学位論文要旨



No 214337
著者(漢字) 大沼,保昭
著者(英字)
著者(カナ) オオヌマ,ヤスアキ
標題(和) 人権、国家、文明 : 普遍主義的人権観から文際的人権観へ
標題(洋)
報告番号 214337
報告番号 乙14337
学位授与日 1999.05.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第14337号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横田,洋三
 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 日比野,勤
 東京大学 教授 岩澤,雄司
内容要旨

 本論文は、人権は今日それへの反発が見られる途上国でこそ最も必要とされるという認識の下に、地球人口の8割を占める途上国からも受け入れられる、地球的規模の正統性をもつ人権観とはいかなるものかを考察するものである。

 本論文は序と1-7章からなる。序は、1990年代に国際社会で人権が激しい論議の対象となった直接の原因を、冷戦の終結に伴う西側諸国の体制理念たる民主主義・市場経済・人権の強調、国際的影響力をもつ米国における人権論議の活発化、先進国の「人権外交」への東アジア諸国の反発等の一連の現象に求めつつ、この背後に根本的な要因が潜んでいることを指摘する。その上で、「人権の普遍性」が地球人口の2割の先進国民にとっての普遍性として想定され、儒教やイスラームなど、10億以上の人々の発想や行動に影響を及ぼす文化や宗教が専ら「普遍性」に反する「特殊なもの」とされる現状への疑問を提起する。

 国際秩序を揺るがす基本的相剋を示す第1章は、人権を巡る国際的対立の背後にある根本的要因として、(1)経済、情報の脱国境化と主権国家体制との相剋、(2)先進国国民を中心とする世界的規模の人間尊厳の希求と先進国に対する途上国国民の被害者意識との相剋、(3)東アジア諸国の経済的勃興と米国を中心とする知的・文化的・情報的罰権との相剋という3点を挙げる。その上で、これを克服する視点として、複数文明の併存という観点から人権を捉える文際的視点をとるべきことを主張し、この視点と国際的視点との異同、さらに先行学説によって唱えられた文化横断的視点、民際的視点との異同を明らかにする。

 国際社会における自然権思想を検討する第2章は、人権に連なる自然権の思想が、国際人権保障としてばかりでなく、国家の権利、人民の権利、国家平等原則が、国際人権保障としてばかりでなく、国家の権利、人民の権利、国家平等原則など、国際社会における主要な法的・政治的思考の枠組みを形作っていることを、ビトリア、グロティウス、ホッブス、ヴァッテル等の思想とその影響、国家の基本権理論等の検討を通して明らかにする。また、国際社会で自然権、人権、国家の基本権等の権利の言説が支配的となる原因として、国際社会が分裂した、格差の大きな社会であり、自らを被抑圧側と見る者にとって権利の言説が自らの欲求や要求を主張していく上できわめて効果的な手段であるという点を指摘する。

 第3章は、人権と国家主権、特に不干渉原則との関係を検討する。第二次大戦後、一方で不干渉原則と戦争違法観が強化されたが、他方で経済と情報の脱国境化、人権に代表される普遍的理念の一般化により、国家が国内管轄事項として自由に処理しうる領域は縮減しつつある。人権は、国連、人権条約、国際刑事手続きにより普遍的保障がはかられているが、こうした制度は特に大規模かつ深刻な人権侵害の是正手段としては実効的でない。そのため、一部先進国の学説では80年代以降個別国家による「人道的干渉」是認論が主張されてきたが、先進国を含む多くの政府はこれを正面から認めることには消極的だった。他方、南アのアパルトヘイトや90年代のソマリア内戦等に対しては、国連が憲章7章下の強制措置をとってきた。本論文は、こうした国際社会の実行を踏まえて、大規模かつ深刻な人権侵害への対応は、(1)人権侵害の種類、程度、規模、(2)保護さるべき人権主体、(3)干渉の主体と方法、(4)干渉の現実的可能性、(5)武力行使の最終性と均衡性、(6)異文化理解、一貫性、独善の排除の要請という準拠枠組みによってその是非、具体的方策を判断すべきことを主張する。

