学位論文要旨



No 214356
著者(漢字) 高橋,真美
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,マミ
標題(和) ラット大腸発がんモデルにおける発がん機構及びドコサヘキサエン酸によるその抑制に関する研究
標題(洋)
報告番号 214356
報告番号 乙14356
学位授与日 1999.06.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第14356号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 武藤,誠
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨

 大腸がんは、近年、日本でも食生活の欧米化に伴い増加しており、その発生メカニズムの解明及び予防法の開発は重要な課題となっている。アゾキシメタン(AOM)誘発ラット大腸発がん系は、大腸発がんの動物実験モデルとしてよく用いられており、AOM投与により大腸粘膜に早期から発生する異常腺窩巣(アベラントクリプトフォーサイ、ACF)も大腸発がんのバイオマーカーとして活用されている。AOM誘発ラット大腸がんでは、K-rasの変異はヒトの場合と同様、高頻度に検出される。しかし、Apcやp53の変異はわずかしか検出されていない。最近、APC蛋白質が-カテニンの細胞質での分解に関与し、大腸がんでのAPCの変異が細胞質での-カテニンの安定化をもたらすことが報告された。-カテニンは、細胞膜の内側でカテニン-カドヘリン複合体を形成して細胞接着に重要な役割を果たすとともに、Wntシグナルによる情報伝達系の因子として核内でT-cell factor(Tcf)と結合して細胞の発生・分化等に関わる遺伝子の転写を制御している。細胞質中の-カテニン量の制御にはAPC蛋白質との結合やGSK-3によるリン酸化が関与しており、APCの変異と同様に-カテニンの異常も腫瘍発生に深い関わりを持つことが示唆されている。一方、炎症時に誘導される誘導型一酸化窒素合成酵素(iNOS)や誘導型シクロオキシゲナーゼ(COX-2)の発現が大腸腫瘍において上昇しており、生成物の一酸化窒素(NO)やプロスタグランジン(PG)が大腸発がんにおいて重要な役割を果たしていると考えられている。しかし、これらの炎症関連酵素発現と上記のがん関連遺伝子変異との関連性は未だ不明である。本研究では、AOM誘発ラット大腸発がんモデルを用い、大腸がん及び前がん病変における-カテニン経路の異常及び炎症関連酵素の発現を調べ、これらの因子の発がん過程における役割及び相互の関連性を検討した。また、魚油中に多く含まれるn-3系多価不飽和脂肪酸の1つであるドコサヘキサエン酸(DHA)は、COX阻害作用をもつことが知られている上、活性化マクロファージにおけるiNOSの発現を抑制することから、DHAの大腸発がん抑制効果をラットの大腸発がんモデルを用いて検討した。

第I章AOM誘発ラット大腸発がんモデルにおける発がん機構第1節-カテニンの細胞内局在及び遺伝子変異に関する検討

 AOM誘発ラット大腸発がんにおける-カテニン-Tcf経路の関与を検討するため、腫瘍における-カテニンの細胞内局在及び遺伝子変異の有無を調べた。

 まず、-カテニンの細胞内局在を免疫組織学的に検索すると、非がん部大腸粘膜では細胞膜に局在しているのに対し、大腸がんでは8例すべてにおいて細胞質での蓄積や核への移行が認められた。-カテニンの細胞内局在の変化は、腺腫や、異型を伴うACF、いわゆるマイクロアデノーマでも同様にみられたが、大部分の過形成性ACFではみられなかった。-カテニン蛋白質の細胞内局在の異常は、腺腫(又は異型を伴うACF)の段階からほぼ全例に出現しており、ラットでもWntシグナルを介した因子が腫瘍発生に重要な役割を果たしていることが示唆された。

 また、腫瘍と正常粘膜のtotal tissue lysateをSDS-ポリアクリルアミドゲルに電気泳動し、ウェスタンブロッティングにて-カテニンの蛋白質量を比べてみたところ、腫瘍での蛋白質量は正常と同程度か、やや高かった。一方、組織を弱い可溶化剤を用いたradio-immunoprecipitation assay(RIPA)bufferで溶出したサンプルを用いてウェスタンブロッティングを行うと、-カテニンのバンドは主に腫瘍サンプルに検出され、正常粘膜ではほとんど検出されなかった。RIPA buffer中では、強いアフィニティを持つタンパク質の結合は保たれるため、カテニンとカドヘリンの完全な複合体が形成していればdetergentに可溶化されない。従って、この結果からも、正常大腸上皮細胞ではほとんどの-カテニンはカテニン-カドヘリン複合体を形成しているが、がん細胞ではその存在状態が変化していることが示唆された。

