が微妙に異なる。その意味では、今少し個々の「文明」や「国」の内部における人権をめぐる意見の対立、相違にも目を向ける必要があるのではないか、との疑問も生ずる。 以上の問題点は、先にあげた本論文の大きな価値を損なうほどのものではない。本論文が打ち出した斬新な視点は、人権の研究に新しい地平を開くものであり、日本のみならず世界の学界に対して貴重な貢献をなすものと評価することができる。今後広く人権に関する研究を進める上で、無視することのできない重要な業績となるものと判断する。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。 |