学位論文要旨



No 214386
著者(漢字) 中山,靖之
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤマ,ヤスユキ
標題(和) 水俣湾環境復元事業におけるプロジェクトマネジメントと評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 214386
報告番号 乙14386
学位授与日 1999.07.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14386号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 藤野,正隆
 東京大学 教授 渡邉,晃
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 味埜,俊
 東京大学 教授 似田貝,香門
内容要旨

 1.我が国では、経済発展により国民所得の増大や産業構造の高度化が達成される一方で、大気汚染、水質汚濁等の公害の発生、自然環境の破壊など国民の健康が脅かされる事態も生じた。この状況は、今日アジアなどの開発途上国においてしばしば懸念されていることでもある。

 水銀中毒の歴史は古いが、全て水銀を直接体内に取り入れた職業性中毒または誤食による食餌性中毒であった。環境汚染を媒介にし食物連鎖を通じて発症した有機水銀中毒「水俣病」は、その発生機構と間接的中毒であるという点で極めて特異的である。水銀の環境水中における挙動のうち、魚介類の水銀の取り込み(プランクトンの捕食等食物連鎖、鰓、皮膚からの直接取り込み)、無機水銀の有機化(底質中の無機水銀の海水への溶出等、太陽光線によるメチル化、生物体内における有機化、微生物による有機化)が「水俣病」と密接に関連している。水俣湾以外では、山口県の徳山湾や南米ブラジル国のアマゾン川流域における水銀を含む有害底質の堆積事例が知られている。

 2.水俣市はチッソ(株)水俣工場とともに発展したが、同社が触媒として使用した水銀化合物から副成されたメチル水銀化合物が水俣湾に流出、堆積し、「水俣病」の原因となった。汚染状況は、底質では湾奥部が600ppmを超え湾口部でも15ppmと高く、水質についても湾奥部が最大0.002ppmと環境基準0.0005ppmをはるかに超え、また魚介類には総水銀で10ppm以上の魚種が存在した。水俣湾では漁業が盛んであり、また奥部は天然の良港として物流の拠点でもあった。

 水俣湾等堆積汚泥処理事業における第一の課題は除去基準を決定することであった。考慮された因子は、魚介類の水銀許容濃度(0.4ppm:メチル水銀としては0.3ppm)、魚介類の水銀濃縮係数(1×103)、水銀の底質からの溶出率(1.6×10-4)、海水中における水銀の拡散(潮位差で近似)及び安全率(100)である。以上により、環境庁の通達に示された算定式に基づいて水俣湾における除去基準値は25ppmと決定された。

 第二の課題は除去工法を決定することであった。汚染の状況、水俣港の利用実態等から、堆積汚泥の水銀濃度が高い湾奥部を埋立護岸で仕切り比較的濃度が低い湾央部の浚渫汚泥をその中に埋立処分する、一部浚渫・一部埋立方式とした。また施工に当たりメチル化などの二次公害を防止するため、カッターレスポンプ浚渫船の開発や埋立地内の湛水化等の対策を講じるとともに、総合的な環境監視計画を策定しその結果が直ちに工事に反映できる体制とした。

 水俣湾環境復元事業においては、工事が環境へ与える影響(二次公害の発生の有無)に関し不確定な要素が不可避であったことから、事業実施者(行政側)と住民側との間で環境リスクについて見解の相違が生じた。事業の実施は、熊本地方裁判所という司法の場を利用したリスク・コミュニケーションによって可能となった。対等かつ双方向のリスク・コミュニケーションと徹底した情報公開が、両者間の信頼関係の形成に極めて有効であったといえる。

 3.水俣湾等堆積汚泥処理事業(処理面積:209ha、処理汚泥量:151万m3)は、1977年10月から1989年度末までに総事業費約485億円で実施された。

 具体的な工事内容は、湾内流による浮泥の拡散防止等のための仮締切堤の建設、浚渫汚泥を処分する埋立護岸の建設(地盤改良、鋼矢板セル、締切部の施工等)、汚泥の浚渫埋立、埋立地内の余水処理、埋立土砂の表層処理などである。このうち汚泥の浚渫については、除去基準値25ppm以上の水銀を含む汚泥を完全に除去するため詳細な調査に基づき浚渫棚を設定し等深堀りで施工するとともに、二次公害の防止と施工精度の向上のためカッターレスポンプ浚渫船の濁り監視及び運転管理を自動化・ビジュアル化した。

 水俣湾等堆積汚泥処理事業における最重要課題の一つが二次公害の発生の防止であった。監視項目は、水質(海水、地下水、埋立処分地の余水)及び魚介類(捕獲魚、飼育魚、プランクトン)とし、水質のうち総水銀については水銀濃度の分析に時間を要することもあり、予め確認した相関関係に基づき濁度の測定結果を用いて監視している。水質の監視結果は全て定量下限値以下(ND)であり、魚介類の水銀濃度については総水銀の平均値が0.4ppmを上回った魚種が存在したがメチル水銀の監視基準値0.3ppmを超えるものはなく、これらの分析結果からは工事により二次公害が発生しなかったと結論された。

 4.水俣湾等堆積汚泥処理事業の内容及び事業の実施による環境改善の効果については以下のように分析される。

 海水中の水銀濃度は、事業開始から終了まで環境基準値であり定量下限値でもある0.0005ppm以下であったが、動物プランクトンによる体内の水銀濃縮係数を用いて検証すると事業期間を通じて濃度の低下が見られた。一方魚体中の水銀濃度は、事業による水質及び底質の改善と同時には低下せず相当長期の時間的遅れの後暫定的基準値0.4ppmを下回った。これは、魚体中の水銀濃度の変化が魚体からの水銀の減少速度(半減期)に大きく依存しているためと考えられる。