 第4章は、地球的規模の正統性をもつ人権の評価基準を検討するため、まず人権の普遍性対相対性論争を概観し、「普遍性」の範囲が最近まで男性、キリスト教徒、「文明国」国民等に限られたイデオロギーであったこと、先進国の普遍性論と途上国の相対性論の双方に一貫性の欠如が見られることを指摘する。次いで、現行人権評価基準を検討し、アムネスティ・インターナショナル、フリーダム・ハウス等、多くの人に信頼され、国際的な人権評価に大きな影響をもつ主要人権NGOの人権評価か、(1)過度の自由権中心、(2)評価手続きの透明性の欠如、(3)文際的正統性の欠如等の欠陥を含んでいることを明らかにする。そして、人権の順位付けには具体的人権が、(1)どれだけ多くの当事国をもつ人権条約上規定されているか、(2)国家の対世的義務により保護されているか、(3)緊急事態でも効力停止できない人権か、(4)強行規範とされているか、(5)当該人権の侵害が国際犯罪とされているか、(6)代表的人権NGOの評価等に示される民際的正統性をもっているか、(7)世界の主要な宗教や法系に示される文際的正統性をもっているか、等の検討が必要であると主張する。

 人権における欧米・自由権・個人中心主義を扱う第5章は、人権が欧米を中心に発展し、また国際社会で米国のメディア、学説などが大きな影響力をもつことから、欧米、特に米国に支配的な自由権中心主義が国際社会全体でも巨大な影響力をもってきたことを指摘する。他面、(1)途上国を中心とする生存権の主張、(2)第二次大戦後西欧に有力な社会国家の理念に基づく社会権の強調、(3)自由権保障における国家の積極的義務の認識の広がり、(4)非国家主体による侵害からの自由の重要性の認識の高まり、(5)人権の実現手段としての司法権の相対化、(6)自由権と社会権の伝統的人権二分論に代わる人権類型論の台頭、(7)人権の相互依存性の認識の一般化、等から自由権中心主義の見直しが起こりつつある。また、人権も他の諸観念同様歴史的に変化するものであり、かつて「国家権力による侵害に対する個人の自由」とされてきた人権も、その自由権中心・個人中心主義的性格は次第に変化してきたが、それは人権の堕落といったものではなく、人権が非欧米諸国にも評価され、受け入れられてきたことを物語る、いわば人権にとっての勝利に他ならないと解釈すべきことを主張する。

 人権と非欧米諸国との関係を扱う第6章は、まず一部の途上国が主張する相対的人権論を、本来変化しうる歴史的産物である民族文化や宗教の絶対化であるとして批判する。そして、国際人権規約やウィーン人権宣言等の主要な国際人権文書の制定には途上国も参与しており、その限りで途上国も人権の普遍性にはコミットしていることを指摘する。また、社会権の重視や経済発展を口実とする途上国の人権軽視の姿勢を克服するためにも、自由権中心主義を克服し、社会権を含み文際的正統性をもつ包括的人権の評価システムを確立すべきことを主張する。次いで国際人権保障に対する日本の姿勢を扱い、(1)80年代までは政府も国民も国際人権保障に積極的に関与しなかった、(2)日本の「人権外交」は社会権をも取り込んだ包括的人権観と、自由権中心の「制裁」外交と対照的な非独善的な対話重視の外交という一定の積極的意義を潜在させていたものの、文際的人権観という理念を欠いており、その僅かな積極的意義も顕在化することなく終わっていると指摘する。また、人権を扱う日本の学問にあっても、欧米文明への自らの他者性を活用する形での学問的貢献という意識に乏しく、欧米で支配的な人権観を相対化する努力が下足していたのではないか、という問題を提起する。

