内容要旨 | | 近年進歩した微細加工技術によって半導体にサブミクロンスケールの構造を作成する事が可能になり、このような微小領域、いわゆるメソスコピック領域における研究が盛んに行われている。GaAs/AlxGa1-xAs半導体ヘテロ界面における二次元電子ガス(2DEG)の平均自由行程はサンプルサイズと同じ程度と長く、その電子の輸送現象は加工した微細構造の形状に強く影響される。 GaAs/AlxGa1-xAsの2DEGの上部に周期的な微細構造を作り込む事により、2DEGの感じるポテンシャルを周期的に空間変調することが可能になる。その中でも変調ポテンシャルが強く、2DEGがポテンシャルの山の部分に到達できないような構造はアンチドット格子と呼ばれる。この系は最も簡単な人工格子の一つと考える事ができ、その格子周期長とアンチドット直径は制御可能である。また、アンチドット格子中の電子の古典力学的運動は強いカオス性を示す。さらに、電子のフェルミ波長を、周期長やアンチドット直径と同じ程度にする事が可能であり、その場合には電子輸送は様々な量子効果を受けると期待される。これらの観点からアンチドット格子における電子輸送が近年多くの注目を集めている。 アンチドット格子の2DEG面に垂直に磁場を印加した時の磁気抵抗には整合ピークと呼ばれる規則正しいピーク構造が現れ、その磁気抵抗と電気伝導率の振る舞いはアンチドット直径と格子周期の比(アスペクト比)を変えると複雑に変化する事が実験的に示されている。また、その整合ピークにはAharonov-Bohm(AB)効果と同様なch/e周期の振動(ABタイプ振動)が重なって現れる事が実験的に示されている。さらに、この論文では直接取り扱わないが、ゼロ磁場近傍でのAltshuler-Aronov-Spivak(AAS)振動やホール抵抗の消失、絶縁体-量子ホール液体転移などの興味深い現象も実験的に観測されている。 この論文ではアンチドット格子における電子状態と電子の輸送現象を明らかにする事を目的として、詳細な理論的研究を行う。磁場中のアンチドット格子における電気伝導率テンソルを古典力学と量子力学の両方で数値的に計算し、その結果を考察する。 まず、古典力学的に計算された電気伝導率を示す。対角伝導率とホール伝導率の振る舞いはアスペクト比に強く依存する。アスペクト比が小さい時には、アンチドットと散乱しながら拡散していく拡散軌道が対角伝導率に主に寄与し、その拡散軌道の位相空間における体積は磁気フォーカス効果によって特定の磁場で増加し対角伝導率の増大を引き起こす。また、整合磁場の前後ではアンチドットとの衝突で右方向に散乱される軌道と左方向に散乱される軌道の位相空間における体積の差が相対的に変化し、ホール伝導率に階段構造が現れる。アスペクト比が大きくなると拡散軌道の体積の増大を与える磁場は著しく低下する。同時にアンチドットによって右方向、左方向に散乱される軌道の対称性が破れ、ホール伝導率における階段構造はディップ構造へと変化する。 この様に伝導率の振る舞いはアスペクト比と共に大きく変化するが、同時に対角伝導率とホール伝導率の相対的な大きさも変化するので、磁気抵抗における最も高磁場側の主ピークの磁場位置はアスペクト比を変えても殆ど変化しない。一方、その他の低磁場側に現れる磁気抵抗ピークの磁場位置はアスペクト比を変えると著しく変化する。これらによって実験で観測されている対角伝導率とホール伝導率の複雑な振る舞いは説明される。 アンチドット格子における電子の運動は強いカオス性を示し、電子の軌道の過去の記憶はアンチドットとの数回の散乱の後に実効的に消えるとみなす事ができる。アスペクト比の小さな系では、この様なカオス軌道が輸送に主に寄与するので、伝導の特徴は緩和時間に依存しない。アスペクト比が大きくなると、隣りのアンチドットへと規則的に飛び移る安定な逃走軌道の寄与も重要になる。この場合には伝導の特徴は平均自由行程に依存して変化する。 次に、量子力学的に計算された電気伝導率を示す。フェルミ波長がアンチドット直径と同じ程度になると、電子波の回折現象によって実効的なアンチドット直径が大きくなる。これがアスペクト比が小さいアンチドット格子における主な量子効果である。この効果によって、整合ピークの磁場位置は電子の古典力学的運動から予期される位置とは、ずれてしまう。 