学位論文要旨



No 214413
著者(漢字) 坪井,孝益
著者(英字)
著者(カナ) ツボイ,タカミツ
標題(和) 牛ウイルス性下痢ウイルス持続感染雌牛の垂直感染機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 214413
報告番号 乙14413
学位授与日 1999.09.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14413号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 助教授 甲斐,知恵子
内容要旨

 牛ウイルス性下痢(Bovine viral diarrhea,BVD)ウイルスはフラビウイルス科のペスチウイルス属に分類され、大きさは40〜60nmでエンベロープを保有する。ゲノムは約12Kbのプラス鎖-本鎖RNAからなる。本ウイルスには細胞病原性(Cytopathogenic,CP)型と非細胞病原性,(Noncytopathogenic,NCP)型の2つの生物型が存在することが知られている。NCP BVDウイルスが妊娠牛に感染した場合,流産、死産、奇形等の先天性異常子牛の出産を引き起こすが、その病態は妊娠中の感染時期により異なることが知られている。すなわち妊娠前期(90日以前)での感染では流死産を引き起こし、流死産を免れた場合には免疫寛容が誘導され,ウイルスを体内に保持した持続感染牛の出産が認められる。持続感染牛となった子牛の半数が生後1年以内に死亡し,残り半数は順調に発育を続け、終生体内にウイルスを保持する。生存した持続感染牛は発育不良等で摘発される場合もあるが,一見したところ健康牛と全く鑑別できない個体も存在する。さらに持続感染雌牛が妊娠すると再び持続感染牛を出産することが知られており,持続感染雌牛では垂直感染が容易に成立すると考えられている。一方,牛の胚移植は畜産振興の上で不可欠な技術として推進されているが,この胚移植技術を利用しBVDウィルス持続感染雌牛由来初期胚に関する重要な研究がなされた。すなわち、正常雄牛の精子を人工授精された持続感染雌牛より採取した胚盤胞(透明帯有り)を他の正常雌牛に移植したところ,生まれた子牛のいずれにもウィルス血症を認めず正常子牛であったことが報告された。このことから持続感染雌牛の卵胞内卵子にはBVDウイルスが存在しない可能性が示唆され,持続感染雌牛における垂直感染は感染卵子に起因しないことが考えられる。そこで本研究ではBVDウイルス持続感染雌牛における垂直感染機構の解明を目指し,特に生殖細胞や初期胚および生殖器組織へのBVDウイルス関与について試験管内および生体内の両面から究明し,以下の成績を得た。

 第一章ではNCP BVDウイルスを実験的に正常雌牛由来卵胞上皮細胞付着卵子に曝露し,試験管内受精系での卵子成熟,受精,初期胚発生への影響を検討した。その結果,ウイルス曝露群と非曝露の対照群との間に卵子成熟の膨化現象,卵子核相の第二成熟分裂の相違は認められず,受精後の胚発生率も非曝露の対照群と有意差はなく胚盤胞への発生が観察された。またNCP BVDウイルスは卵胞上皮細胞で増殖し,104〜108TCID50/0.25mlの力価で培養液中に存在した。しかし,BVDウイルスは試験管内受精系の卵子成熟,初期胚発生の過程に対し影響を与えないことが明らかになった。卵胞上皮細胞でのウイルスの増殖性は37℃よりも子宮内温度に近い39℃で高かった。培養10日目(最終日)の初期胚(透明帯有り)からのウイルス分離では,低力価の101.5〜102.7TCID50/全初期胚(0.25mlドロップ液中に約20個前後の胚を含む)を示した。これらの結果から,BVDウイルスが試験管内受精系における初期胚(透明帯有り)の周囲に存在しても,本ウイルスは初期胚には感染せず,初期胚の透明帯に付着する可能性が示唆された。