 最後の第7章は、以上の検討を踏まえて、まず人権が主権国家体制に生きる近代人にとって、その基本的価値を守るためきわめて有効な手段であることを確認する。そうであるだけに、人権は21世紀前半に本格的な近代化=国民国家形成の過程を経験するだろう多くの途上国にとって必須のものである。しかし人権が、先進国の人権外交やNGOの働きかけ、国連や人権条約上の人権委員会による審査、勧告といった「外圧」によって途上国に押しつけられている限り、人権が途上国に根付くことはない。人権が定着するには、その国の支配的文化・宗教に適合するものとしてその国の民衆により受け入れられなければならない。その過程では、各国の支配的文化・宗教を人権適合的に再解釈することが求められる。それは、欧米で人権が近代から現代にかけて社会に定着する上で、多くの抵抗に会いながら実際に行われたことでもある。そして、世界中で可及的に多数の人々から認められる人権を確定していくには、まず現行国際人権条約・宣言を手掛かりとし、それが一応国際的・民際的・文際的正統性をもつと推定した上で、人権NGOや主要宗教の共通の宣言等を手掛かりに、そうした国際人権条約・宣言を民際的かつ文際的視点から補完・是正・していく手続きが求められるとし、今後多くの人がこの作業に取り組むべきことを主張して論攷を終える。

審査要旨

 本論文は、世界人口の8割を占める途上国の人々にも受け入れられる地球規模の正統性をもつ人権観とは何かを考察し、「文際的人権観』を提唱するものである。「文際的(intercivilizational)」とは筆者が年来提唱している概念で、複数文明の併存という観点から国際問題を見る視点、あるいは問題解決へのアプローチを意味する。欧米中心的な発想が支配的な状況の下では、それはまずもって欧米中心的発想への批判として現れ、欧米中心の文明の枠内でなく他の文明の観点をも取り込んで、新しい角度から国際問題を考えることを意味する。筆者によれば、このような文際的視点ないしアプローチは、安全保障、環境、経済などさまざまな国際問題との取り組みにおいて必要とされる。本論文は、このような文際的視点ないしアプローチの人権分野における試みであり、とりわけ欧米中心的な「普遍主義的人権観」が批判の対象とされる。

 この欧米中心的な「普遍主義的人権観」に潜む問題点として、特に自由権中心主義と裁判中心主義が批判され、また「欧米=普遍、非欧米=特殊」という発想の問題性が明らかにされる。筆者によれば、普遍主義的人権観が、最初から欧米中心的な人間観と達成すべき価値についての暗黙の共通性を措定し、法中心主義的なメカニズムを重視するのに対して、文際的人権観は、異なる価値体系と人間観の併存を受け入れた上で、相互批判と受容の過程でこれらの差異を統合し、克服することを目指すものである。そして、地球的規模の正統性をもつ文際的人権観は、現行の主要な国際人権文書を手がかりとし、それを文際的視点から補完し是正するという方法によって確定していくべきであると主張される。

 本論文は、序に続く7つの章から構成される。

 序「問題の所在」においては、1990年代に人権が普遍的なものか相対的なものかをめぐる激しい論争が展開されたが、その要因が、(1)冷戦の終結に伴って西側諸国の体制理念である人権が一層強調されるようになったこと、(2)米国において人権論議が活発化したこと、(3)欧米の人権外交に東アジア諸国が反発したこと、などにあるとの指摘がなされる。そのうえで、「人権の普遍性」が「欧米先進国の普遍性」と同一視され、儒教やイスラームなどの文化や宗教が普遍性に反する「特殊なもの」として引き合いに出されている現状への疑問が提起される。

 第1章「国際秩序を揺るがす3つの相剋と文際的アプローチの必要性」においては、1990年代に人権が国際社会で激しい論議の対象となった背景として、(1)経済、情報の国際化と主権国家体制との相剋、(2)先進国国民を中心とする世界的規模の人間尊厳の希求と先進国に対する途上国国民の被害者意識との相剋、(3)東アジア諸国の経済的勃興とアメリカを中心とする知的覇権との相剋、の3つの根本的問題があげられる。そのうえで、これらの相剋を克服する視点として、「文際的」人権観の必要性が主張される。そして、このような文際的視点と先行学説が唱えた「文化横断的(cross-cultural)」視点及び「民際的(transnational)」視点との異同が明らかにされる。筆者が「文化」でなく「文明」を分析の中心に置いた理由として、現行人権文書や人権理論・実務において、「文化」が包括的概念でなく、政治や経済を含まない狭義の概念として用いられていること、「文明」は一国、一民族を超えた広がりをもつものとして使われる傾向が強いことが説明される。