 次に、AOM誘発ラット大腸腫瘍における-カテニン遺伝子の変異をPCR-SSCP法とダイレクトシークエンスにより調べた。-カテニン遺伝子のGSK-3リン酸化部位の配列において、精製DNAを用いて調べた大腸がん8例中6例に8個の変異が検出された。また、大・中・小の腫瘍やACFのパラフィン切片からもPCRをおこない、同様に-カテニン遺伝子の変異について調べた。その結果、大きな腺がん6例中5例、中位の腺がん6例中4例、小さな腺がん6例中5例、腺腫6例中2例、異型を伴うACF3例中2例に変異が検出された。全部で26個の変異のうち24個はG:CからA:Tへのトランジションであった。そのうち17個は、CTGGAという配列の2つ目のGがAに変わったものであり、この配列はAOMによる変異のホットスポットであると考えられた。これらのことより、AOM誘発ラット大腸発がんにおいて、-カテニンの変異が重要な役割を果たしていることが示唆された。同じ組織サンプルを用い、同様に、K-ras遺伝子のエクソン1における変異を調べたところ、コドン12番の2番目のGからAへの変異がACFで高頻度に検出され、K-ras遺伝子の活性化がACFの形成に関与していることが示唆された。腫瘍においても同じ変異が検出されたが、その頻度は-カテニンほど高くなかった。

第2節AOM誘発ラット大腸発がんにおけるiNOS及びCOX-2の発現に関する検討

 ウェスタンブロッティングにて腫瘍と正常粘膜のiNOS蛋白質量を調べたところ、大腸がんサンプルでは8例すべてにおいてiNOSの顕著な発現が認められた。一方、正常粘膜ではiNOSのバンドは検出されなかった。このことより、AOM誘発ラット大腸がんではNOの生成が顕著に上昇し、がん化に重要な役割を果たしていることが示唆された。同じ大腸がんサンプルにおいでCOX-2の発現も上昇していた。

 また、免疫組織染色により細胞内局在を調べた結果、iNOSは腺管構造を呈する腫瘍細胞の内腔側細胞膜近傍に局在していた。正常粘膜上皮細胞及び間質細胞では、iNOSの発現はほとんど認められなかった。COX-2は非がん部粘膜においても、間質細胞や、上皮細胞間に入り込んだリンパ球で発現しており、がん組織では更に、腺管構造を呈するがん細胞の細胞質においても発現が認められた。

 さらに、ラット大腸の発がん過程、特に前がん病変でのiNOS及びCOX-2の発現の有無について検討したところ、iNOSの発現は腺腫では弱く部分的であるものの、頻度は高く、腫瘍におけるごく初期から起きることがわかった。過形成性ACFでは調べた10例のうちiNOSの発現が認められたものはなかった。興味深いことに、iNOSの発現上昇がみられた症例は-カテニンの局在変化が認められた症例とよく一致し、腫瘍におけるiNOSの発現誘導に-カテニン-Tcf経路が関与している可能性が示唆された。COX-2の上皮細胞における発現は腺腫及びACFでは認められなかった。

第II章DHAによるラット大腸発がん抑制に関する研究

 抗炎症作用を持つ食品成分の1つであるDHAによる、アゾキシメタン誘発ラット大腸発がんの抑制について検討を行なった。

 アゾキシメタンの前駆体であるジメチルヒドラジンにより誘発したACFに対するDHAの効果を検討した結果、4週、8週、12週間後のACF数はいずれも、DHA投与により対照群の約40%に減少し、フォーカス当たりの平均クリプト数も有意に減少した。更に、DHAの投与期間を、発がん剤処理と同時期、及び発がん剤処理後にわけて効果を比較すると、ACF数は同時投与群、後投与群とも対照群に比べ、有意に減少しており、全期間投与群ではこれらを合わせた効果が得られた。一方、フォーカス当たりの平均クリプト数は、同時投与群では対照群に比べ有意な減少は見られなかったが、後投与群では全期間投与群と同様に有意な減少が認められた。これらの結果より、DHAはACFの発生と増殖の両方に対し、抑制効果を示すことがわかった。

