緒言 健康診断をより合理的に行うための1つの方法として、多次元情報の処理方法であるマハラノビスの距離の応用が提案されている。この提案とは、医師が判定した正常人の集団を特徴付けるものさしを作り、ものさしの目盛りとしてマハラノビスの距離を用いる方法である。 著者はマハラノビスの距離を集団健康診断に応用し、直交表を用いて要因項目を取捨選択する方法により総合判定の信頼性を向上させる研究を行ってきた。マハラノビスの距離を用いた健康診断において、総合判定の信頼性向上のために、直交表を用いて要因項目を取捨選択し、かつ項目選択の結果をROC曲線で評価した先行研究は、現在のところ見当たらない。 また、マハラノビスの距離を集団健康診断へ応用した先行研究ではスクリーニングが目的であり、予防医学的見地から、個人の健康状態のモニタリングを行った研究は見当たらない。 そこで、本研究では、マハラノビスの距離を用いた健康診断における総合判定の信頼性向上を主要な目的として検討を行い、さらにマハラノビスの距離を個人の健康状態のモニタリングに用いることについても検討を行った。 方法 本研究の対象データは、1992年4月から1995年3月までの3年間に、A社2事業所の40歳以上の定期健康診断データ4,867件のうち、男性で、かつ検査項目において欠測値のないもの1,276件とした。年齢の平均(SD)は48.8(5.6)歳であった。 健康診断の総合判定は「A1:異常なし」、「A2:有所見健康」、「B1:要経過観察」、「B2:経過観察中」、「C1:要治療」、「C2:治療中」、「G1:要再検査」、および「G2:要精密検査」の8段階に分類されている。 本研究においては、「正常人」を総合判定がA1またはA2であった人と定義し、311件(24.4%)が該当した。一方、「異常人」を総合判定がC1またはC2であった人と定義し、213件(16.7%)が該当した。 まず、血液検査項目のうち、分散が大きいとみられる項目に対して、分散安定化のための対数変換を施す。また、対象データは3年間分のデータで、同一人のデータが2回または3回含まれることがあるため、一元配置の分散分析により、個人データの繰り返しによる影響について検証を行う。 次に,正常人のデータから、血液検査25項目、尿検査3項目と肥満度(BMI)の計29項目を用いてマハラノビス空間の作成を行う。できるだけ少ない項目で信頼性の高い総合判定を行うために、上記の要因項目を2水準系の直交表に割り付け、望大特性のSN比で項目選択を行う。また、ROC曲線により、項目選択を行った場合と全29項目を用いた場合との識別力の比較を行う。労働安全衛生法により定期健康診断で義務づけられている血液検査9項目のみを用いた場合についても比較の対象とする。 結果 一元配置の分散分析の結果、いずれの血液検査項目においても、個人内変動に比べ個人間変動が有意であり、同一人データの繰り返しを含むことは望ましいことではないといえる。 正常人の集団におけるマハラノビスの距離は、平均値(SD)が1.0(0.6)で、最大値が7.4であった。一方、異常人の集団におけるマハラノビスの距離は、平均値(SD)が5.0(8.5)で、10.0以上のケースが21件あり、最大値は66.9であった。このことから、異常人の集団は、ヘテロジニアスな集団であるといえる。 要因項目を取捨選択するために、直交表を用い、望大特性のSN比による検討を行った。全29項目を用いた場合のSN比は4.02dbであった。 各項目の有用性を評価するために作成した要因効果図から、-GTP、TC、FBSの効果が特に大きく、健康診断の総合判定を行う上で、重要な検査項目であるといえる。また、肥満度も効果が正で、有用な項目であるといえる。一方、ALP、2-GL、Hct、尿検査3項目は効果が負になり、有用な項目ではないと考えられる。 直交表による項目選択の結果、すなわち、ALT、-GTP、LDH、TB、TTT、TP、Alb、-G1、TC、TG、HDL-C、Cr、FBS、UA、WBC、RBC、Hb、AMY、BMIの19項目を取り上げた場合は、SN比が、対象とした全29項目を用いた場合よりも0.40db向上した。ROC曲線からも、項目選択を行った場合の方が、全29項目を用いた場合よりも左上方に位置し、識別力が優位にあることが確認された。(図1) 図1 ROC曲線による識別力の比較注)case0:全29項目を用いた場合 case6:項目選択による19項目を用いた場合 case9:労働安全衛生法による必須9項目を用いた場合 労働安全衛生法により定期健康診断で義務づけられている血液検査9項目のみを用いた場合のSN比は、検討したケースのなかで一番小さく、識別力が劣位となった。 また、マハラノビスの距離を個人の健康状態のモニタリングに用いることについて、被検者のうち総合判定の変化が顕著であった7名について、マハラノビスの距離と総合判定を時系列で示し、両者の推移が、概ね連動していることが確認できた。 考察 従来、医師の判定をゴールドスタンダードとすることにより発生する判定のバラツキが問題にされてきた。しかし、近年、コンピュータによる判定支援システムの導入により、判定のバラツキが低減される傾向にあると考えられる。 マハラノビス空間の計算の対象となる、同一人の繰り返しを含まない正常人の例数としては、200以上あれば、ある程度の精度が確保できると考えられる。サンプルに同一人の繰り返しを含むことは、方法論、すなわち、変数選択の結果には大きな影響を与えないと推察される。 A社においては、血液検査と尿検査の両方が行われていたので、尿検査の価値が相対的に大きくなかったと考えられる。実際には、尿検査は重要であるから、血液検査と照らし合わせて見る必要がある。 問診項目を追加してマハラノビスの距離を計算することによりSN比が大きくなり識別力を改善させることができた。今後、問診項目の国際標準準拠について検討していく必要がある。 結論 結論として、直交表を用いた、SN比による項目選択の方法は、総合判定の信頼性向上に有効である、ということが判明した。 本研究の意義は、直交表を用いた項目選択により、健康診断の総合判定の信頼性を向上させることができること、さらに、マハラノビスの距離は、予防医学的見地から個人の健康の動きのモニタリングとして有効であることを解明した点にある。 本研究の結果は健康診断の合理化、すなわち、過剰な精密検査の減少による医療費の削減、受診者の時間や経済的負担の減少、受診者の不安の減少に寄与し、また、医師、保健婦、看護婦らの健康指導の支援、および研究に寄与するものである。 マハラノビスの距離の応用は健康診断だけでなく、広範に保健・医療の分野における総合的な判定についても示唆を与え、貢献できるものである。 |