 第2章「国際社会における自然権思想」においては、自然権思想が国家の基本権の理論を生み出したことが、ビトリア、グロティウス、ホッブス、ヴァッテルらの思想の分析を通して明らかにされる。そしてその後有力になる国家の基本権の理論及びその発展としての国家の権利義務を定式化するという考えは、第二次大戦後次第に影を薄くしていくが、その中にあって個人の自然権という発想の枠組は、さまざまなかたちで第二次大戦後も国際法の観念や制度の中に生き続けていることが指摘される。具体的には、個人の自然権は、国際人権保障、人民の権利、及び国家平等原則に大きな影響を与えたとされ、その影響が分析される。とりわけ、個人の自然権は国際人権保障の思想的背景をなしたばかりでなく、国際人権保障が個人の自然権の実現を国際的次元で確保するという関係にもあることが指摘される。そして、国際社会において弱小国が自らの主張を「権利」として定式化するのは、国際社会が分権的な格差の大きな社会であり、そのような「権利の言説」が要求の実現の上できわめて効果的な手段だからであると説明される。

 第3章「人権は主権を超えるか-不干渉原則と『普遍的価値』との相剋」においては、人権と不干渉原則との関係が検討される。不干渉原則は、第二次大戦後、友好関係宣言などを通じて強化されてきた一方で、国内管轄事項は、経済と情報の国際化、人権に代表される普遍的理念などによって縮減される傾向にあることが指摘される。そのうえで、人権の国際的保障制度の説明がなされ、国連による履行確保、人権条約による履行確保、国際刑事手続による人権侵害の抑止が吟味されるが、これらは大規模で深刻な人権侵害の是正手段としては実効的でないと指摘される。そのため1970年代以降、一部先進国の学者は、個別国家による「人道的干渉」を是認する論を主張してきたが、先進国を含む多くの国々はこれを正面から認めることには消極的だったとして、筆者自身も慎重な姿勢を示す。他方で、1990年代に入ると、国連は、ソマリア、ルワンダなどにおける大規模な人権侵害に対して、国連憲章第7章に基づいて強制措置をとるようになった。このような国際社会の実行を踏まえて、筆者は、大規模で深刻な人権侵害を阻止するための干渉の合法性と正統性を考えるための準拠枠組みを提示する。それは、(1)人権侵害の種類・程度、(2)保護されるべき人権の主体、(3)干渉の主体と方法、(4)干渉の現実的可能性、(5)武力行使の最終性と均衡性、(6)異文化理解及び一貫性の要請、を考察する。

 第4章「人権の普遍性対相対性論争と現行人権基準の問題性」においては、人権の普遍性対相対性論争が検討される。人権は欧米でもごく最近まで男性、有産者、白人、キリスト教徒、文明国国民などに限られたものとして捉えられてきたとして、「人権の普遍性」論のイデオロギー性が指摘される。他方で、非欧米知識人には、欧米による人権の普遍性の主張を否定しながら、自己が属する文明にも人権があったと反論するという議論のねじれがあるとされる。そして、このような問題を含む人権の普遍性対相対性の論争を対象化し、地球的規模の正統性をもつ人権の評価基準と枠組を確立することの重要性が説かれる。次に、国際的に大きな影響力をもつ主要人権NGOの人権評価が批判的に検討され、アムネスティー・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、フリーダム・ハウスなどの人権評価が、(1)過度の自由権中心、(2)評価手続の透明性の欠如、(3)文際的正統性の欠如などの問題を含むことが明らかにされる。そして最後に、人権の順位づけの枠組みが提唱され、当該人権が(1)どれだけ多くの当事国をもつ人権条約において規定されているか、(2)国家の対世的(erga omnes)義務によって保護されているか、(3)緊急事態でも効力停止できないか、(4)強行規範か、(5)その侵害は国際犯罪とされているか、(6)民際的正統性をもっているか、(7)文際的正統性をもっているか、などの検討が必要であると主張される。

