学位論文要旨



No 214411
著者(漢字) 菊地,和弘
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,カズヒロ
標題(和) ブタ卵エイジングの人為的修飾に関する研究
標題(洋)
報告番号 214411
報告番号 乙14411
学位授与日 1999.09.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14411号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 勝木,元也
 東京大学 助教授 青木,不学
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨

 哺乳動物の卵巣内の卵母細胞(以下、卵)は、第一減数分裂前期で静止した、いわゆる未成熟の状態で存在するが、性成熟に達しLHサージを受けることにより、あるいは卵を体外で培養することにより、減数分裂を再開させることが可能である。いずれの場合も卵は第二減数分裂中期にまで達し、いわゆる成熟卵となって減数分裂は再び静止する。成熟卵は精子の侵入や、類似の刺激を受けると減数分裂が再開され、これを卵の活性化と呼ぶ。成熟卵は活性化されるまで核相は第二減数分裂中期に静止し、いかなる発生も進展しないが、卵の細胞質の方は徐々に変化してると考えられている。例えば、生存性や受精能力の低下、卵の活性化能の上昇、活性化後のフラグメンテーション(無核小割球を含む不等分裂)発生率の上昇といった変化が培養期間が長引くにつれて起こることが知られている。この現象は卵のエイジングとよばれ、このような卵はエイジング卵と定義されている。しかし現在までエイジングがいかなる卵細胞内の変化に起因しているのかという報告は無い。近年の発生工学や生殖医療技術の進展により、体外成熟卵を利用する機会が増えてきた。この場合体外で卵を操作するが、前述のようなエイジングの問題が生じ、成功の可否あるいはその効率を制限している。エイジングの持つ悪影響を回避するため、卵の操作には厳格な時間的な制約が強いられている。成熟卵のエイジングを制御できれば、時間的な束縛から開放されるとともにレシーピエントとしての質を高めることが可能となり、さまざまな技術の向上が加速するものと期待できる。そのためにもエイジングの発現機構を分子レベルで明らかにすることは有意義である。以上のような観点から、本研究ではブタ卵を材料に用い、エイジングを引き起こす卵細胞質内の分子機構の一端を明らかにすることを目的とした。さらに人為的にエイジングを制御し得るかを検討した。

 第一章では、エイジングに伴って卵にどのような生物学的変化が起こるかを確認した。本体外成熟培養系において、ブタ卵は培養開始後30時間より成熟卵が出現し36時間から72時間までその割合は一定(約70%)であった。この間、成熟卵はその細胞周期の進行をとめ、また退行性の変化も見られないことが確認された。従って、この期間中に卵細胞質内に起こる変化は、エイジングの変化と捕らえることができる。培養開始後36、48、60ならびに72時間後の第一極体が観察された成熟卵に電気刺激を与え活性化を誘起したところ、活性化卵の割合は36時間培養の卵では低かったが、培養時間が長くなるに連れ有意に上昇した。72時間培養卵の活性化を誘起した場合では高い割合でフラグメンテーションが観察された。以上のことから、本培養系でも培養時間を延長することにより、活性化率とフラグメンテーション率の上昇が確認され、これまで報告されたエイジングの現象が起こっていると考えられた。さて、エイジング卵においては活性化が起こり易いという事実が確認されたが、卵の活性化とはM期に静止している卵がM期から脱出することに他ならない。そこで次に全ての真核細胞においてM期を制御する因子であるMPF活性に注目し、この活性をヒストンH1リン酸化活性(Hlk活性)として測定した。その結果、未成熟卵ではこの活性が低く成熟卵では有意に高くなり、MPFがM期を誘導するという概念が再確認された。エイジング卵においては核相は第二減数分裂中期に静止しているにもかかわらず、培養時間の経過とともに徐々にその活性は低下することが明らかとなり、これがエイジング卵の活性化の起こり易さの原因となっていると考えられた。以上より、エイジング卵では活性化が起こり易くなること、フラグメンテーションの率が上昇することに加え、卵細胞質内の分子レベルの変化としてMPF活性が徐々に低下してくることが初めて明らかとなった。

