学位論文要旨



No 214379
著者(漢字) 上田,昇
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,ノボル
標題(和) ディグナーガ、論理学とアポーハ論 : 比較論理学的研究
標題(洋)
報告番号 214379
報告番号 乙14379
学位授与日 1999.07.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14379号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
内容要旨

 インドはギリシャとは独立に論理学を築いた歴史を有する。唯識派の学匠として知られるディグナーガ(陳那,5-6世紀)はインド論理学史における扇の要とも呼ぶべき存在である。当時のインド諸学派の量論(知識論,広義の論理学)を批判しつつ、ディグナーガは独自の知識論的体系を作り上げたが、それがその後のインド論理学の新たな基点となった。

 一言で言えば、ディグナーガは因果関係を基礎に置く従来の論理学を、記号(リンガ)によるそれに変革したのであるが、後者における推論(比量)はアリストテレスの言う「事実についての推論」(もしくは「徴標による推論」)に相当する。アリストテレスは「事実についての推論」を「根拠についての推論」と対比的に論じているが、このうち「根拠についての推論」については三段論法として体系化を行なっているのに対し、「事実についての推論」についてはこれを傍論的に扱うのみである。従って、見方によっては、ディグナーガの比量論はアリストテレス論理学の補完と見られなくもない。事実上ディグナーガはアリストテレスの「事実についての推論」ついて、徴標(たる事実)の満たすべき条件を探求したと言える。

 また、記号による推論という観点は、言葉とりわけ語とその意味(artha)の関係を、推論と平行的に見ることを可能にした。ディグナーガはこの平行性の根拠を「アポーハ(遮離、排除)」と呼んで、語(sabda)による知を比量知と見なした。このことが持つインド思想史上の意味は測り知れない。なぜなら、ここで語(sabda)は聖人の言葉つまり聖言(アーガマ)をも意味するからである。すなわち、ディグナーガは聖言をそれ自身独立した量(知識根拠)とは認めなかったのである。ここに我々はインド思想における論理学的議論の占める位置といったものを典型的に見ることができる。一面でそれは語のまっとうな意味での論理学でありつつ、他面では宗教的動機の下にある弁証なのである。

 我々はディグナーガ論理学の宗教的動機を問わない。本論は、語のまっとうな意味における論理学としてこれを取り上げ、その比較論理学的意味における特徴を明らかにしようとするものである。ここで"比較論理学的意味における"とは詰まるところ「無人称の領域」(森有正)を記述する言語---いわゆる形式言語をその極とする---としての謂である。ディグナーガの論理学が一定固有の文化的背景から生まれ出たものであることは言を俟たない。従って、それは歴史的存在であり、他文化において生まれ出たものとの安易な比較を許すものではないであろう。しかし、論理を記述する言語を、他の諸々の事柄について語る言語と全同のものとすることはできない。論理学がそこにおいて成立する言語的領域といったものがあるであろう。この領域において諸々の論理学は互いに比較可能であると考えられる。

 本論は前編でディグナーガの論理学を、後編で同じくアポーハ論を論じる。前編のうち、第一章でディグナーガ論理学の核とも言うべき因の三相を取り上げ、この論理学が演繹的論理学の観点からは妥当性を持っていないこと、とりわけアンチノミー(相違決定)を胚胎することを明確にする。しかし、それでもなお論理学としての個性と有効性は存在するのであり、我々はそれを「事実確認」(マッソンウルセル)の論理学として性格づける。この性格はこの論理学の歴史的成立要因を反映するものであると考えられる。

 第二章、三章、四章では、帰謬論法についての、従来から思想史的な研究対象となることの多い、インド中観派による論争を取り上げる。我々はこの論争の論理学的本質は、帰謬法なる命題論理に、インド論理学一般がそこに含まれると考えられる名辞論理学的表現を与えることが可能か否かという問題として捉えることができると考える。即ち、我々は、ディグナーガ論理学(因の三相)による推論式の論証因として、はたして<こと>を置けるか、という問題を設定する。つまり、<こと>が記号として機能し得る条件を求めた上で、帰謬論法をディグナーガ流の名辞論理学によって表現できるか否かを検討する。そして、一般的にはこの表現は可能ではないこと、しかしまた、必ずしも全面的に不可能であるというわけでもないことを示す。いずれにせよインド中観派の論師たちは上の論争に於て、あまりに安易に<こと>を<もの>化して名辞論理に訴えるのであり、これは、命題と名辞の構文上の区別を持たないサンスクリット語そのものに一つの原因があると考えられる。

 後編アポーハ論第五章では、文献的には事実上「語は<他の排除>によって、その(語の)意味(artha)たる<他の排除>を語る」と述べざるを得ないところの、この<他の排除>なるものは、語の意味として、語(ないし概念)の外延ではあり得ないことをディグナーガのテキストに沿って確認し、語の意味(artha)はむしろ<他の排除>の束として表わされると考えるべきことを見る。続く第六章では、この<他の排除>の束の言語論的モデルを提起する。我々は、アポーハ論的語の意味(artha)はソシュール流の言語価値論における「価値」の一種として位置付け可能と考えるが、さらに、上のモデルによれば、語の意味(価値)は否定名辞に関連して、基本的に直観主義論理に従うことが判明する。