 第5章「欧米中心主義、自由権中心主義、個人中心主義の問題」においては、文際的視点から、欧米中心的な「普遍主義的人権観」が批判される.本章では、まず,人権が欧米を中心に発展してきたことから、欧米特にアメリカにおいて支配的な自由権中心主義が国際社会でも大きな影響をもってきたことが指摘される。しかし筆者は、次のような要因から、自由権中心主義の見直しの兆しが現れていると主張する。(1)途上国による生存権の主張、(2)先進国における社会権の重要性の認識、(3)自由権保障における国家の積極的義務の認識、(4)非国家主体による侵害からの自由の重要性の認識、(5)司法府の役割の相対化、(6)自由権と社会権二分論に代わる人権類型論の台頭、(7)人権の相互依存性の認識、などである。また、欧米では、人権の享有主体である人間を「個人」と同視し、途上国が主張する集団的権利を批判する傾向が強いことが指摘される。そして、人権は歴史的に変化するものであり、社会権や集団的権利といった自由権以外の人権が人権概念に包摂されてきたことは、近代欧州に生まれた人権にとっての勝利にほかならないと解釈すべきことが主張される。

 第6章「人権の普遍化と非欧米諸国」においては、非欧米諸国(途上国と日本)の人権観が批判的に検討される。まず、途上国の一部が主張する相対的人権論には、特定の民族文化や宗教解釈の絶対化、不干渉原則の絶対化、現行国際人権文書における文際的要素の軽視などの問題があることが指摘される。そして、文化や宗教は変化しうること、大規模で深刻な人権侵害が、国家主権に基づく不干渉原則による抗弁を許さない国際関心事項であること、国際人権規約やウィーン人権宣言などの国際人権文書の作成に途上国も参与していることなどが指摘される。また、経済発展を優先する途上国の主張のイデオロギー性が指摘され、それを克服するためにも、経済的・社会的・文化的権利を取り込んだ文際的正統性をもつ包括的な人権評価システムを確立すべきことが主張される。日本の「援助=人権政策」は、独善的態度の抑制、社会権を含む人権保障の基盤と環境整備の重視など、欧米の自由権中心の強圧的アプローチとは対照的な面をもっているが、文際的人権観という理念を欠いているために、その積極的な意義が顕在化されてこなかったと指摘される。また、人権に関する日本の学問が、欧米中心的人権観を相対化する姿勢において不十分であった、という問題も提起される。

 第7章「文際的人権観の模索」においては、以上の議論を踏まえて、真に地球的規模の正統性をもつ文際的人権観の手がかりが示唆される。まず人権が、近代主権国家体制の下で個人の利益と価値を守るのに最も効果的な防御手段であることが再確認される。筆者によれば、人権が先進国の人権外交や国連などの国際組織による審査・勧告といった「外圧」によって途上国に押しつけられている限り、人権が途上国の社会に根付くことはない。人権が定着するには、その国の宗教、文化、社会、家庭倫理のうちに取り込まれ、それに適合するものとしてその国の民衆によって受け入れられなければならない。そのためには、各国の思想、宗教、文化が人権適合的に再解釈されなければならないと主張される。

 そして、文際的人権観は、世界人権宣言、社会権規約、自由権規約、ウィーン人権宣言の4つの基本的人権文書における人権観を中心とし、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、拷問禁止条約、ジュネーブ人道法四条約などに規定された人権のうち、国際司法裁判所の判決、国連国際法委員会の国家責任条文草案などに示された対世的義務、逸脱不可能な人権規範、強行規範、その侵害が国際犯罪とされる人権規範などの考え方、さらに欧州、米州、アジア、アラブ諸国などの政府間文書、NGO文書、学説などを参照しつつ、上記4つの基本的人権文書の人権観を補完・是正することによって、その内容を推認していかなければならないとされる。