 第二章では、エイジング卵にみられたMPFの不活化がどのようなメカニズムで起こっているのかを、精子侵入後の活性化卵のMPF不活化の場合と比較検討しながら明らかにしようとした。一般にMPF活性は調節サブユニットであるサイクリンBの合成・分解と、触媒サブユニットのp34cdc2に存在する抑制性のリン酸化部位(14番スレオニン:T14、15番チロシン:Y15)により制御されている。すなわち、単体のp34cdc2は不活性でMPF活性発現にはサイクリンBとの結合が前提条件となる。サイクリンB結合型p34cdc2は、T14,Y15のリン酸化酵素活性と、脱リン酸化酵素活性のバランスによりこの部位のリン酸化の割合が決定されており、T14,Y15がリン酸化されると不活性のいわゆるpre-MPFとなり、脱リン酸化されると活性型MPFとなる。今回はウエスタンブロットによりpre-MPF量を、またHlk活性より活性型MPF量を測定し、p34cdc2の状態の変化を検出することとした。48時間培養した卵(若齢卵)を媒精後、時間の経過とともに順次サンプリングして調べた結果、精子侵入は媒精3時間後より見られ、時間とともに増加した。精子侵入に伴いpre-MPF量がまず減少し、媒精5時間後からHlk活性も低下しはじめその後10時間まで減少した。以上より、精子侵入による活性化卵ではpre-MPF量がまず減少し、引き続き活性型MPF量も低下しており、他の動物種で示されているサイクリンBの分解によることがブタ卵においても確認された。一方エイジング卵では、培養時間の経過によるHlk活性の低下に伴いpre-MPF量が次第に増加していた。この結果から、エイジングにおけるMPFの不活化は、p34cdc2のTl4,Y15のリン酸化が亢進し不活化型のpre-MPFが蓄積されることにより引き起こされるものと考えられた。したがって、卵の活性化によるもの(サイクリンBの分解)とは異なる機構によることが明らかとなった。

 第三章では、p34cdc2のリン酸化状態を人為的に操作すことでMPF活性を人為的に制御し得るかどうかをまず調べ、さらにそれらの制御卵でエイジングの発現が変化するかどうかを活性化の起こりやすさと、活性化誘起時のフラグメンテーション率を指標として検討した。p34cdc2のリン酸化状態を変化させる試薬として、チロシン脱リン酸化阻害剤のバナデイト、および逆に、pre-MPFの脱リン酸化を活性化すると報告されるカフェインを用いて卵子を処理した。その結果、若齢卵のバナデイト1時間処理によりp34cdc2のリン酸化型すなわちpre-MPFの蓄積が見られHlk活性が減少し、エイジング卵と類似の状態が再現された。逆に60時間培養したエイジング卵のカフェイン10時間処理では、p34cdc2が脱リン酸化されHlk活性が高値に維持されていた。以上よりバナデイトならびにカフェイン処理により、人為的にMPF活性を制御し得ることが示唆された。次にこれらの卵のエイジング状態を調べたところ、バナデイト処理では自発的活性化率およびフラグメンテーション率が増加し、エイジング卵に近い状態になっていることが示唆された。一方、カフェイン処理では、自発的活性化率およびフラグメンテーション率が有意に減少しており、より若齢卵に近い状態になっていることが示唆された。以上のことから、ブタのエイジング卵ではpre-MPFの蓄積によるMPFの不活化が活性化率の上昇とフラグメンテーションの発生に深く関与することが示唆され、バナデイトやカフェインを 使ってp34cdc2のリン酸化状態を人為的に操作することで、上記のエイジング状態はある程度制御され得ることが明らかとなった。

 本研究成果から、哺乳動物卵においてエイジングに伴う細胞質内の分子レベルの変化の一端としてMPF活性の変化が明らかにされた。また少なくともエイジングの一部は、この活性の人為的操作により制御がある程度可能であることが示された。近年、哺乳動物の体内成熟卵あるいは体外成熟卵は、広く利用されるようになつており、エイジング制御の可能性はこれら領域において多くの恩恵をもたらすものと考えられる。これまでにエイジングの制御を成功させた研究はなく、本研究がその第一歩であると考えられる。本研究で得られた知見を、今後はこのような技術において個別に応用し、胚発生率を含めてその効果を見極めることが必要である。合わせて安全性についても検討することが重要であると考えられる。