 付論Iはアポーハ論的語の意味(価値)を、アリストテレス三段論法における名辞の意味と見ることが可能であることを示す。これは、アポーハ論的語の意味が語の外延的意味の拡張と考えられることを考慮すれば、三段論法がアポーハ論的語の意味(価値)へ拡張可能であることを意味する。また否定名辞を導入した三段論法のアポーハ論的語の意味への拡張に関連して、Celarentの直観主義的一般化とも呼ぶべき推論形式が見つかる。付論IIは、一の論理学的体系を他のそれに書き換える実例として、アリストテレス三段論法の体系をインド論理学的に書き換えることを試みる。ただし、書き換える側の論理学的基本概念のセットは主としてダルマキールティ(法称、7世紀)から採られている。この書き換えは、「である」および「でない」による命題から構成された推論を、「がある」および「..の無がある」による命題から構成された推論に書き換えるものであるが、この書き換えは三段論法の体系を破壊するものではないことが示される。

審査要旨

 ギリシャと比肩しうるほど古くから論理学の発達をみたインドにおいて,ディグナーガ(陳那,480-540年頃)が占める位置はきわめて大きい。彼は大乗仏教の唯識思想の流れを汲む学僧であるが,主著『プラマーナ・サムッチャヤ』(知識論集成)において,知覚と推理(アヌマーナ)を軸とした仏教知識論(広義の「仏教論理学」)の体系を確立したばかりでなく,旧来のバラモン哲学諸派の知識論(プラマーナ論,現在は一般に「認識論・論理学」と呼ぶ)を徹底的に批判した。これを機にインドの思想界全般が,認識論および論理学の諸問題をめぐって白熱した議論が展開されるようになる。

 本論文は,このようにインド哲学史上,画期的な業績を残したディグナーガの推理論(アヌマーナ論,狭義の論理学),および推理論と密接な関連をもつアポーハ説を,上述の『プラマーナ・サムッチャヤ』を中心とする関連資料の綿密な原文解読を踏まえ,かつ,形式言語による西洋の記号論理学の精緻な記述法を豊富に取り入れた,比較論理学的アプローチから分析した労作である。

 本論は前編と後編から成り,前編(第1-4章)ではディグナーガの推理論が考察されている。従来の研究では,未だ類推的段階にとどまっていた旧来の論証学を,ディグナーガは,ほぼ演繹推理の域に達した純粋論理学へと高めたという評価が一般的であったのに対して,上田氏はディグナーガの論理学は演繹的論理学としての妥当性はなく,むしろマッソン・ウールセルのいう「事実確認」の論理学として性格づけられものであり,インド論理学史上,ディグナーガが果たした貢献は,因果関係に基礎を置いていた従来の論理学を,「記号(リンガ)による論理学」に変革した点にある,との結論を導いている。またこれに即応する形で氏は,従前のさまざまな論証法(ex.帰謬論法)がディグナーガ以降,この「記号による論理学」へとパラフレーズされてゆく過程を,「こと」(「〜は無常である」)の「もの」化(〜に存在する「無常性」という属性の抽出)という切り口で解析し,この読み替えに含まれる理論上の限界と問題点を詳述している。

 一方,後編(第5-6章)ではアポーハ説が考察されている。「アポーハ」とは排除を意味するサンスクリット語であり,「アポーハ説」とは,語-例えば「うし」-の表意機能を,<〜でないものの排除>(牛でないものの排除)という,否定を媒介とした思惟の働きによって説明し,かつ言葉から意味を了解するプロセスを推理の一形式としてとらえるディグナーガ知識論の根拠づけをなすところの,言語認識上の一理論であるが,上田氏はアポーハ説による語の意味を「<〜でないものの排除>の束」と規定しうることを示した上で,上位・下位・同位から成る概念の樹形図に相当する,<〜でないものの排除>の束のヒエラルキーを提示した。

 このほか,本論に先立って前編・後編それぞれに対応する先行研究が序章A,Bにおいて詳細に論評され,さらに付論では西洋古典論理学との対比のもとで,アポーハ論的語の意味をアリストテレス三段論法における名辞の意味と見なしうることを示し(付論I),また「アリストテレス三段論法のインド論理学的書き換え」といった斬新な試みもなされている(付論II)。

 これまでもJ.F.Staalなど,そして我が国では泰本融氏をはじめとする諸氏が,インド論理学を比較思想的視点から考察してきたが,本論文はこれらの先行研究をよく踏まえつつも,ディグナーガ論理学を「事実確認」の論理学として掘り下げるなど,上田氏自身の独創的な視点や柔軟な発想が随所にうかがわれる。またインド論理学の特質を記号論理学的に分析すべくStaalが提示した論理式を一部修正するなど,高度に抽象的な形式言語の運用にも氏は卓越した能力を示している。

 このように本論文は,比較論理学的研究としてきわめて注目すべき意欲作であるが,その基礎にはあくまでも氏の原典資料の手堅い解読作業があることも見のがせないであろう。ディグナーガの著作はサンスクリット原典がすべて散逸し,『プラマーナ・サムッチャヤ』は劣悪なチベット語訳が現存するのみである。服部正明氏,北川秀則氏の優れた訳注研究があるが,同書の全体にわたるものではない。上田氏は参照しうる関連資料の諸版に可能な限り目を通すなど,あくまでも堅実な文献研究の方法をベースとしている。部分的ではあるがバラモン哲学の文献からも該当資料を抽出し,検討を加えている。

 ただ敢えて苦言を呈するなら,序論の先行研究概観でいきなり高度に専門的な論理学的議論が展開されているなど,読み手に過重な負担を強いていると思われる論述構成,論述方法が若干見受けられること,またサンスクリット資料の原文解釈にはなお訂正を要する箇所が散見するなどの問題点を指摘しうる。

 しかしこれらを勘案しつつも,本論文はインド論理学研究,とくに比較論理学的研究として,きわめて刺激的かつ上質な論考であると認められ,博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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