 そこで、実際にDHAが大腸発がんを抑制させるかどうかをAOM誘発長期発がん実験により検討した。DHAはAOM誘発ACFの発生と増殖にも抑制効果を示し、36週後のラット1匹当たりの大腸腫瘍の発生個数は、対照群3.78±2.19個に対し、DHA投与群で2.45±1.63個であり、DHA投与により有意に減少した。大腸に発生した腺癌の分化型について検討を行なった結果、DHA投与群では大腸の中分化型腺がんの割合が有意に減少しており、より分化度の低いがんへの進行を抑える可能性も示唆された。また、ラットの血中の多価不飽和脂肪酸及びプロスタグランジンE2(PGE2)のレベルを測定した結果、DHA投与により、DHAとEPAのレベルが有意に上昇し、アラキドン酸及びPGE2のレベルが有意に減少していた。DHAによるPGE2の合成阻害や、PGE2などの前駆体であるアラキドン酸レベルの低下が、ACFの増殖及び大腸腫瘍の発生数の抑制に関与している可能性が考えられた。

総括

 AOM誘発ラット大腸がんにおいて、-カテニンのGSK-3リン酸化部位周辺の保存配列にGからAへの点突然変異が高頻度に検出されることを見いだした。大腸がん及び腺腫では調べた全例で-カテニンの細胞質での蓄積や核への移行が認められた。AOM誘発ラット大腸発がんにおいて、-カテニンの異常が重要な役割を果たしていることが示唆され、ラットでもヒトの場合と同様にWntシグナルを介した因子が大腸発がんに関与していることが推定された。AOM誘発ラット大腸発がん系は大腸発がんのメカニズムを研究する上で非常に有用であると考えられた。また、-カテニンの異常が起きるのとほぼ同じ段階でiNOSの発現が上昇しており、iNOSの発現誘導に-カテニン-Tcf経路が関与している可能性が示唆された。さらに、AOM誘発ラット大腸かんでは、iNOS及びCOX-2の発現が顕著に上昇しており、これらの酵素の発現誘導抑制や活性阻害による大腸発がん抑制の可能性が示唆された。実際、COX阻害作用やiNOSの発現抑制作用が知られているDHAが、ラット大腸発がんモデルにおいて発がん抑制作用を持つことを示した。

審査要旨

 大腸がんは、近年、日本でも食生活の欧米化に伴い増加しており、その発生メカニズムの解明と予防法の開発は重要な課題である。アゾキシメタン投与によるラットの大腸発がん誘発は、動物実験モデルとしてよく用いられており、大腸粘膜に早期から発生する異常腺窩巣(ACF)も大腸発がんのマーカーとして活用されている。この大腸がんでは、K-rasの変異はヒトの場合と同様に高頻度に検出されるが、Apcやp53の変異はわずかしか検出されていない。最近、APC蛋白質が-カテニンの細胞質での分解に関与し、大腸がんでのAPCの変異が細胞質での-カテニンの安定化をもたらすことが報告されている。-カテニンは、細胞接着に重要な役割を果たすとともに、Wntシグナルによる情報伝達系の因子として核内でT-cell factor(Tcf)と結合し、細胞の発生・分化に関わる遺伝子の転写を制御している。細胞質内の-カテニン量の制御にはAPC蛋白質との結合や蛋白質リン酸化酵素GSK-3によるリン酸化が関与しており、APCの変異と同様に、-カテニンの異常も腫瘍発生に深い関わりをもつことが示唆されている。一方、炎症時に誘導される誘導型一酸化窒素合成酵素(iNOS)や誘導型シクロオキシゲナーゼ(COX-2)の発現が大腸腫瘍において上昇しており、NOやプロスタグランジンが大腸発がんにおいて重要な役割を果たしていると考えられている。しかしながら、これらの炎症関連酵素の発現と上記のがん関連遺伝子変異との関連性は未だ不明である。