 

 によって、Cfo=1.0ppm. Cfe=0.2ppm、H=5年の場合についてCf(t)=0.4ppmになるtを求めると10年となる。この年数は、水俣湾において事業終了後8年を経過して魚体中の平均水銀濃度が0.4ppm以下となった事実とほぼ一致し、環境改善の効果が確認された。

 水銀を含む汚泥の暫定除去基準値25ppmついては、25ppm以上の水銀を含む汚泥の除去によって目的とした環境改善が達成されたことから、水俣湾においては適合性が認められる。

 5.水俣湾環境復元事業(水俣湾等堆積汚泥処理事業及びこれに関連する魚介類対策のための総合的事業の総称)の目的のうち、(1)「水俣病」の被害拡大と汚染の湾外への拡散防止、及び(2)好漁場であった水俣湾の漁場としての再生と水俣湾周辺海域の漁業の保護、については前述のとおり達成されたと評価できる。また、(3)港湾や埋立地の活用による地域の活性化、及び(4)「死の海」や「水俣病」の象徴としての水俣市や水俣湾のイメージの回復、については、本事業の一環として新しい大型の港湾施設が整備され地元の経済活動の拡大に寄与しており、また埋立地は一部が公園として整備が進められるなど目的が実現しつつあるといえる。

 6.これらの実証的分析と評価に基づき、水銀によって汚染された海域の環境復元方法として下図のフローを指針として提案した。

図表
審査要旨

 わが国は,戦後めざましい経済発展を遂げたが,それにともなって大気汚染,水質汚濁,騒音などの公害の問題が健在化した.1967年には公害対策基本法が制定されるなど,昭和40年代に入って公害に対する取り組みが行政のレベルでも積極的に進められるようになった.水俣湾の水銀汚染問題は公害の中でも極めて深刻なものの1つであったが,海域環境の復元事業が行われ,水銀濃度の低レベル化を実現するに至っている.本論文は,水銀に汚染された水俣湾における環境復元の経緯を分析したものであり,その技術的内容の妥当性のみならず,住民・関係者とのコミュニケーションの方法についても考察したものである.

 第1章は序論であり,研究の目的および意義を述べている.第2章においては,有機水銀による環境汚染と人体への影響についての既往の研究成果をとりまとめ,水俣病の一般的知見を述べている.続いて第3章においては,水俣湾における水銀汚染と水俣病について,歴史的経緯をとりまとめるとともに,環境復元事業の実施に至った経緯を説明している.

 第4章以降が研究の主要な目的に対応する内容である.まず第4章では環境復元事業における除去基準と除去工法の決定を取り扱っている.水銀を含む底質は水俣湾の内外に広がっているが,この底質をどこまで除去するかを環境復元事業の実施に際して決定する必要がある.これについては,水銀の底質からの溶出,海水中での拡散,魚介類への取り込みにともなう濃縮,そして人体への摂取という4過程に分解し,それぞれを定量的に評価して,さらに安全率を考慮することによって,最終的に底質の除去基準値として25ppmとした.次に,除去工法について,浚渫,埋立,覆土などの検討を行った結果,一部浚渫,一部埋立の工法を採用するに至った.また,二次公害防止のための工法の開発も行われている.以上の検討は合理性・客観性のあるものであり,本研究の主要な成果の一つであると評価される.

 第5章は事業に対する社会的合意形成のためのコミュニケーションについて述べている.工法に関して,法定手続きや地元説明会を越えて裁判に発展し,2年半の工事の中断が起こったが,工事完了後も含めたこの間の地域住民と事業者側とのコミュニケーションについて記述している.これは,この種のコミニュケーションのあり方についての示唆を与えるものである.

 第6章は水俣湾等の汚泥処理事業の実施状況について説明している.仮締切堤の建設,埋立護岸の建設,汚泥浚渫埋立工事の順に施工技術を説明するとともに,余水の処理および埋立土砂の表層処理の方法を抽出して解説している.これは,水銀に汚染された海域の環境復元技術をとりまとめたものとして評価される.また,第7章は事業実施中の環境監視を取り扱っている.環境監視の項目や方法について説明するとともに,監視委員会の設置を含む監視体制にも言及している.監視の結果底質中の水銀濃度が25ppm以下となったことなどが確認され,事業の目的が達成されたことが示された.続く第8章は環境改善の実態の分析と除去基準に関する検討であり,直接測定の定量の下限値以下の海水中水銀濃度を動物プランクトンを用いて推定したり,魚体中の水銀濃度の経年変化モデルを用いて考察し,底質の除去基準として25ppmが一つの目安になり得るものとしている.

 第9章は事業効果の評価であり,それまでに述べた結果から底質除去工法の評価,社会的合意形成手法の評価,および事業による環境復元効果の評価を行っている.また,第10章は水銀によって汚染された海域の復元方法に関し,汚染底質の除去による海域の環境復元事業のフローをとりまとめている.これらは,国内外に同様な問題が発生した場合に有用な情報を与えるものとして評価される.最後に第11章は全体をとりまとめ,結論を述べている.

 以上のごとく,本論文は水俣湾復元事業におけるプロジェクトマネジメントと評価に関する研究をとりまとめたものであり,底質除去と埋立の組み合わせを中心とした工法の計画・実施に関わる技術的問題の解決の目処を示し,さらに事業者と住民等とのコミュニケーションのあり方に関して経験に基づく示唆を行っている.これらはこの問題に対する新たな知見を提供し,同種の問題の解決のために有用な情報となっていると判断される.よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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