秋山氏の論文は、ギリシア・ローマ古典作品とそれをめぐる西洋古典学の諸研究をギリシア教父の「神秘」という統一的視座から予型論的に解釈することによって新古典学を目指すという野心的な提案といえる。というのも、かつてW.イェーガーは、古代世界を貫く精神性を四世紀のギリシア教父ニュッサのグレゴリオスにおいて完成された「パイデイア」(教養、教育の意)と規定し、西洋古典を後4世紀まで通覧するという壮挙を成し遂げた。またO.カーゼルらは古代文化の「秘儀」(mysterion)とキリスト教世界の「神秘」(mysterion)とを関連させ、古代地中海世界を典礼儀礼の視座で統一的に理解しようとした。秋山氏は以上のような西洋古典学的統合的視座に学びつつその限界を包越しようとして、本論文の表題にある「神話」と「神秘」の関連に着目しそれをテーマとしたからである。実際、西洋古典文学は神話伝承文学という性格を濃厚にそなえており、従って本論文の中心的作業は、その神話が神秘に連続し展開することを検証・実証しうるか否かという点にある。それが可能ならば、西洋古典学に新しい統一的視座を獲得しえて秋山氏の目論見は達成されることになる。まさにその神話と神秘の連続性を可能とする解釈的視点として氏は予型論的解釈という古典的解釈法を採用したわけである。 そこで審査委員から「神話」は一応おくとして「神秘」と「予型論」の意味内容に関する質問が提出された。秋山氏によると本来mysterionという言葉には「秘められた」とか「隠された」という意味があったが、キリスト教期に至って積極的意味が付加されたという。第一の意味としてH・ラーナー(教父学者)の指摘するように、「mysterionとは神性の深みにおいて永遠の昔から秘められていた神的で自由な決意であり」受難のキリストにおいて明らかにされた神的救済計画というパウロ的意味があげられる。第二に「神秘」は、広義の「神性、ロゴス、三位一体」などの秘義を意味するとされる。第三に「神秘」は、サクラメント(秘跡)を中心とする祭儀典礼的意味で用いられるという。以上から「神秘」は、初期キリスト教的体験や祭儀の実質をなすキリスト・ロゴス及び三位一体を意味するとされる。 次に氏によると「予型論」は、今日狭義の意味では旧約聖書テキストをその終末論的完成者であるキリスト・ロゴスの新約的視点から解釈し意味づけようとする方法として教父学で用いられている。しかし広義の予型論は、二世紀のギリシア教父アレクサンドレイアのクレメンス自らが、当時「異教]と目された古代ギリシア文学を旧約テキストと同等に扱って、新約的視点から再解釈し直したように、古典的神話(悲劇や叙事詩など)そのものに新約的解釈を施すことを意味する。それをなしえたのは、ヘレニズム以降の普遍的ロゴス論によるが、秋山氏の独創性はこのロゴス論を含意する広義の予型論的視座を採った点にある。 以上のような概念装置をふまえ、氏は次のようなプランに従って「神話」的素材が[神秘]的形相へと予型論的解釈を通して展開する連続性を検証している。 第1章で氏は、まずアリストテレスの『詩学』の研究から、「神話」が語源的にも概念的にも後の「神秘」の前表としての性格をそなえていることを検証している。続いてアリストテレスの悲劇論をふまえギリシア悲劇における神秘的位相を探求する。すなわち、アイスキュロスにあってはエレウシス秘儀の背景を通してオレステス自身の内的変容が、またソフォクレスにあっては光の神アポロンとの関わりにおけるオイディプスの神聖なる存在への変容が明らかにされ、二人の詩人の言語表現が内蔵する神秘への志向が示される。 第2章で氏は、ギリシアの二叙事詩詩人(ホメロス、ヘシオドス)の作品に遡り、「神話」の根底的意義を考究する。すなわち、第1節では、『イリアス』の言葉が聴衆に働きかけるエネルギーの一因が、火神へファイストス像に窺えると結論づけている。第2節では、神話詩人へシオドスにあって、その『神統記』にみられる詩人自身の私的召命記事つまり神話的空間が、詩人が以後創造的言語空間を創っていく際の原体験をなしていることを指摘し、続いて第3節では補論的にローマの叙事詩詩人ウェルギリウスを取り上げている。