本論文は、一向一揆を次の三点から考察したものである。第一に一揆構成員が共有していた信仰の内実、第二に一揆の構成原理、第三に本願寺・一向一揆と当時の政府である幕府や社会の支配層を構成していた諸大名との関係である。 第一部は第一の問題を扱ったものである。ここでの主要な論点は以下の通りである。即ち、「一向宗」と当時呼ばれた一揆衆の信心は、通説では真宗のこととされているが、実際には阿弥陀如来への専一的信仰を趣旨とするものの、中世の雑多な念仏信仰を含み、親鸞の教義とは別の内実をもっていたこと、従ってまた一向宗徒と呼ばれた者は真宗門徒以外にも時宗信徒、一同派信徒など宗派を越えて存在したこと、である。 第一章では15世紀後半の、一向一揆発生期の北陸をフィールドとして、一向一揆構成員の信仰の内実を検討した。当時吉崎にいた蓮如のもとに結集した門徒たちは「一向宗」と自称していること、また信心と反体制的行動とを一体のものとする行動様式をもっていることを指摘し、蓮如の説く親鸞の教義とは異なった信仰を有していたことを明らかにした。そのうえで門徒は目前の信仰に基づいて蓮如を善知識とし、蓮如もまた門徒たちを「親鸞の御門弟」と見做して受け入れたことを論じた。 第二章では一向宗を、その伝道者の側面から検討した。近世の薩摩藩、戦国期の相良領にみられる一向宗徒の実態をてがかりに、戦国期に一向宗の伝道を担った者たちが山伏、巫女、下級神官、陰陽師、六十六部、琵琶法師など漂泊の民間宗教者、芸能者であり、事実本願寺教団内にも彼らを見いだせることを明らかにしたものである。 第三章では、戦国以前の一向宗徒について、北陸をフィールドとして一向宗徒の実態を検討した。特に彼らが踊念仏を行い、浄不浄を忌まないという一般の中世びととは異なった行動様式をもつことに注目し、一向宗徒が他界(霊界)との交流をもち、その事情に通じた存在と見做されていたこと、そのために来世の救済を求める信者たちの帰依をうけたことを論じた。 第四章では戦国期に一向宗が広く民衆に受容されていった要因を検討した。同じ時期にやはり民衆に浸透したキリシタンと一向宗徒との比較を行い、両者が共に民衆の、先祖祭祀への指向、家族による信仰の共有への指向をもつことを明らかにした。そのうえで庶民層で嫡子単独相続の家が広汎に成立するのが中世後期であるとする最近の学説に基づき、民衆が家の成立期にあって祖先祭祀の確立や、家族による信仰の共有をめざしていたことが、一向宗を受容した要因の一つであることを指摘した。 第二部は第二の問題を扱ったものである。その主要な論点は、一向一揆に参加した本願寺門徒が何故身分的に隔絶した公家階層の本願寺宗主及びその一族(親鸞の子孫たち)を-揆の棟梁として受容したのかについてのものである。本願寺宗主(本願寺住持)は本願寺一族、本願寺家の家臣(下間氏など)及び本願寺門徒による承認を得て初めて宗主たりうる、という関係、即ち一揆的構造が本願寺教団の中に存在したこと、この一揆的構造のために、本願寺宗主及びその一族が一向一揆の指導者となりえたことを論じた。 第一章では、本願寺教団の中に、本願寺宗主が本願寺一族、家臣、及び門徒の承認を得て初めて宗主たりうる、という不文律のあったことを明らかにし、これは、家長が一族と家老以下の家臣の支持をえて初めて家長たりうるという武家の家の原理と同質のものであることを論じた。次にこのような本願寺教団の構成原理、即ち一揆的構造が、信心をキー・ワードとする親鸞の教義と密接な関係にあったことを論じた。さらに一揆的構造は近世にも存続することを指摘した。 第二章では、本願寺教団内で宗主の発給した「御書」「御印書」の二つの文書を検討して、宗主を教団が一致して承認する、という教団の構成原理を摘出したものである。「御印書」は、宗主の奏者が宗主の意を奉じ、宗主の袖判を有する印判奉書である。この文書の用途、機能を検討して、これが宗主を支持する集団(即ち一族、家臣、門徒の一揆)の発給文書として機能したことを論じた。次に宗主自身が署判して発給した「御書」も、宗主が教団の承認に基づいて書いた部分と宗主の専権のもとに書いた部分(法語)との二つの部分から構成されていることを明らかにし、これらの発給文書が教団の一揆的構造を明示していることを論じた。 