審査要旨

 哺乳動物の成熟卵は、精子の侵入や類似の刺激により、いわゆる卵の活性化を起こすまでは、第二減数分裂中期で減数分裂は静止している。この間卵の細胞質は徐々に変化しており、生存性や受精能力の低下、卵の活性化能の上昇、無核小割球を含む不等分裂であるフラグメンテーション発生率の上昇などの変化が報告されている。この現象は卵のエイジングとよばれ、このような卵はエイジング卵と定義されている。しかし現在までエイジングがいかなる卵細胞内の変化に起因しているのかは不明である。

 本論文はブタ卵を材料に用い、エイジングを引き起こす卵細胞質内の分子機構の一端を明らかにするとともに、得られた結果をもとに人為的にエイジングを制御し得るかどうかを検討したものである。本論文は序論、3章からなる本論、および総括から構成されており、要約すると以下の通りである。

 第一章では、用いた体外成熟培養系においてエイジングに伴ってブタ卵にどのような生物学的変化が起こるかを確認している。先ず、培養開始後36時間から72時間まで成熟卵の割合は一定(約70%)であること、この間、成熟卵は細胞周期の進行をとめ、退行性の変化も見られないことを確認し、卵細胞質内に起こる変化がエイジングの変化であることを示している。つぎに、36から72時間培養後の成熟卵に活性化を誘起し、活性化率が36時間培養卵では低く培養時間が長引くにつれ有意に上昇すること、72時間培養卵では高い割合でフラグメンテーションが観察されることを示し、本培養系でも従来知られているエイジングの変化を確認している。さらに、卵の活性化を細胞周期のM期からの脱出ととらえ、全ての真核細胞においてM期を制御する因子であるMPF活性に注目し、これをヒストンHlリン酸化活性(Hlk活性)として測定している。その結果、エイジング卵においては核相は第二減数分裂中期に静止しているにもかかわらず、培養時間の経過とともに徐々にその活性が低下することを初めて明らかにし、これがエイジング卵の活性化の起こり易さの原因であることを示唆している。

 第二章では、エイジング卵にみられたMPF活性低下のメカニズムを、精子侵入後の活性化卵のMPF不活化の場合と比較している。その結果、精子侵入後の卵活性化は,MPFの活性制御サブユニットであるサイクリンBの分解に起因していることがブタ卵においても確認した。一方、エイジング卵では、卵の活性化の場合と異なり,培養時間の経過に伴いHlk活性が低下し、リン酸化型の不活性MPFであるpre-MPF量が次第に増加していることを認めた。この結果は、MPF活性の低下がp34cdc2の抑制性リン酸化の亢進に起因していることを示唆している。

 第三章では、p4cdc2のリン酸化状態に影響する試薬でブタ卵のMPF活性を人為的に制御することによりエイジングの発現を制御し得るかを検討している。先ずp34cdc2のリン酸化状態を変化させる試薬として、チロシン脱リン酸化阻害剤のバナデイト、およびpre-MPFの脱リン酸化を促進するとされるカフェインを用いて卵子を処理している。その結果、前者により若齢卵のP34cdc2のリン酸化の亢進とHlk活性の減少というエイジング卵と類似の現象が再現された。後者では、p34cdc2が脱リン酸化されHlk活性が高値に維持されるというエイジングを解消する変化を示し、これらの処理により人為的にMPF活性を制御し得ることを示唆している。つぎに、MPF活性を制御することでこれらの卵のエイジング状態を変化させ得るかを調べている。バナデイト処理では自発的活性化率およびフラグメンテーション率が増加し,エイジング卵に近い状態にあること,一方、カフェイン処理では、自発的活性化率およびフラグメンテーション率が有意に減少し、より若齢卵に近い状態にあることを示唆している。以上より、エイジング卵に起こるMPF活性の低下は、卵の活性化の起こりやすさに加え、フラグメンテーション率の上昇にも関与し、エイジングを引き起こす原因の1つであることを明確に示している。さらに本章の結果から、エイジングの一部が人為的にある程度制御可能であることを示唆している。

 以上、本論文は哺乳動物卵のエイジングに伴う細胞質における分子レベルの変化を調べ、MPF活性が変化していることを初めて明らかにした。また、エイジングの一部は、MPF活性の人為的操作によりある程度の制御が可能であることを示し、農学学術上貢献するところが少なくない。

 よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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