 以上が本論文の要旨である。次に、本論文に対する当審査委員会の評価を述べる。まず、本論文には以下のような長所がある。

 第1に、従来の人権に関する議論は、17、8世紀の欧米の思想家によって主唱された自然法に根差す人権観を所与のものとして、その概念の修正・拡大・発展の中で行われてきたと考えられるが、筆者はこの欧米中心的人権概念そのものを対象化し、「文際的人権観」という、それを乗り越えようとする独創的視点の提示を、本論文全体を貫く基本的テーマとして、説得力あるかたちで展開している。この主張は個々的、部分的にはこれまでの人権論議においてもさまざまなかたちでなされてきたが、その多くは政治的意図をもつものであったり、欧米とは異なる「文明」の視点からの批判であったりして、必ずしも客観性をもつ理論的に精緻な検討を行った結果の主張ではなかった。本論文は、こうした、非欧米的立場からの伝統的人権観に対する批判を、その問題点を含めて理論的に整理し、学問的に意味のある主張に止揚することに成功している。

 第2に、筆者のこの独創的視点は、これまでの日本や欧米の国々の先行研究はもちろん、従来人権の分野の研究においては軽視される傾向のあったイスラーム世界やヒンドゥー、儒教などの非欧米世界における人権に関する論文、研究、主張等も丹念に渉猟して、その検討を踏まえて形作られている。さまざまな政治的、学問的主張を考慮してそれらを理論的に吟味し、それに基づく筆者としての意見を的確に提示しており、その姿勢は学問的に真摯かつ極めてフェアである。このことは、筆者の研究者としての誠実な姿勢を示すと同時に、可能な反論に対する目配りを周到にしていることをも示している。

 第3に、論述は平易であり、また、多岐にわたる複雑な論点が理論的に整理されていて、その論旨は極めて明快である。国際的な人権の議論においては、人権の普遍性、不可分性、国際性、人権基準の履行確保など、本論文が扱う論点がこれまでさまざまなかたちで提起されてきており、国連の人権関係の会議などにおいては一応の妥協的決着をつけつつあると言えるが、それはあくまでも政治的な取引の結果の一つの答えであって、厳密に理論的な解答が出されているとはとても言えず、むしろ議論としては混乱の状況にある。本論文はこうした国際的な人権論議の混乱した状況に理論的枠組みを与え、建設的な議論を積み上げていく上で、貴重な示唆を与えるものである。

 以上のような長所をもつ本論文にも、若干の問題がないわけではない。

 まず第1に、筆者の主張の根幹をなす「文際的」の意味が、人権のコンテキストにおいていかなる意味をもつのかが、必ずしも明確ではない。とくに、この言葉が人権に関する視点、すなわち人権観の内容を意味する用語として使われているのか、それとも人権へのアプローチの仕方、すなわち「地球規模の正統性」をもつ人権観を確立するための方法論の意味で用いられているのかが、必ずしもはっきりしないという問題点がある。

 第2に、欧米の人権概念も、国により、時代により、また人により相当に異なると思われるが、それを「自由権中心主義」、「個人中心主義」として一般的に性格づけることには問題がないとは言えない。また、そのうちの1つの文明や国をとっても、人により、政党により、人権の捉え方が微妙に異なる。その意味では、今少し個々の「文明」や「国」の内部における人権をめぐる意見の対立、相違にも目を向ける必要があるのではないか、との疑問も生ずる。

 以上の問題点は、先にあげた本論文の大きな価値を損なうほどのものではない。本論文が打ち出した斬新な視点は、人権の研究に新しい地平を開くものであり、日本のみならず世界の学界に対して貴重な貢献をなすものと評価することができる。今後広く人権に関する研究を進める上で、無視することのできない重要な業績となるものと判断する。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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