学位論文要旨



No 214395
著者(漢字) 秋山,学
著者(英字)
著者(カナ) アキヤマ,マナブ
標題(和) 神話・神秘・解釈 : 予型論的古典解釈と神秘的変容の諸相
標題(洋)
報告番号 214395
報告番号 乙14395
学位授与日 1999.07.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14395号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 岡部,雄三
 東京大学 教授 山本,巍
 東京大学 助教授 甚野,尚志
内容要旨

 古代地中海世界において、古典古代から古代末期までの基調となる思潮を考えることは、極めて多様な研究対象を含む西洋古典学の研究を統一的視座から遂行する上で重要な課題であろう。この問題は、古典語学の対象となる文献の範囲とも関わり、古典語教育と密接な関係を有する。これまで多くの古典学者たちがこの課題に取り組んできたが、例えばW.イェーガーの場合、古代世界を貫く精神性を「パイデイア」と規定し、紀元後4世紀のギリシア教父ニュッサのグレゴリオスのうちに、古典ギリシア以来の「パイデイア」のキリスト教神学による完成を見た。古代世界の極みを教父時代に置く彼の発想は極めてユニークなものであり、ギリシア教父に関する知識が、東方ギリシアにおける古典作品の写本伝承史を考える際に必須であることを指摘した点でも彼の働きは先駆的であった。

 古典学者イェーガーによるアプローチの他に、0.カーゼルら今世紀のキリスト教神学者たちの中にも同様の問いを立てた人々があった。彼らは総じて、キリスト教世界における「神秘」mysterionの概念が、古代異教文化の「秘儀」mysterionに遡るものであることを実証しようと試みた。特にキリスト教の典礼様式が、地中海世界の諸要素を吸収同化しながら確立されていったことを指摘した点で彼らは功績があった。ただ古典文化史が秘儀の観点のみで尽くされるわけではなく、彼らの発想を古典学の場にそのまま適用することは難しい。以上のような観点から、本稿では教父時代より聖書解釈の一方法となっている「予型論」の視点を参照することを考え、「神秘」の予型として「神話」mythosを対応させる試みを行った。「予型論」とは、旧約聖書解釈に際して終末論的到来者であるイエス・キリストと新約の側から意味づけを行う方法であるが、教父の中には例えば2世紀のギリシア教父アレクサンドリアのクレメンスのように、「異教」とされる古代ギリシア文化のうちに旧約に該当する要因を見いだした者があり、これはわれわれが古典文献に接する際にも参考にしうる姿勢であろう。まず、古典の中で特に神話伝承文学と位置づけられる悲劇および叙事詩作品を例に取り、古典学を統一する視点の確立という問題を据えつつ、「神話」から「神秘」への連続性を検証することが本書前半部の課題となる。

 第1章では、まずアリストテレスの『詩学』に起点を求め、mythosの語誌的分析を発端として、mythosという語彙が語源的にも概念的にも、後のmysterionの前表としての性格を備えていることを検証した。続いてアリストテレスの悲劇論からの連続性において、アイスキュロスとソフォクレスの作品を検証し、彼らの最晩年の作品、すなわち『オレステイア』三部作と『コロノスのオイディプス』を取り上げた。その際、作中登場人物のオレステスとエレウシス秘儀との関係、およびオイディプスとアポロン神との関わりにそれぞれ焦点を当て、主人公の死と再生のテーマを浮かび上がらせることで、二人の詩人の作劇術・言葉の位相を明らかにすることをめざした。アイスキュロスにあってはエレウシス秘儀の背景を通じてのオレステス自身の内的変容、ソフォクレスでは光の神アポロンとの関わりの中で神聖なる存在と化したオイディプスのうちに、二人の詩人の言葉のもつエネルギーの秘密が見いだされると考える。

 第2章では、ジャンル的には時間的に遡るようなかたちで、ギリシアの二叙事詩人(ホメロス、ヘシオドス)における「神話」mythosの意義を考察した。第1節では、『イリアス』の第1巻および第24巻の間に対称性が指摘されながらも歪みが認められる点に注目し、『イリアス』の言葉が聴衆に対して働きかけるエネルギーの一因が、火神へファイストス像のうちに潜んでいるのではないかとの結論を得た。第2節では、神話詩人とは言え私的体験を語るヘシオドスにあって、その『神統記』に見られる詩人の召命記事すなわちmythosの空間が、詩人が以後創造的言語を展開してゆく際の原体験をなしていることを指摘した。続いて第3節では補論的にローマの叙事詩人ウェルギリウスを取り上げた。彼は、黄金時代をもたらす嬰児の誕生を歌った『牧歌』第4歌の故に、西欧中世において「異教徒の預言者」と見なされたが、国民的叙事詩『アエネイス』のうちにも、間近に行われる「世紀の祭典」を通じての新時代の到来への期待を指摘しうる。彼の言葉には浄化・再生のエネルギーが込められており、これはわれわれの与りうる空間として特記できよう。

