1980年代に実用化された船舶搭載型音響ドップラー流速計(Acoustic Doppler Current Profiler,ADCP)は、海洋上層の複数層の流速を空間的に非常に高密度で測定出来る利点があり、特に海洋上層循環の研究にとって画期的な変革をもたらす可能性を秘めている。 本論文は、1985年から1995年にかけて海上保安庁水路部が日本近海において取得した船舶搭載型ADCPによる流速データを解析し、日本南岸を流れる黒潮の流速構造そして日本近海における表層エクマン層の特性を明らかにしたものである。内容は3つの部分よりなっている。 まず、第1部(第2節に対応)では、論文提出者がシステムの導入から稼動まで中心的に関わってきた海上保安庁のADCPシステムについて、測定原理及び誤差要因とその補正の手法を記述している。また、海上保安庁が構築し維持している日本近海における船舶搭載型ADCPによる海流観測網の現況を説明し、船舶搭載型ADCPの観測手法としての長所について例を挙げて議論している。 第2部(第3節)では、日本南岸の黒潮を南北(流れを横断する方向)に横切る観測線2本に沿って繰り返して観測して取得されたADCPデータを解析した。その結果、これらの観測線における黒潮流速の東西成分分布は、黒潮流路が接岸している場合と離岸している場合とでは異なることを見い出した。すなわち、接岸時の流速分布は黒潮主軸に関して非対称で岸側では沖側に比べて急激に流速が減少するのに対し、離岸時には黒潮主軸に関してほぼ対称である。それに伴って、流速分布から得た相対渦度は、離岸時に黒潮主軸の両側で約0.2×10-4 sec-1という値を示すが、接岸時には沖側の相対渦度は約0.2×10-4 sec-1という離岸時とほぼ同じ値であるのに対して、岸側では0.4〜0.6×10-4 sec-1と沖側の2〜3倍の値となることを示した。この接岸時の岸側の相対渦度は惑星渦度に匹敵する大きさである。このように多くの観測データを基にして、黒潮構造の接岸時と離岸時の違いを、初めて定量的に把握した。これは黒潮の力学を理解する上で重要な情報となる観測事実である。 第3部(第4節)では、日本近海における表層エクマン層の特性を明らかにした。蓄積されたADCPによる複数層の流速データから、観測層の組み合わせとして最も数の多いもの(海面下10m、50m、100m)を選び出し、100m層の流速を基準として上部2層の相対流速を計算した。次にそれらの相対流速を用いて、エクマンの理論に基づいて相対流速のなす角度及び大きさの比からそれぞれエクマン深度を見積もった。2つの方法によるエクマン深度が適当に定めた基準の範囲内で一致する場合を、エクマン層が観測されたものとした。この基準を満たすデータは総データの約5%である。その結果、日本近海におけるエクマン深度は約40m、これから導かれる鉛直渦動粘性係数は0.09m2/secという値を求めた。また、得られたエクマン深度は夏季に浅く冬期に深いという季節変動を示した。それに伴って鉛直渦動粘性係数も同様の季節変動の傾向を示す。この見積りは、広い海域と長期間に渡って取得された莫大な数のデータに基づいており、日本近海における値として信頼すべきものが得られたものと評価できる。これは、洋上を卓越する風から海洋への運動量やエネルギー輸送の理解を一歩進めたことになる。 本論文は、空間的に密な流速データの取得が可能な船舶搭載型ADCPの長所を生かし、長期間に渡って蓄積された莫大なADCPデータを解析して、黒潮構造の接岸時と離岸時の相違を定量的に把握し、日本近海における信頼に足る表層エクマン層の厚さとそれから導かれる鉛直渦動粘性係数を求めたものである。この研究成果は、海洋物理学の発展に貢献すると共に海洋上層循環の解明に対する船舶搭載型ADCPの画期的な利用法を提案したことになる。 よって、本論文は博士(理学)の学位論文として合格と認める。 |