比較的大きなアスペクト比を持つ正方格子におけるエネルギー準位は、互いに強く混じり合っている。また、エネルギー準位は短周期の周期軌道の半古典的量子化の様相をある程度残してはいるが、系は半古典的領域ではなく、むしろ量子論的な領域にある。 このようなアスペクト比の大きた正方格子では、ホール伝導率が個々の磁気ミニバンドの特徴を反映する。整合磁場の近傍では磁気ミニバンドは激しくエネルギー的に重なり合い、負の(通常のランダウ準位とは逆の)量子化ホール伝導度を与える磁気バンドが現れる。これによって整合磁場の近傍でホール伝導率は減少し、その結果磁気抵抗は増大する。アスペクト比の小さい系では、この様な負の量子化ホール伝導度を与える磁気ミニバンドは整合磁場よりずっと低磁場でのみ現れる。しかしながら、その様な低磁場ではホール伝導率は磁気ミニバンドの量子化値で決まるのではない為、アスペクト比の小さい系ではこの量子効果は重要ではない。 次に、より低温で量子力学的に計算された磁気抵抗率を示す。磁気抵抗率の整合ピークには、ABタイプの量子振動が重なって現れる。アスペタト比の小さい格子では、この量子振動はSchubnikov-de Haas(SdH)振動と同じ特徴を持っている。この振動には状態密度の振動が重要である。 アスペクト比を大きくしていくと、量子振動はSdH振動として予期される特徴とは逆の特徴を持つ傾向がある。この量子振動が実験で観測されているABタイプ振動に対応する。周期軌道の半古典量子化は状態密度の変調をもたらす。一方、拡散軌道の速度は、これら量子化準位が存在すると軌道間の量子力学的な混合によって減少する。この2つのメカニズムは互いに逆の位相の振動を引き起こす。また、アンチドットポテンシャルが切り立っている場合には磁気ミニバンドの折り返しによって、Hofstadterのバタフライ準位構造に関係した振動が現れる。系のパラメターを変化させると実験で観測されている量子振動の起源も変化し、時として上記の異なるメカニズムが混在している事もある。 最後に三角格子における伝導率を示す。上記の正方格子における伝導現象との相違点を明らかにする。アスペクト比を大きくしていくと、拡散軌道は正方格子に比べて隣のアンチドットにより大きく影響されるようになり、磁気抵抗の主ピークの位置は急速に低磁場側にずれていく。またドットに囲まれた領域を周回する軌道は強く閉じ込められている為に、三角格子のエネルギースペクトルは正方格子に比べて単純であり、準位間混合の効果は弱く、負の量子化ホール伝導度を与える磁気バンドの出現はあまり顕著ではない。低温で現れる量子振動に関しては、対角伝導率の振動は正方格子の場合と事なり、アスペクト比に依らず本質的にはSdH振動の性質を持っている。 結論として、アンチドット格子における古典力学的な電子輸送に対しては、全てのアスペクト比に対して、カオス性を持つ拡散軌道が重要な役割を担っている。実験で観測されている、アスペクト比あるいは磁場の強さを変える事によって複雑に変化する磁気抵抗や伝導率の振る舞いは、拡散軌道の特徴の変化として統一的に説明される。アスペクト比の小さい系での輸送現象に対して、電子波の回折現象が主な量子効果である事は、アンチドットに散乱される拡散軌道が輸送に対して重要な役割を担っている事から自然に理解される。 また、アスペクト比の大きい正方格子の電子輸送に対しては、強い準位間混合も重要な役割を担っている。この強い準位間混合は、整合磁場近傍でのホール伝導率の減少をもたらす。また、実験で観測されているABタイプの振動のメカニズムとしては、周期軌道の半古典量子化による状態密度の変調だけでなく、強い準位間混合によって拡散軌道の速度が変調される事も重要である。 以上のように、アンチドット格子の輸送現象には、拡散軌道と強い準位間混合が非常に重要な役割を担っている。実際、三角格子と正方格子における輸送現象の違いも、これら拡散軌道の特徴の差と、準位間混合の度合いの差として理解される。 |