 以上第1、第2章での考察から、「神話」mythosのうちに伏在する「神秘」mysterionへの諸要因を明らかにしたのに続き、第3章では、いま古典を読むわれわれとの関わりを考えるため、旧新約聖書を「古典」として解釈した教父たちの精神的位相を問うた。彼らは古典文献を解釈するに際し、絶えず根拠としての「神秘」に立ち返ったが、この「解釈」と「神秘」という二要因の相関性をめぐり、まず第1節では、いわゆる「出エジプトの原則」に象徴されるような教父における異文化受容のあり方について、「使用」と「聖化」といった観点から神学史的に論じた。使徒/使徒教父に遡りアウグスティヌスに至るまでの教父神学史を概観する基軸として、異教文化に関わる教養の「使用」ないしロゴスによるその「回収」の理念を挙げることができる。これにトマス・アクィナスの観点を加味しつつ、本書での立場を、基本的にギリシア教父たちを継承するものと規定した。続いて二人のギリシア教父のテキストに基づき、その著作活動特に旧約聖書の釈義行為が秘跡的体験に根ざしたものであることを確認した。まずニュッサのグレゴリオスにあっては、旧約の基本テーマの一つである「神の像」という理念の受容に際して、彼自身の叙階の経験が端緒となり、さらに姉マクリナの死という体験が契機となって、次第にその受容のあり方が深化を呈していることを明らかにした。続いて証聖者マクシモスの場合、『ヨナ書』に沿って行われる異教の都ニネベに向けての共同体としての改悛と帰還の勧告は、彼の典礼や祈りの神学を参照することにより、旧約聖書のテキストそのものの体化ないし「肉」化、すなわち霊的基軸へと言葉が収斂してくるプロセスのうちに捉えられた。

 神話の持つ神秘への指向性、および古典解釈作業における神秘の要請という以上二点の結論に基づき、第4章では、古典を実際に読み解釈するわれわれの地平を照らすことを目指した。そのため、これまでに設定した古典作品の三ジャンル、すなわち叙事詩・悲劇・哲学の中からホメロス(『オデュッセイア』)、エウリピデス(『バッカイ』)、プラトン(『ファイドロス』)を取り上げ、ギリシア教父たちの視点を取り入れつつ、解釈作業のなかで古典を実際に「回収」し、究極的に古典学そのものを変容させることを目標に立てた。まず第1節ではアレクサンドリアのクレメンスを参照しつつ、『オデュッセイア』のなかで船上のマストに身を縛るオデュッセウス像を十字架上のイエスに重ねるクレメンスの予型論的視点を活かし、死と再生にアクセントを置く『オデュッセイア』解釈を試み、ホメロスの言葉をめぐる講読の場を、われわれにとっての再生体験の場とする可能性を探った。第2節では『バッカイ』をめぐり、生贄thysiaという側面にポイントを置くクレメンスの理解を通して、生贄となるペンテウスのディオニュソス化といった側面を照らし出した。これによってギリシア悲劇におけるレイトゥルギア(公共奉仕)すなわちポリス構成員の奉納行為という要因のうちに、後の典礼をも予示する素地が見い出され、その点は特にコロスの言葉に表れることが明らかとなった。最後に第3節では、一般的に教父に認められる「プラトン主義』を参考に、プラトン『ファイドロス』篇の解釈を試みた。ニュッサのグレゴリオス『モーセの生涯』におけるモーセの天上界観照の場面は、兄バシレイオスによる『ティマイオス』受容をも承けて、『ファイドロス』のmythosをmysterionの言語へと変容させるプロセスを提示している。そしてギリシア教父による古典文献の受容と変容の基盤に、総じてロゴス・キリストによるエネルギーの存在が再確認された。

