研究の背景 キセノンは臨床的に有用な麻酔力を持つ不活性ガスである。その肺胞最小濃度(手術刺激に対する体動の有無を指標とするED50;MAC)は71%で、亜酸化窒素よりも強力である。キセノンは0.115という低い血液ガス分配係数を持ち、今日用いられている吸入麻酔薬の中で少なくとも理論的には最も速い麻酔導入と覚醒を可能する。また亜酸化窒素など今日臨床で使用されている吸入麻酔薬と違って、手術室の空気汚染を起こさず、手術室職員の健康を害する危険性がない。手術室から排気されたキセノンには自然環境に及ぼす悪影響も認められていない。キセノン麻酔は費用が高価であるという理由から長年注目されてこなかったが、最近の低流量麻酔の傾向とともに再びその臨床応用への関心が高まってきた。 そこで、キセノンを臨床応用するにあたって重要と思われる以下の問題について4つの臨床研究を行った。すなわち、(1)キセノンによる麻酔導入、(2)キセノンと筋弛緩薬との相互作用、(3)キセノンの手術侵襲時の心血管系およびカテコラミン反応への影響、(4)キセノンの催眠作用、の4つである。 研究方法 対象 術前全身状態が良好であるアメリカ麻酔学会分類1-2の予定手術患者を延べ136人を対象に臨床研究を行った。 研究プロトコール (1)では1MACのキセノンまたはセボフルレンの吸入導入をその速さ、血行動態、呼吸機能、合併症について比較した。(2)ではキセノンまたはセボフルレン麻酔中のベクロニウムの作用時間および血中活性について比較した。(3)では次の5つの方法で麻酔を維持した群について、収縮期血圧、心拍数、エピネフリン、ノルエピネフリン濃度を麻酔前、皮膚切開1分前、皮膚切開1分後に測定・記録した。1.3MACイソフルレン(イソフルレン群)、1.3MACセボフルレン(セボフルレン群)、0.7MACキセノンと0.6MACセボフルレン(0.7MACキセノン群)、1MACキセノンと0.3MACセボフルレン(1MACキセノン群)、0.7MAC亜酸化窒素と0.6MACセボフルレン(亜酸化窒素群)。(4)では(3)と同じ5群について皮膚切開前後のBispectral Index(BIS)を測定した。 実験結果 (1)では、1MACにおける吸入導入までの時間はキセノンで71±21(平均±標準偏差、以下同様)秒であったのに対し、セボフルレンでは147±59秒であった。呼気終末のキセノンとセボフルレンの上昇を図1に示す。 (2)では、キセノン麻酔下ではベクロニウムの作用時間はセボフルレン麻酔下におけるよりも約25%短かった。また25%筋弛緩回復における血中ベクロニウム活性はキセノン麻酔の方がセボフルレン麻酔よりも約30%高かった。その差はすべて有意であった。 (3)では、皮膚切開時における心拍数と収縮期血圧の増加はイソフルレン群とセボフルレン群では1MACキセノン群と亜酸化窒素群よりも有意に大きかった。心拍数の変化(bpm)を以下に示す。イソフルレン群21±11、セボフルレン群19±11、0.7MACキセノン群11±6、1MACキセノン群4±4、亜酸化窒素群8±7。また収縮期血圧の変化(mmHg)は以下の通りであった。イソフルレン群37±14、セボフルレン群35士18、0.7MACキセノン群18±8、1MACキセノン群16±7、亜酸化窒素群14±10。またキセノン濃度を増加させることにより用量依存的に心拍数と収縮期血圧の増加を抑制した(図2参照)。 (4)では、皮膚切開時にイソフルレン群、0.7MACおよび1MACキセノン群ではBISは上昇が見られなかったのに対し、セボフルレン群と亜酸化窒素群ではBISの有意な上昇が観察された。 図表図1 吸入導入中の呼気終末肺胞最小濃度(MAC)の変化。"LOC"は意識消失の時点を表わす。結果は平均±標準偏差で表示する。 * キセノン群に対して有意に低い(P<0.05)。 / 図2 キセノン濃度と皮膚切開時の心拍数(上図)と収縮期血圧(下図)のパーセント変化との関係。キセノン濃度はセボフルレンとあわせて1.3MACとなるように示す。0.7MACキセノンと1MACキセノンはともに心拍数と収縮期血圧の変化を抑制する(*P<0.05)。0.7MACキセノンと1MACキセノンの間には心拍数の抑制には有意差があったが(†P<0.05)、収縮期血圧の変化には有意差が見られなかった。考察 以上の一連の臨床研究からキセノンの次のような特性が明らかになった。 (1)キセノンはセボフルレンよりも吸入麻酔導入を速くかつ同様に安全に行える。 (2)筋弛緩薬の作用はキセノン麻酔の方がセボフルレン麻酔よりも短い。また、キセノンの筋弛緩作用はセボフルレンよりも弱い。 (3)キセノンの手術侵襲時の血行動態反応を弱める程度は亜酸化窒素と同等であった。亜酸化窒素には鎮痛作用のあることが判明しているので、キセノンにも同様の鎮痛作用があることが示唆される。事実、キセノンの鎮痛作用は臨床実験や動物実験で示唆されており、本研究の結果からもキセノンには亜酸化窒素のような鎮痛作用が臨床的に使用できる濃度で存在することが示唆される。 (4)キセノンにはさらに亜酸化窒素と違って、催眠作用もあることが示された。麻酔薬の中で催眠作用の優位なものは一般に侵襲刺激に対する血行動態反応を抑制できないといわれている。しかしキセノンはこの点で例外的な存在である。(3)の結果と総合すれば、キセノンは催眠作用と鎮痛作用の両方を有することが示唆される。 まとめ 以上、キセノンの臨床応用に関する一連の問題点を明らかにしてきた。すなわち、キセノンは麻酔導入が速く、筋弛緩作用が弱く、鎮痛・催眠作用を有し、高費用の原因は麻酔作用に要する部分にはないということが明らかになった。しかしキセノンを実際に臨床応用するには解決すべき問題が残っている。例えばキセノン麻酔の費用が他の麻酔方法に比べてかなり高価になるといった問題である。それゆえキセノンが一般の麻酔に安全に使用されるようになるには、さらなる研究が不可欠である。 |