 本研究では、アゾキシメタン誘発ラット大腸発がんモデルを用いて、-カテニン経路の異常及び炎症関連酵素の発現を解析し、これらの因子の発がん過程における役割及び相互の関連性を検討している。また、魚油中に多く含まれるn-3系多価不飽和脂肪酸の1つであるドコサヘキサエン酸(DHA)は、COX阻害作用をもつことが知られている上、活性化マクロファージにおけるiNOSの発現を抑制することから、DHAの大腸発がん抑制効果がこのモデルを用いて検討されている。

1.アゾキシメタン誘発ラット大腸発がんにおける発がん機構1)-カテニンの細胞内局在の変化及び遺伝子変異の解析

 -カテニンの細胞内局在を免疫組織学的に検索すると、非がん部大腸粘膜では細胞膜に局在しているのに対し、大腸がんでは細胞質での蓄積や核への移行が認められた。-カテニン蛋白質の細胞内局在の異常は、腺腫の段階からほぼ全例に出現しており、ラットでもWntシグナルを介した因子が腫瘍発生に重要な役割を果たしていることが示唆された。さらに、腫瘍と正常粘膜の-カテニンの細胞内での存在様式が生化学的に検討され、正常大腸上皮細胞ではほとんどの-カテニンはカテニン-カドヘリン複合体を形成しているが、がん細胞ではその存在状態が変化していることが示唆された。

 次に、腫瘍における-カテニン遺伝子の変異を解析した結果、GSK-3リン酸化部位の塩基配列においてGからAへの変異が高頻度に検出され、ラット大腸発がんにおいては、-カテニンの変異が発がんの機構に重要な役割を果たしていることが示唆された。

2)アゾキシメタン誘発ラット大腸発がんにおけるiNOS及びCOX-2の発現

 腫瘍と正常粘膜のiNOS蛋白質量を解析した結果、正常粘膜では認められないiNOSの顕著な発現が、大腸がんサンプルのすべてにおいて認められた。すなわち、アゾキシメタン誘発ラット大腸がんでは、NO生成ががん化に重要な役割を果たすことが示唆された。さらに、同じ大腸がんサンプルにおいては、COX-2の発現上昇が認められた。免疫組織染色による詳細な検討から、iNOSの発現は腫瘍の極く初期から起きること、iNOSの発現上昇がみられた症例は-カテニンの局在変化が認められた症例とよく一致することが示され、腫瘍におけるiNOSの発現誘導に、-カテニン-Tcf経路が関与する可能性が見出された。

2.ドコサヘキサエン酸によるラット大腸発がんの抑制

 大腸発がんに対するDHAの影響が検討され、DHAはACFの発生と増殖を抑制する作用をもつことが見出された。DHA投与により、ラット1匹当たりの大腸腫瘍の発生個数は有意に減少し、また、中分化型腺がんの割合も減少することから、DHAはより分化度の低いがんへの進行を抑える可能性が示唆された。さらに、ラットの多価不飽和脂肪酸及びプロスタグランジン(PG)E2の血中レベルを測定した結果、DHA投与により、DHAとEPAのレベルは有意に上昇し、アラキドン酸及びPGE2のレベルは有意に減少していた。すなわち、DHAによるPGE2の合成阻害や、その前駆体であるアラキドン酸レベルの低下が、ACFの増殖及び大腸腫瘍の発生数の抑制に寄与している可能性が示された。

 以上を要するに、本論文は、アゾキシメタン誘発ラット大腸がんにおいて、-カテニンのGSK-3リン酸化部位周辺の塩基配列に、GからAへの点突然変異が高頻度に生じることを見出し、大腸がん及び腺腫では、通常は細胞膜に局在する-カテニンが細胞質で蓄積したり核に移行することを明らかにしている。さらに、このラット大腸がんにおいては、iNOS及びCOX-2の発現が顕著に上昇しており、これらの酵素の発現誘導抑制や活性阻害によって、大腸発がんを抑制できる可能性が示され、実際に、COX阻害作用やiNOSの発現抑制作用をもつDHAが発がん抑制作用をもつことを示している。これらの研究成果は、大腸発がんの機構解明及びに予防法の開発を進める上で重要な知見を与えるものであり、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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