 「旧約」として聖書の一部を構成するイスラエルの歴史には、預言者たちの精神性や、聖なる神に倣う聖性の模範があったが、ギリシアの古典古代期に認められる数々の宗教性は、それらとはかなり趣を異にする場合が多い。だが後にギリシア語が新約記者や教父たちの用いる言語となり、ラテン語もそれに続くことから、逆に原ギリシアに発する古代文化もまた、受肉したロゴスの光にさらされることになる。教父たちは、古典文化と旧新約史の間に断絶と越えがたい相違を感じつつも、彼らの著作活動すなわち古典語による執筆活動の継続そのものによって、質料的位置に置かれていたそれら過去史を回収し聖化していったと言えよう。そこには、それら質料に向けて聖性を溢れさせるロゴスのエネルギーと受肉の神秘mysterionが厳存する。と同時にその回収が可能となるのは、もとより古典文化が本来的にロゴスの許に収斂しうる「随順的可能性」を備えているためである。イェーガーはギリシア教父を「パイデイア」の連続性の下に置いたが、むしろ教父たちが依拠した「神秘」をこそ古代文化を回収する力として措定すべきであろう。伝承史的にも、バシレイオスの後継者と言うべき中世の修道士たちによる写本筆写作業のうちに、古代文化を「神秘」へと収斂させる働きを認めうる。教父の視座、神秘の位相を取り入れることで古典語・古典語史の聖化回収が成立し、古典学はその上に構築されるべきであろう。

審査要旨

 秋山氏の論文は、ギリシア・ローマ古典作品とそれをめぐる西洋古典学の諸研究をギリシア教父の「神秘」という統一的視座から予型論的に解釈することによって新古典学を目指すという野心的な提案といえる。というのも、かつてW.イェーガーは、古代世界を貫く精神性を四世紀のギリシア教父ニュッサのグレゴリオスにおいて完成された「パイデイア」(教養、教育の意)と規定し、西洋古典を後4世紀まで通覧するという壮挙を成し遂げた。またO.カーゼルらは古代文化の「秘儀」(mysterion)とキリスト教世界の「神秘」(mysterion)とを関連させ、古代地中海世界を典礼儀礼の視座で統一的に理解しようとした。秋山氏は以上のような西洋古典学的統合的視座に学びつつその限界を包越しようとして、本論文の表題にある「神話」と「神秘」の関連に着目しそれをテーマとしたからである。実際、西洋古典文学は神話伝承文学という性格を濃厚にそなえており、従って本論文の中心的作業は、その神話が神秘に連続し展開することを検証・実証しうるか否かという点にある。それが可能ならば、西洋古典学に新しい統一的視座を獲得しえて秋山氏の目論見は達成されることになる。まさにその神話と神秘の連続性を可能とする解釈的視点として氏は予型論的解釈という古典的解釈法を採用したわけである。

 そこで審査委員から「神話」は一応おくとして「神秘」と「予型論」の意味内容に関する質問が提出された。秋山氏によると本来mysterionという言葉には「秘められた」とか「隠された」という意味があったが、キリスト教期に至って積極的意味が付加されたという。第一の意味としてH・ラーナー(教父学者)の指摘するように、「mysterionとは神性の深みにおいて永遠の昔から秘められていた神的で自由な決意であり」受難のキリストにおいて明らかにされた神的救済計画というパウロ的意味があげられる。第二に「神秘」は、広義の「神性、ロゴス、三位一体」などの秘義を意味するとされる。第三に「神秘」は、サクラメント(秘跡)を中心とする祭儀典礼的意味で用いられるという。以上から「神秘」は、初期キリスト教的体験や祭儀の実質をなすキリスト・ロゴス及び三位一体を意味するとされる。

 次に氏によると「予型論」は、今日狭義の意味では旧約聖書テキストをその終末論的完成者であるキリスト・ロゴスの新約的視点から解釈し意味づけようとする方法として教父学で用いられている。しかし広義の予型論は、二世紀のギリシア教父アレクサンドレイアのクレメンス自らが、当時「異教]と目された古代ギリシア文学を旧約テキストと同等に扱って、新約的視点から再解釈し直したように、古典的神話(悲劇や叙事詩など)そのものに新約的解釈を施すことを意味する。それをなしえたのは、ヘレニズム以降の普遍的ロゴス論によるが、秋山氏の独創性はこのロゴス論を含意する広義の予型論的視座を採った点にある。

 以上のような概念装置をふまえ、氏は次のようなプランに従って「神話」的素材が[神秘]的形相へと予型論的解釈を通して展開する連続性を検証している。

 第1章で氏は、まずアリストテレスの『詩学』の研究から、「神話」が語源的にも概念的にも後の「神秘」の前表としての性格をそなえていることを検証している。続いてアリストテレスの悲劇論をふまえギリシア悲劇における神秘的位相を探求する。すなわち、アイスキュロスにあってはエレウシス秘儀の背景を通してオレステス自身の内的変容が、またソフォクレスにあっては光の神アポロンとの関わりにおけるオイディプスの神聖なる存在への変容が明らかにされ、二人の詩人の言語表現が内蔵する神秘への志向が示される。