審査要旨 | | 本論文は10章からなり,アンチドット格子で観測される整合ピークについての理論的考察が主になされている.第1章は導入,第2章はアンチドット格子に対する実験結果と,これまでの理論について,第3章は以後の解析で必要となるカオスについてのまとめ,第4章は以後理論的に取り扱うモデルの紹介,第5章はアンチドット格子の電子状態の計算結果,第6章は古典力学を用いた磁気抵抗の計算で整合ピークが得られることと結果の考察,第7章は量子力学を用いた計算での整合ピークについて,第8章はアハラノフ・ボーム型の振動についての考察,第9章は三角格子での計算について述べ,最後の第10章で全体のまとめがなされている. アンチドット格子というのは,半導体ヘテロ接合上に周期的に微細なゲートを作成し,2次元電子系にポテンシャルを加え,周期的に電子が排除される領域(アンチドット)を作ったものである.この系での磁気抵抗には格子周期と電子のサイクロトロン軌道の直径が等しくなる磁場で,整合ピークと呼ばれる構造が現れることが実験的に明らかにされている.このピークの成因についてはこれまでいくつかの理論が提案されてきた.しかし,それらは,実験事実を完全に説明するものではなかった.特に不充分であるのは,実験ではアスペクト比と呼ばれるアンチドットの直径と格子の周期の比が異なる試料ではそれぞれ違った振る舞いが観測されているのに,理論でその違いを統一的に説明するものは無かったこと,電子のフェルミ波長とアンチドットの周期は同程度であり,量子効果が重要であると考えられるのに,古典的な理論を用いて解析されていたことなどである. この問題に対して,石坂氏は本論文の主要部分である第6章と第7章で,四角格子に対する計算を行なった.先ず古典力学による計算を行ない,アスペクト比が小さいときにはアンチドットと散乱しながら拡散して行く拡散軌道というものが磁気フォーカス効果によって,特定の磁場で対角伝導率にピークを与え,これが磁気抵抗のピークを与えることを明らかにした.また,アスペクト比が大きくなると伝導率のピークを与える磁場の値は低磁場側に移動するが,ホール伝導率にディップ構造が現れるため,磁気抵抗のピークはアスペクト比に依存せず,一定にとどまることを明らかにした.これらのアスペクト比による磁気抵抗の変化を示した計算結果は整合ピークの位置のみならず,全体的な磁場依存性でも実験結果と良い一致を示している.ここでの計算では,電子の平均自由行程依存性もカオスとの関連から議論されている.石坂氏は更に量子力学的に自己無撞着ボルン近似を用いた磁気抵抗の計算を行ない,古典力学による計算と本質的に同じ結果が得られること,但し,回折効果によってアンチドットの直径が増大するように見えることを明かにした.また,この量子的な計算では特にアスペクト比が大きい場合に,整合ピークが電子のエネルギースペクトルという観点からどのように解釈できるかが明らかにされた.これらの計算は整合ピークの成因について,最終的な結論を与えたものと評価できる. 石坂氏は第9章において,同様の計算を三角格子に対して行なった結果を示している.ここではピーク構造に本質的な拡散軌道が,アスペクト比が大きい場合には三角格子では,四角格子に比べてより強く影響を受けるため,磁気抵抗のピークは低磁場側にずれることを計算で示し,これは実験結果と一致することが示されている.この三角格子での結果は,整合ピークの原因が拡散軌道であることを別の観点からも確認したものとして,評価できる. 石坂氏はこのほか第8章において,より低温で観測される磁気抵抗のアハラノフ・ボーム型の振動の原因についての考察を行なっている.ここではアスペクト比に応じて,様々な原因で量子振動が現れることが明らかにされている.すなわち周期軌道の半古典量子化による状態密度の振動に起因する振動(シュブニコフ・ドハース振動)と準位間混合による拡散軌道の速度の変調に起因する振動などである.しかし,量子振動はこれらが複雑に絡まり有って生じるために,残念ながら実験で見られる振動について明確な描像を与えるには至っていない.しかし,このことは整合ピークについて詳細な研究を行った本論文の価値を減ずるものではない. なお,本論文第5章と第8章の1部は二瓶,中村,曽根,安藤氏との共著,第6章から第9章までは安藤氏との共著であるが,論文提出者が主体となって解析を行なったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する. したがって,博士(理学)を授与できると認める. |