 第二章ではウイルス学的および病理学的検査によりBVDウイルス持続感染雌牛2頭におけるウイルスの存在状態を生殖器組織を中心に検討した。その結果,生殖器組織を含めたすべての組織からウイルスが分離され,卵巣内の卵胞液や卵胞上皮細胞からは高力価のウイルスが検出された。また間接蛍光抗体法により,卵胞上皮細胞,卵管上皮細胞,子宮内膜上皮細胞,子宮腺上皮細胞の細胞質にBVDウイルスに特異な蛍光像が認められた。さらに,持続感染雌牛由来卵子を用いて試験管内で初期胚を作製し,初期胚からのウイルス分離を試みた。その結果,初期胚からのウイルス分離は陰性であったが,卵子周囲に付着している卵胞上皮細胞からウイルスが分離され,持続感染雌牛由来卵子の試験管内での胚発生の過程でBVDウイルスがその上皮細胞内で増殖していることが明らかになった。卵胞上皮細胞は持続感染雌牛におけるNCP BVDウイルスの増殖部位の一つと考えられ,電子顕微鏡学的観察を行ったがウイルス粒子は検出できなかった。加えて別の持続感染雌牛2頭に過排卵処理,人工授精を行い,その7日後子宮内潅流により初期胚を採取した。採取した個々の初期胚および未受精卵子についてポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法により,BVDウイルス遺伝子の検出を試みるとともに,潅流液と子宮頸管粘液からのウイルス分離を行った。その結果,潅流液と頸管粘液からのウイルス分離はすべて陽性であった。一方,PCR法でBVDウイルス遺伝子が検出されたのは17例中持続感染雌牛No.1由来のAランクに分類された後期桑実胚と初期胚盤胞の2例にすぎず,残りの15個は陰性であった。これらの結果から,持続感染雌牛体内でも,卵子成熟,受精,初期胚発生の過程にNCP BVDウイルスが存在する可能性が考えられ,さらに持続感染雌牛より初期胚を採取する際はBVDウイルスに曝される危険性があると考えられた。しかし卵子自体あるいは初期胚自体(透明帯有り)へのBVDウイルス感染は起こりにくいことが推察され,持続感染雌牛体内に清浄な卵子または初期胚が存在すると考えられた。

 第三章では初期胚の出発点である2細胞期,4細胞期の胚細胞のBVDウイルスに対する感受性について,透明帯を除去した2または4細胞期胚を作製し,その胚細胞にBVDウイルスを直接曝露し検討した。すなわち試験管内で2細胞期胚(少数の4細胞期胚を含む)を作製後,プロナーゼ処理により透明帯を除去し,裸化胚を準備した。次にこれらの裸化胚(約40個の群)をBVDウイルスに曝露・洗浄後,24時間培養し間接蛍光抗体法および培養液,胚細胞からのウイルス分離を行った。その結果,特異な蛍光像は認められず,培養液および胚細胞からのウイルス分離も陰性であった。一方,透明帯から脱出しな胚盤胞のBVDウイルスに対する感受性について,試験管内の発生培養を継続し作製した脱出胚盤胞4個を1例としてBVDウイルスに曝露し,洗浄後24時間培養して検討した。その結果,間接蛍光抗体法によるウイルス抗原の検出では検査したすべての胚細胞の一部の細胞質に蛍光像が認められた。また24時間後の培養液からのウイルス分離では曝露群の4例全例が陽性になった。さらに24時間後の胚細胞からのウイルス分離では曝露群で2/4が陽性となった。これらの結果から初期胚の最初の段階である2細胞期や4細胞期の胚細胞ではウイルス感受性の欠除が認められるが,その後胚発生が進行し,胚盤胞となり,さらに透明帯より脱出した胚盤胞の胚細胞の中には感受性をもつ細胞が出現する可能性が示唆された。

 以上の実験成績から,BVDウイルス持続感染雌牛の生殖器組織における卵胞上皮細胞,卵管上皮細胞,子宮内膜上皮細胞,子宮腺上皮細胞にはBVDウイルスが感染し,その増殖部位であると考えられた。したがって,BVDウイルス持続感染雌牛体内での卵子形成,卵子成熟,受精,初期胚発生の過程において,未成熟卵子や成熟卵子,あるいは初期胚(透明帯有り)はその周囲に存在する本ウイルスによって絶えず曝されていると考えられた。しかし,BVDウイルス持続感染雌牛由来の卵子自体には清浄なものが存在するとともに受精後の透明帯を保持した初期胚は感染していない可能性が考えられた。この原因の一つとして胚細胞の感受性の欠如が関与するかもしれない。そして子宮内に着床する脱出胚盤胞以降の胚細胞の一部にBVDウイルスが感染し,垂直感染がこの時期以降に初めて引き起こされている可能性が示唆された。

審査要旨

 非細胞病原性(Noncytopathogenic,NCP)の牛ウイルス性下痢(Bovine viral diarrhea BVD)ウイルスが牛の妊娠前期(90日以前)に感染すると持続感染牛の出産が認められる。この約半数は順調に発育を続け,体内にウイルスを保持した持続感染牛となり,さらにこの持続感染雌牛は再び持続感染牛を出産することが知られている。一方持続感染雌牛より採取した胚盤胞(透明帯有り)を他の正常雌牛に移植したところ,出産に至った子牛はウイルス血症を認めず正常であったことが報告されている。そこで本研究ではBVDウイルス持続感染雌牛における垂直感染機構の解明を目指し,特に生殖細胞や初期胚および生殖器組織へのBVDウイルスの関与について試験管内と生体内の両面から究明した。

 第一章ではNCP BVDウイルスを実験的に卵胞上皮細胞付着牛卵子に曝露し,試験管内受精系での卵子成熟,受精,初期胚発生への影響を調べたところ,卵子成熟の膨化現象,卵子核相の第二成熟分裂の確認において対照群との相違は認められず,受精後の胚発生率も未処理の対照群と有意差はなく胚盤胞への発生が認められることを発生学的手法を用いて実験的に証明した。一方,ウィルスは卵胞上皮細胞に対し高い増殖性を示し、高力価のウィルスが卵子成熟、初期胚発生の過程における培養液中に存在することを明らかにした。

 第二章ではBVDウイルス持続感染雌牛における本ウイルスの存在について検討し,生体内におけるNCP BVDウイルスと生殖器組織との関係を明確にした。すなわち生殖器組織を含めたすべての臓器からウイルスが分離されるとともに,卵巣内の卵胞液や卵胞上皮細胞からは高力価でウイルスが分離された。また特異的な卵胞上皮細胞,卵管上皮細胞,子宮内膜上皮細胞,子宮腺上皮細胞の細胞質において特異的蛍光像が認められた。さらに持続感染牛由来卵子を用いて試験管内で初期胚を作製し,その初期胚からのウイルス分離を試みた。その結果は陰性となったが,卵子周囲に付着している卵胞上皮細胞からはBVDウイルスが分離され,持続感染牛由来卵子の試験管内での胚発生の過程で本ウイルスが増殖していることが明らかになった。加えてBVDウイルス持続感染雌牛に過排卵処理,人工授精を行い,その7日後に非外科的に初期胚または未受精卵子を採取した。この過程で採取される潅流液の上清および沈渣,頸管粘液からのウイルス分離を試みるとともに、採取したすべての初期胚および未受精卵子からポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法によるBVDウイルス遺伝子の検出を試みた。その結果,持続感染雌牛から採取された潅流派および子宮頸管粘液の全例からウイルスが分離された。一方,初期胚および末受精卵子の検査では,17例のうち後期桑実胚および初期胚盤胞の2例のみBVDウイルス遺伝子が検出された。

 第三章では初期胚の出発点である2細胞期,4細胞期の胚細胞のBVDウイルスに対する感受性について,透明帯を除去した2または4細胞期胚を作製し,その胚細胞にBVDウイルスを直接曝露し、間接蛍光抗体法およびウィルス分離により検討した。その結果,明瞭な蛍光像は認められず,培養液および胚細胞からウイルスは分離できなかった。一方,着想前となる透明帯から脱出した胚盤胞では、間接蛍光抗体法によるウイルス抗原の検出では検査したすべての胚細胞の一部の細胞質に特異的な蛍光像が認められた。加えて24時間後のそれらの培養液からのウイルス分離を行ったところ曝露群では4例全例陽性になった。さらに24時間後の胚細胞からのウイルス分離では曝露群で2/4が陽性を示した。

 以上の成績からBVDウイルス持続感染雌牛の生殖器組織における卵胞上皮細胞,卵管上皮細胞,子宮内膜上皮細胞,子宮腺上皮細胞にはBVDウイルスが感染し,その増殖部位であると考えられた。したがって,BVDウイルス持続感染雌牛体内での卵子形成,卵子成熟,受精,初期胚発生の過程において,未成熟卵子や成熟卵子,あるいは初期胚(透明帯有り)はその周囲の細胞に存在する本ウイルスによって絶えず曝されていると考えられた。しかし本牛由来の卵子自体には清浄なものが存在するとともに受精後の透明帯を保持した初期胚は感染していない可能性が考えられた。この原因の一つとして胚細胞の感受性の欠如が関与するかもしれない。そして子宮内に着床する脱出胚盤胞以降の胚細胞の一部にBVDウイルスが感染し,垂直感染がこの時期に初めて引き起こされる可能性が示唆された。

 以上、本論文はBVDウィルス持続感染牛における垂直感染機構の解明を行ったもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)論文として価値あるものと認めた。

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