本研究は、大脳における言語的意味処理過程を反映する事象関連電位であるN400を用いて、失語症者における言語的意味処理過程の障害がもたらす脳内の電気活動への影響について明らかにし、さらに失語症者の言語情報処理過程の障害に対する電気生理学的指標の診断的意義および従来の心理学的診断との補完性について論証することを目的とした。対象は軽度の言語理解障害を呈する失語症者10例と、対照群としての健常者10名である。被験者に対し2語1組からなる単語の対を聴覚的に呈示し、単語相互の意味的関連性の有無についてボタン押しにて判断させる課題を遂行し、頭皮上から事象関連電位(N400)を記録した。これらの実験により下記の結果を得ている。 1.単語が相互に「関連がない」という判断は、「関連がある」という判断に比べ、処理に要する時間が延長していた。このことは、先行語が呈示された時点で、脳内で先行語に関連するいくつかの単語に対する予測あるいは活性化(プライミング)が成立し、標的語が呈示された時、プライミングされている単語のリストから先に照合を行うという仮説で説明が可能と考えられた。 2.失語症群は、健常群に比べ語彙にアクセスする時間が延長していることが示唆され、反応潜時の測定は、軽度の言語理解障害に対する臨床診断的価値があると考えられた。 3.相互に関連のある単語対を検出させる課題(関連条件)では、失語群にも健常群同様のN400効果がみられたが、潜時区間は健常群に比べ遅れており、しかも立ち上がりから収束までの潜時幅が長く、行動指標に現れた結果同様失語群における語彙・意味的処理に要する時間の延長を示唆していた。また、この課題は、失語症者の言語情報処理障害の重症度および回復に対する電気生理学的指標となる可能性が示唆された。 4.一方、相互に関連のない単語対を検出させる課題(非関連条件)では、健常群については関連条件同様N400効果がみられたが、潜時区間が後方にシフトしていた。失語群では、健常群にみられたN400効果が消失していた。 5.プライミングの理論から、単語が相互に「関連がない」とする判断は、「関連がある」とする判断に比べ、自動的な処理に加えて、より意図的かつ時間を要する処理を必要とすると考えられるが、このことは、健常群において、非関連条件におけるN400の潜時区間が関連条件に比べ後方にシフトしていたことからも裏付けられた。また、失語群において、関連条件でみられたN400効果が非関連条件において消失していたことは、失語症者における自動的な語彙アクセス後の意図的な語彙・意味処理過程の障害を反映するものと考えられた。 6.失語症者の言語刺激に対する行動反応潜時やN400を記録することによって、心理検査である失語症検査のみを用いるより詳細な言語情報処理能力の評価が可能になり、また、失語症状の回復に対する電気生理学的裏付けが得られる可能性が考えられた。 以上、本論文は事象関連電位N400を指標として、(1)失語症者の言語情報処理障害が脳内の電気活動に反映されていること、(2)失語症の臨床診断における電気生理学的指標の意義を明らかにした。また、本研究は類似の先行研究においてほとんど用いられていない聴覚刺激を用いて実験結果を出した点にも価値が認められる。大脳の言語情報処理の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |