審査対象となった本論文は、京都学派において独自の位置を占める九鬼周造の哲学に関して、主に倫理学的な見地から検討を加えたものである。論者は、特に九鬼の「偶然性」(=「二元性」)という概念に注目し、彼の重要な著作をほとんど網羅する形で、その展開の跡を詳細にたどりながら、その倫理学的意義を解明しようとしている。 第一章では、まず九鬼の哲学の誕生を解き明かす前提として、近代的家族制度とは無縁な、彼の幼年期の特異な家庭環境に光をあて、そこに、最終的な統合へともたらされることのない「二元性」の哲学という、彼の思想的テーマの成立の秘密を探ろうとしている。次に、八年に及ぶ西欧留学時における、九鬼の思想的遍歴の意味を論じている。当初リッヶルトの価値哲学を学んだ九鬼は、やがてベルグソンやハイデッガーの哲学に近づいていくが、そこから「偶然性」や「無」など、後の九鬼の哲学を形成する基本的な概念が導き出されていく経緯が明らかにきれている。 第二章では、九鬼の最初の主著である『「いき」の構造』について論じている。論者は、この書を単なる日本文化論としてではなく、近代的恋愛観・結婚観を超えた、新たな男女関係を追求しようとする現代的意図に基づいたものとして理解しようとしている。「いき」とは、「媚態」・「意気地」・「諦め」という三契機から成るものとされているが、その中核をなす「媚態」というものが、男女の一元化を拒否し、自由な「二元的」関係を目指すものとされている点に論者は注目し、そこに彼の「二元性」の哲学との深い連関を読み取ろうとしている。また「意気地」や「諦め」に関しても、そこにはニヒリズムに裏打ちされた無限の自己超越の思想がみられるとし、後に展開をみせろ「無」や「運命」の哲学を先取りするものと捉えている。 第三章では、フランス留学中に、ポンティニーにおいて行われた時間論に関する講演を扱っている。そこで展開されている、独特の回帰的時間論を綿密に検討し、それが九鬼の哲学の展開に、どのような役割を果たしたかを解明している。そこでは、全く同一の「大宇宙年」が無限に回帰するという時間論が説かれているが、それによれば、各「大宇宙年」は全く同一なのであるから、一つの「大宇宙年」の中のある瞬間と全く同一の瞬間が、どの「大宇宙年」にも存在することになる。従って各瞬間は、無限の厚みをもった「永遠の現在」とみなすことができるとし、それを九鬼は「垂直的脱我」とよぶ。論者はこうした時間論を、自己の分裂や多様性といったものを認めながらも、なおかつ、「垂直」的な場面において、自己の同一性が存在することを導き出そうとする試みとして理解しようとしている。 第四章では、九鬼の最大の主著である『偶然性の問題』について論じている。論者は、自他の二元的な緊張関係の中で、他者との出会いと別れを自在に楽しもうとする、『「いき」の構造』にみられた生き方と、自他関係を離れた場において自己の同一性・永遠性を発見しようとする、ポンティニー講演にみられた生き方との二つを統合し、それまでの九鬼の思索を集大成したものとして『偶然性の問題』を捉える。 この書において九鬼は、「必然性」の本質を、「自己同一」「自己保存」としての「一元性」に求め、「偶然性」の本質を-者と他者との統合されることのない分裂としての「二元性」に求めているが、論者によれば、九鬼はこれら両者を統合した生き方を説いたという。これら必然・偶然に関して、九鬼は「定言的」・「仮説的」・「離接的」という三つの観点から問題にしているが、論者は特に「偶然性」の議論に注目し、その倫理学的意味について詳細に考察している。「定言的偶然」とは、論理的見地からの偶然であって、概念の同一性としての「定言的必然」を破るものであり、体系に対する孤立的事実、法則に対する例外などを意味しているが、論者はそこに、人間の実存のもつ偶然性の問題を読み込んでいる。次に「仮説的偶然」とは、経験的世界における偶然であっで、因果関係や目的手段関係の同一性としての「仮説的必然」を破るものであり、独立した二つの因果系列・目的手段系列の遭遇・邂逅のことであるが、論者はそこに、人と人との偶然的出会いを引き受けようとする生き方を読み取ろうとする。さらに「離接的偶然」とは、形而上的世界における偶然であり、「離接的必然」としての全体性の中から、BでもCでもDでもありえたのにAが出たという「原始偶然」を意味するが、論者はそこに、人間の「運命」の問題をみようとしている。 第五章では、まず論文「日本的性格」を扱っている。そこでは『「いき」の構造』における、「媚態」・「意気地」・「諦め」の三契機が、「自然」・「意気」・「諦念」の三契機へと変容し、「偶然」の中から「自然」という考え方が取り出され、それが晩年の九鬼の哲学の中心概念となっていく経緯が解明されている。論者によれば、それは『偶然性の問題』における「運命」の概念と深く関連するものではあるが、『「いき』の構造』以来の二元的な緊張関係が後退したところに成立したものとする。次に論文「情緒の系図」を扱っている。そこでは、「物のあはれ」など、「自然」への随順によって成立する、日本の伝統思想に根ざした九鬼独自の情緒論の意味が検討されている。 第六章では、九鬼の最後の著作である『文芸論』に至る、九鬼の芸術論について論じる。論者は『文芸論』等で展開されている押韻論が、単なる詩学の問題ではなく、「回帰的時間」や「垂直的脱我」といった彼の時間論と深く関わる、倫理学的な問題でもあったことを解明しようとしている。 以上のように本論文は、九鬼の著作を時代順に追いながら、「偶然性」という倫理学的にも重要でありながら、西洋哲学でも十分に展開されることのなかった概念を視座の中心にすえ、その倫理学的意義を解明しようとしたものである。同時代の西洋哲学の動向との関係や、日本の近代思想の流れの中での位置づけなどに対しても細かな目配りをしながら、九鬼自身のテクストの周到で内在的な読み解きの上に立った論述の進め方は評価に値するといえよう。九鬼は、西田幾多郎や和辻哲郎などと比肩しうる近代日本の重要な哲学者でありながら、従来ほとんど研究がなされていなかったといってよい。本論文は、九鬼に関する初めての本格的な研究であり、思想史の空白を埋める意味においても、意欲的な作品であるといえよう。先行研究が手薄なため、今後さらに深めていくべき課題も多く残していると思われるが、審査委員会としては、本論文が博士(文学)の学位に十分ふさわしいものと判断した。 |