第三章では、加賀一向一揆を検討して、本願寺宗主と加賀一向一揆との間にやはり、一揆による宗主の承認、宗主による一揆の指導という関係があったことを明らかにしたものである。戦国期の本願寺宗主は、加賀一向一揆に命令を下す指導者であると共に、加賀一向一揆の意向に沿った命令を発する存在でもあり、両者が一体となって戦国時代の加賀を支配していたことを論証した。次にこの両者の関係は石山合戦以後も持続すること、言い換えれば本願寺を擁する加賀門徒団は石山合戦以後も健在だったことを明らかにした。 第三部は第三の問題を扱ったものである。これは通説に対する二つの疑問の解明を意図している。第一に通説では公家である本願寺自体はともかく、門徒たちによる一揆は確たる理由もなく反体制的存在としてきたが、果して妥当か否か、という疑問である。 一方第二は、通説では一向一揆は近世には存在しえない、中世と近世との「画期的」変化ないし断絶を象徴する存在としてきたことに対する疑問である。第二部でみたように、教団の一揆的構造は近世にも健在であり、また一向一揆が滅亡したとされる加賀において、石山合戦以後も本願寺門徒団は健在であった。さらに近世では本願寺教団は東西合わせて最大の宗派であった。 第二の疑問については、石山合戦以後健在である教団は、支配者に従順な存在に変質したものである、という説明もなされてきた。しかしこれは戦国時代の一向一揆を無前提に反体制的なものとみる通説に基づいた仮説に過ぎない。果して変質したか否かが検討される必要がある。 そこで第一章では、戦国時代の幕府と本願寺との関係を検討した。幕府は本願寺を加賀の守護に準ずる存在と見做しており、しかも幕府内には本願寺担当の奉行人が存在した。また本願寺も幕府に太い人脈を有していた。このような本願寺のあり方は、加賀にある将軍料所や奉公衆ら直臣の所領を本願寺(従ってまた一向一揆)が安堵するという重要な役目を担っていたことと対応するものであることを明らかにした。言い換えれば本願寺は戦国時代の幕府体制の中で、相当に重要な要素となっていたと考えられるのである。 第二章では本願寺・一向一揆と支配者との関係を検討した。 まず第一に、通説では一向一揆の壊滅的敗北に終わったとされる石山合戦に関して、織田政権と一向一揆とは、非妥協的な対立関係にはなく十分に共存可能であり、通説にいわれる「壊滅的敗北」は実態から遊離していることを論じた。 次に天文期の本願寺と一向一揆との関係を検討し、本願寺が門徒は世俗の支配者に従うべき存在であるとして、一般的な政治抗争に際して一揆蜂起を命じることは原則的になかったこと、幕府将軍など権力者が承認した軍事行動にのみ門徒が協力することを是認したこと、さらに門徒独自の一揆(集団的軍事行動)や諸大名との共闘・対立は放任し、その処分は守護等世俗の支配者に委ね、唯一本願寺の存続に係わる政治状況に際してのみ「仏法」擁護の戦いとの大義名分のもとに門徒に蜂起を命じたことを明らかにした。 第三にこのような本願寺の対応は、石山合戦以後も変わらず、本願寺は世俗の支配者の政治的権限に服すると共に、世俗の支配者側も、「仏法」の領域における本願寺の権限を容認していたとみられることを指摘した。 第三章では、通説にいわれる中世・近世の「画期的」変容を、山城国革島氏を素材に、村落及びそこに活動基盤をおく在地武士の実態という側面から再吟味したものである。原則的に主君をもたず、川島村に土着していた革島氏が、身分的にはれっきとした武士として、藩士や知行取武士と同等に扱われていたこと、村落内では中間得分を収取する地主層であること、村請を始めとする村落の活動全般に指導者として活躍し、「惣百姓」に君臨する「地主仲間」の一員であったことを明らかにした。このような在村武士のあり方、村請を行う村落のあり方は戦国時代のそれと酷似しており、中世・近世の移行期における社会の変化は通説にいわれるような急激なものではなかったことを指摘した。 以上の点から民衆と密着した信仰の担い手である一向宗徒を組織した本願寺教団が、宗主を頂点とする家的かつ一揆的構造を維持しつつ支配者と共存してきたのが、一向一揆の実態であり、その行動様式は近世の宗教勢力の行動様式を先取りしたものであると考えられる。そしてこのことは中世から近世への移行が、通説で言われるよりもずっと緩慢なものであったことに照応していると結論される。 |