というのもこの詩人は、『牧歌』第4歌で黄金時代をもたらす嬰児の誕生を歌ったが故に、西欧中世で「異教徒の預言者」と見なされているからである。秋山氏はその国民的叙事詩『アエネイス』のうちにも、間近に挙行される「世紀の祭典」を通して新時代が到来するという再生の期待を指摘し、そのような再生を表現する詩人の言葉は後世の人々にも与りうる祝祭的ロゴス空開であると結論づけている。 以上のように「神話」に伏在する「神秘」への諸要因を示しつつ、第3章で秋山氏は、今日的西洋古典学との関連に示唆を得ようとして旧約新約聖書を「古典」として解釈した教父の精神的位相を問うてゆく。その際氏は、教父が異文化受容をする際、「神秘」(キリスト・ロゴス)を根拠にして古典文献を解釈する精神性に倣って、その精神的位相を自らの基本的立場と規定する。続いてまずニュッサのグレゴリウスにおける旧約の基本的概念「神の像」の考究を始める。そこでは旧約における男・女一対の「神の像」概念が自由意志に裏付けられたロゴス的人格概念に変容してゆくプロセスが示されている。次に氏は証聖者マクシモスの『ヨナ書』の講解をとりあげる。旧約のヨナ文学は、ニネベの共同体的改悛において、典礼的共同体の精神的改悛という新約的神秘を捉えたとされる。以上のようなギリシア教父研究から、神話のもつ神秘への志向性及び古典解釈作業における神秘の要請という二点が結論づけられている。 以上の結論に基づき第4章で秋山氏は、叙事詩・悲劇・哲学の三分野にわたる古典的作品を分析し、氏の立場と目論見の総括をする。まず第1節では、ホメロスの『オデュッセイア』に関するアレクサンドレイアのクレメンス注解がとりあげられる。氏はそこで船上のマストに身を縛るオデュッセウス像を十字架上のイエスに重ね合わすクレメンスの予型論的視点を活かし、死と再生にアクセントをおく『オデュッセイア』解釈を試みる。第2節では、エウリピデスの『バッカイ』をめぐり、生贄(thysia)を強調するクレメンスの理解を通してギリシア悲劇における公共奉供(leitourgia)と後の典礼(leitourgia)との関連が示される。最後に第3節で秋山氏は、一般的に教父に認められている「プラトン主義」を参照しつつ、プラトンの『ファイドロス』神話の神秘への変容を分析する。すなわち『ファイドロス』における魂の天上的イデア観照は、バシレイオスの『ティマイオス』受容を媒介にニュッサのグレゴリオス著『モーセの生涯』におけるモーセの天上界観照の予型となったことが暴かれている。こうしたギリシア教父の予型論は、普遍的ロゴス論の結晶であるキリスト・ロゴスに収斂することが再確認される。 以上が秋山氏によれば、ギリシア・ローマの古典作品を資料・肉とし、教父の神秘概念を形相・魂とし、後者による前者の有機的統一によって古典古代の文学の多様性を「一」に回収(ロゴス)化する「古典学の変容」の提案である。 この提案に対し審査委員から提出された問題点の指摘をまとめると大略以下の4点になる。 第1にアリストテレスの『詩学』においては、「神話」と「神秘」の間の不連続性を考慮しなければならないのではないかという疑問点。第2に教父は予型論のみならず寓喩的解釈(allegoria)をも主要な解釈学としており、殊に「神秘」理解にはこの寓喩的解釈をも用いるべきだという指摘。第3に教父の「神秘」という視座が、W・イエーガーの「パイデイア」以上の普遍的視点たりうるかという問題。第4に将来的にラテン教父をも本格的にとりあげてギリシア・ローマ古典古代の統一的ヴィジョンを練り上げるべきだという要請。 以上の問題点の指摘にも拘わらず審査員一同は、本論文において秋山氏がラテン作品も含めてギリシア古典など膨大な古典資料と必須重要研究を見事に読みこなしたこと、従来全く取り扱われていなかった教父文献とその研究視点を古典学に組み入れたこと、「神話」「神秘」という統一的視座で迫力と説得性をもって全く新しい古典学的展望を一応かち得ていること、しかもそれが現代の他の文芸や思想分野にとっても示唆的で問題提起的であることなど、積極的な評価を下した。 以上のような評価と応答をふまえて、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |