学位論文要旨



No 214422
著者(漢字) 小嶋,知幸
著者(英字)
著者(カナ) コジマ,トモユキ
標題(和) 失語症者における単語の聴覚的意味判断能力の障害について : 事象関連電位(N400)を用いた検討
標題(洋)
報告番号 214422
報告番号 乙14422
学位授与日 1999.09.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14422号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江藤,文夫
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 助教授 今泉,敏
 東京大学 講師 石橋,敏夫
内容要旨 研究目的

 ヒトの大脳内での単語の認知は、直前にその単語と意味的に関連のある単語が呈示された場合は、直前に関連のない単語や非単語が呈示された場合に比べ、速く正確に認知されことが知られている。

 この意味的プライミング効果は、ある単語が呈示されると、その単語と意味的に関連のある複数の単語に関する記憶が活性化することによって生じるとされている。

 1980年にKutasとHillyardが、文章の最後の単語が意味的に逸脱している場合、その単語の呈示後約400msecに頂点を持つ陰性の電位(N400)が、ヒトの頭皮上から誘発されることを報告して以来、誘発電位(ERP)を指標とする、文中の意味的プライミング効果に関する研究が行われるようになった。

 N400を指標とすることで、大脳損傷に起因する失語症における言語情報処理障害のメカニズムを明らかにできる可能性が考えられるが、失語症者を対象としたN400を用いた研究は少なく、失語症の障害に関する電気生理学的なメカニズムはいまだ明らかではない。

 本研究では、軽度の言語理解障害を呈する失語症者を対象とし、単語対(ペア)の意味関連性についての判断課題を行った。課題遂行中の、行動反応および頭皮上からのN400を記録し、行動反応の成績および潜時、N400の振幅および潜時を分析した。

 得られた結果をもとに、(1)大脳損傷に起因する失語症者の言語情報処理過程の障害がもたらす事象関連電位(N400)への影響、(2)言語情報処理過程の障害における電気生理学的指標の診断的意義および心理検査との補完性などについて明らかにしたので報告する。

研究方法I.刺激

 2音節からなる日本語の単語の対(プライム語-標的語)を50組作成した。このうち、25組は互いに意味的関連性が高く(例:"ねこ"-"いぬ")、他の25組では意味的関連性が低く(例:"そら"-"いぬ")なるよう設定した。以下、意味的関連性の高い標的語を関連標的語、関連性の低い標的語を非関連標的語とする。

II.課題

 被験者に、プライム語-標的語の順に50対(ペア)の単語を呈示し、標的語がプライム語と意味的に関連があるかどうかを判断させる課題を設定した。50対の呈示順序はランダムとした。

 課題は、関連標的語の呈示に対して拇指によるボタン押しで反応し、非関連標的語の呈示に対しては反応を行わない条件(以下、関連条件)と、非関連標的語の呈示に対して拇指によるボタン押しで反応し、関連標的語の呈示に対しては反応を行わない条件(以下非関連条件)の2種類設定した。両課題で用いた単語リストは同一である。

III.手続き

 電気的に遮蔽された実験室内で、安楽な姿勢で椅子に腰掛け、開眼し、一点を固視した状態で課題を遂行した。全被験者に対して、関連条件、非関連条件の2課題を実施した。2課題の実施順序は、被験者ごとにランダム化した。

IV.被験者

 被験者は、予備実験によって本課題の遂行が可能であると判断された失語症者10例と、年齢を合わせた精神神経学的疾患の既往のない健常対照者10名である。失語群は全例右利きで、頭部CTまたはMRIによって大脳左半球一側に病変が確認されている。失語症タイプの内訳は、健忘失語2例、ブローカ失語2例、伝導失語3例、ウェルニッケ失語3例である。失語症状の評価には標準失語症検査(以下SLTA)を用いた。SLTAの成績および臨床観察から、失語群は失語タイプの違いによらず、全例聴覚的意味理解の障害が軽度であった。

V.記録および加算処理

 脳波は、10-20法による正中前頭部(Fz)、正中中心部(Cz)、正中頭頂部(Pz)に装着し、両耳朶連結を基準電極として単極誘導した。また、双極誘導による筋電図によってボタン押し反応をモニタした。

 実験終了後、警告刺激呈示開始時点から標的刺激呈示開始後3秒時点までの6秒間のデータを切り出し、被験者、課題条件、電極ごとに、それぞれ25回の試行を加算平均した。電位のベースラインは、標的刺激呈示前100msec間の平均電位とした。

VI.加算波形におけるN400の計測方法

 (1)関連標的語による加算波形と非関連標的語による加算波形の間で統計的に有意な振幅差のみられた潜時区間をN400成分とした。(2)同区間の平均振幅をN400の振幅とした。(3)非関連標的語によるN400成分と関連標的語によるN400成分の振幅差をN400効果とした。

結果I.行動反応(ボタン押し)

 (1)両群とも成績は良好であった。(2)反応潜時は両条件とも健常群に比べ失語群で延長しており、また両群とも関連条件に比べ非関連条件で延長していた。(3)両群、両課題とも反応の変動性に差はみられなかった。

II.誘発電位1.関連条件

 健常群と失語群で、N400効果(振幅)には差を認めなかったが、統計計算にもとづくN400のタイムウインドウ(潜時区間)には両群で異なる傾向を認めた。すなわち、失語群は健常群に比べN400成分の開始潜時が延長していた。Fz、Czにおいては、潜時区間が健常群に比べ長い傾向を認めた。しかし失語群では、病巣にもっとも近いと考えられるPzのN400成分が他の2部位に比べ短い傾向を認めた。

2.非関連条件

 健常群では、関連条件同様N400効果がみられたが、潜時区間が後方にシフトしていた。

 失語群では、健常群でみられたN400効果がみられなかった。

考察とまとめ

 軽度の聴覚的言語理解障害を呈する失語症者に対して、二種類の条件からなる単語対(ペア)の意味関連性についての判断課題を施行し、行動反応および事象関連電位(N400)を記録した。

 その結果、以下のような知見を得た。

I.行動指標(ボタン押し反応)

 1.単語が相互に「関連がない」という判断は、「関連がある」という判断に比べ、処理に要する時間が延長していた。

 このことは、プライム語が呈示された時点で、脳内でプライム語に関連するいくつかの単語に対する予測あるいは活性化が成立し、標的語が呈示された時、プライミングされている単語のリストから先に照合を行うという仮説(Becker 1976)で説明が可能と考えられた。

 2.失語症群は、健常群に比べ語彙にアクセスする時間が延長していることが示唆され、反応潜時の測定は、軽度の言語理解障害に対する臨床診断的価値があると考えられた。

II.電気生理学的指標(N400)

 1.関連条件

 失語群にも健常群同様のN400効果がみられたが、潜時区間は健常群に比べ遅れており、しかも立ち上がりから収束までの潜時幅が長く、行動指標に現れた結果同様失語群における語彙・意味的処理に要する時間の延長を示唆していた。

 また、関連条件は、失語症者の言語情報処理障害の重症度および回復に対する電気生理学的指標となる可能性が示唆された。

 2.非関連条件

 健常群では関連条件同様N400効果がみられたが、潜時区間が後方にシフトしていた。

 失語群では、健常群にみられたN400効果が消失していた。

 3.プライミングの理論から、単語が相互に「関連がない」とする判断は、「関連がある」とする判断に比べ、自動的な処理に加えて、より意図的かつ時間を要する処理を必要とすると考えられる。このことは、健常群において、非関連条件におけるN400の潜時区間が関連条件に比べ後方にシフトしていたことからも裏付けられる。また、失語群において、関連条件でみられたN400効果が非関連条件において消失していたことは、失語症者における自動的な語彙アクセス後の意図的な語彙・意味処理過程の障害を反映するものと考えられた。

 4.失語症者の言語刺激に対する行動反応潜時やN400を記録することによって、心理検査である失語症検査のみを用いるより詳細な言語情報処理能力の評価が可能になり、また、失語症状の回復に対する電気生理学的裏付けが得られる可能性が考えられた。

審査要旨

 本研究は、大脳における言語的意味処理過程を反映する事象関連電位であるN400を用いて、失語症者における言語的意味処理過程の障害がもたらす脳内の電気活動への影響について明らかにし、さらに失語症者の言語情報処理過程の障害に対する電気生理学的指標の診断的意義および従来の心理学的診断との補完性について論証することを目的とした。対象は軽度の言語理解障害を呈する失語症者10例と、対照群としての健常者10名である。被験者に対し2語1組からなる単語の対を聴覚的に呈示し、単語相互の意味的関連性の有無についてボタン押しにて判断させる課題を遂行し、頭皮上から事象関連電位(N400)を記録した。これらの実験により下記の結果を得ている。

 1.単語が相互に「関連がない」という判断は、「関連がある」という判断に比べ、処理に要する時間が延長していた。このことは、先行語が呈示された時点で、脳内で先行語に関連するいくつかの単語に対する予測あるいは活性化(プライミング)が成立し、標的語が呈示された時、プライミングされている単語のリストから先に照合を行うという仮説で説明が可能と考えられた。

 2.失語症群は、健常群に比べ語彙にアクセスする時間が延長していることが示唆され、反応潜時の測定は、軽度の言語理解障害に対する臨床診断的価値があると考えられた。

 3.相互に関連のある単語対を検出させる課題(関連条件)では、失語群にも健常群同様のN400効果がみられたが、潜時区間は健常群に比べ遅れており、しかも立ち上がりから収束までの潜時幅が長く、行動指標に現れた結果同様失語群における語彙・意味的処理に要する時間の延長を示唆していた。また、この課題は、失語症者の言語情報処理障害の重症度および回復に対する電気生理学的指標となる可能性が示唆された。

 4.一方、相互に関連のない単語対を検出させる課題(非関連条件)では、健常群については関連条件同様N400効果がみられたが、潜時区間が後方にシフトしていた。失語群では、健常群にみられたN400効果が消失していた。

 5.プライミングの理論から、単語が相互に「関連がない」とする判断は、「関連がある」とする判断に比べ、自動的な処理に加えて、より意図的かつ時間を要する処理を必要とすると考えられるが、このことは、健常群において、非関連条件におけるN400の潜時区間が関連条件に比べ後方にシフトしていたことからも裏付けられた。また、失語群において、関連条件でみられたN400効果が非関連条件において消失していたことは、失語症者における自動的な語彙アクセス後の意図的な語彙・意味処理過程の障害を反映するものと考えられた。

 6.失語症者の言語刺激に対する行動反応潜時やN400を記録することによって、心理検査である失語症検査のみを用いるより詳細な言語情報処理能力の評価が可能になり、また、失語症状の回復に対する電気生理学的裏付けが得られる可能性が考えられた。

 以上、本論文は事象関連電位N400を指標として、(1)失語症者の言語情報処理障害が脳内の電気活動に反映されていること、(2)失語症の臨床診断における電気生理学的指標の意義を明らかにした。また、本研究は類似の先行研究においてほとんど用いられていない聴覚刺激を用いて実験結果を出した点にも価値が認められる。大脳の言語情報処理の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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