 第2章で氏は、ギリシアの二叙事詩詩人(ホメロス、ヘシオドス)の作品に遡り、「神話」の根底的意義を考究する。すなわち、第1節では、『イリアス』の言葉が聴衆に働きかけるエネルギーの一因が、火神へファイストス像に窺えると結論づけている。第2節では、神話詩人へシオドスにあって、その『神統記』にみられる詩人自身の私的召命記事つまり神話的空間が、詩人が以後創造的言語空間を創っていく際の原体験をなしていることを指摘し、続いて第3節では補論的にローマの叙事詩詩人ウェルギリウスを取り上げている。というのもこの詩人は、『牧歌』第4歌で黄金時代をもたらす嬰児の誕生を歌ったが故に、西欧中世で「異教徒の預言者」と見なされているからである。秋山氏はその国民的叙事詩『アエネイス』のうちにも、間近に挙行される「世紀の祭典」を通して新時代が到来するという再生の期待を指摘し、そのような再生を表現する詩人の言葉は後世の人々にも与りうる祝祭的ロゴス空開であると結論づけている。

 以上のように「神話」に伏在する「神秘」への諸要因を示しつつ、第3章で秋山氏は、今日的西洋古典学との関連に示唆を得ようとして旧約新約聖書を「古典」として解釈した教父の精神的位相を問うてゆく。その際氏は、教父が異文化受容をする際、「神秘」(キリスト・ロゴス)を根拠にして古典文献を解釈する精神性に倣って、その精神的位相を自らの基本的立場と規定する。続いてまずニュッサのグレゴリウスにおける旧約の基本的概念「神の像」の考究を始める。そこでは旧約における男・女一対の「神の像」概念が自由意志に裏付けられたロゴス的人格概念に変容してゆくプロセスが示されている。次に氏は証聖者マクシモスの『ヨナ書』の講解をとりあげる。旧約のヨナ文学は、ニネベの共同体的改悛において、典礼的共同体の精神的改悛という新約的神秘を捉えたとされる。以上のようなギリシア教父研究から、神話のもつ神秘への志向性及び古典解釈作業における神秘の要請という二点が結論づけられている。

 以上の結論に基づき第4章で秋山氏は、叙事詩・悲劇・哲学の三分野にわたる古典的作品を分析し、氏の立場と目論見の総括をする。まず第1節では、ホメロスの『オデュッセイア』に関するアレクサンドレイアのクレメンス注解がとりあげられる。氏はそこで船上のマストに身を縛るオデュッセウス像を十字架上のイエスに重ね合わすクレメンスの予型論的視点を活かし、死と再生にアクセントをおく『オデュッセイア』解釈を試みる。第2節では、エウリピデスの『バッカイ』をめぐり、生贄(thysia)を強調するクレメンスの理解を通してギリシア悲劇における公共奉供(leitourgia)と後の典礼(leitourgia)との関連が示される。最後に第3節で秋山氏は、一般的に教父に認められている「プラトン主義」を参照しつつ、プラトンの『ファイドロス』神話の神秘への変容を分析する。すなわち『ファイドロス』における魂の天上的イデア観照は、バシレイオスの『ティマイオス』受容を媒介にニュッサのグレゴリオス著『モーセの生涯』におけるモーセの天上界観照の予型となったことが暴かれている。こうしたギリシア教父の予型論は、普遍的ロゴス論の結晶であるキリスト・ロゴスに収斂することが再確認される。

 以上が秋山氏によれば、ギリシア・ローマの古典作品を資料・肉とし、教父の神秘概念を形相・魂とし、後者による前者の有機的統一によって古典古代の文学の多様性を「一」に回収(ロゴス)化する「古典学の変容」の提案である。

 この提案に対し審査委員から提出された問題点の指摘をまとめると大略以下の4点になる。

 第1にアリストテレスの『詩学』においては、「神話」と「神秘」の間の不連続性を考慮しなければならないのではないかという疑問点。第2に教父は予型論のみならず寓喩的解釈(allegoria)をも主要な解釈学としており、殊に「神秘」理解にはこの寓喩的解釈をも用いるべきだという指摘。第3に教父の「神秘」という視座が、W・イエーガーの「パイデイア」以上の普遍的視点たりうるかという問題。第4に将来的にラテン教父をも本格的にとりあげてギリシア・ローマ古典古代の統一的ヴィジョンを練り上げるべきだという要請。

 以上の問題点の指摘にも拘わらず審査員一同は、本論文において秋山氏がラテン作品も含めてギリシア古典など膨大な古典資料と必須重要研究を見事に読みこなしたこと、従来全く取り扱われていなかった教父文献とその研究視点を古典学に組み入れたこと、「神話」「神秘」という統一的視座で迫力と説得性をもって全く新しい古典学的展望を一応かち得ていること、しかもそれが現代の他の文芸や思想分野にとっても示唆的で問題提起的であることなど、積極的な評価を下した。

 以上のような評価と応答をふまえて、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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