学位論文要旨



No 214423
著者(漢字) 大橋,順
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,ジュン
標題(和) 主要組織適合性抗原複合体遺伝子座での高度多型性を説明するアリル特異的淘汰モデルの構築
標題(洋) Allele-specific selection for maintenance of polymorphism at the major histocompatibility complex loci
報告番号 214423
報告番号 乙14423
学位授与日 1999.09.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第14423号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 柴田,洋一
 東京大学 助教授 小林,一三
 東京大学 講師 奥,恒行
 東京大学 講師 藤井,知行
内容要旨 緒言

 主要組織適合性抗原複合体(以下MHCと略す)遺伝子座は、機能を有する産物をコードする遺伝子座としては最高度の多型性を示す遺伝子座である。ここで「多型」とは集団中に高い頻度(1%以上)で複数の対立遺伝子が存在することをいう。ヒト集団の遺伝子座では、通常数個の対立遺伝子しが存在しないが、ヒトのMHC遺伝子座、すなわちHLA遺伝子座には膨大な数の対立遺伝子が存在し、HLA-BやHLA-DRB1遺伝子座においては既に200種類以上の対立遺伝子が報告されている。さらにMHC遺伝子の特徴として、これらの対立遺伝子が非常に長い期間保有されてきたこともあげられる。ヒトの通常遺伝子座で観察される対立遺伝子多型はそのほとんどがチンパンジーとの分岐後に生じたものであり、およそ40〜80万年も遡れば一つの共通祖先遺伝子にたどり着く。ところが、HLA遺伝子座の場合には数千万年も前に分岐したと思われる対立遺伝子が複数の種にまたがって存在するのである(種間垂直伝達)。MHC分子の機能及び構造についてはほぼ解明されたにもかかわらず、いかなる機構でMHC遺伝子座における多型性が進化上維持されてきたかについては現在でも見解が分かれている。

 木村資生は、「機能的制約を強く受けるタンパク質をコードする遺伝子座ほど遺伝的変異が低い傾向を示す」と述べている。遺伝子もしくは遺伝子中の機能的に重要な部位であれば、アミノ酸の変化を伴わない同義置換は許されても、アミノ酸の置換を伴う非同義置換は淘汰上許されない場合が多いはずであり、そのような変異が集団中に広がる可能性は極めて低いからである。しかし、HLA分子の抗原認識部位をコードする遺伝子座位では、非同義置換の方が同義置換よりも高頻度に観察され、この非同義置換の起きやすさがHLA遺伝子が多くの対立遺伝子を有する原因となっている。従って、MHC遺伝子座の高度多型性を説明するためには、アミノ酸置換を起こすことが淘汰上有利になるような「正の自然選択」を考慮する必要がある。この「正の自然選択」はMHC分子の機能に基づいて次のように考えることができる。

 MHC分子は、病原体に由来する抗原分子を結合しT細胞に提示することによって、その後に続く抗体産生や感染細胞の除去といった一連の免疫応答を開始させるという免疫系で重要な役割を担っている。脊椎動物の免疫系では未知の外来抗原にも対応できるよう、T細胞受容体やB細胞受容体(免疫グロブリン)の多様性を確保するために、T細胞やB細胞が分化しクローン化する過程で遺伝子再編成と体細胞突然変異が生じる。これに対し、MHC分子はこのような遺伝子再編成によって多様性を獲得しているわけではない。個々のMHC分子が多種類の抗原分子を結合すること、および各MHC遺伝子座で多数の対立遺伝子を維持することによって、病原体の侵入に備えているのである。つまり、突然変異によりアミノ酸置換が起こると、それまで集団中に存在したMHC分子では結合することができなかった新たな抗原分子をその対立遺伝子は結合できるようになるため、そのような変異遺伝子を持つ個体は淘汰上有利となり、アミノ酸置換を伴う突然変異遺伝子が集団レベルで積極的に維持されるのである。またMHC遺伝子は共優性(ヘテロ接合体でも両対立遺伝子を発現できる)であるため、ヘテロ接合体の方がホモ接合体よりも多くの外来抗原分子を結合しT細胞へ提示できるので、一般的にヘテロ接合体の方がホモ接合体よりも淘汰上有利であると考えられている。

 集団遺伝学の分野ではMHC遺伝子座での多型性、およびその長期にわたる存続を説明するためにいくつかのモデル(超優性淘汰モデル、頻度依存性淘汰モデルなど)が考えられてきたが、超優性淘汰モデルは容易に構築できるのに対して、頻度依存性淘汰を扱った妥当な数理モデルはこれまで提案されたことがなかった。数学的困難さからアリルに特異的に作用する淘汰はほとんど議論されてこなかったが、上述のMHC分子の機能からも理解されるように、アリル特異的な淘汰を扱うモデルこそがMHC遺伝子座での多型維持の機構の実際により近いモデルと思われる。そこで、本研究はアリル特異的淘汰モデルを構築し、さらに従来のモデルを用いた場合の結果と比較しながら、MHC遺伝子座で観察される多型性、平衡頻度分布、アリルの長期存続、および非同義置換速度を説明することを目的とした。

モデル

 遺伝子座に働く自然選択の影響を考察するためには、平衡状態における対立遺伝子の挙動を探る必要がある。本研究では、最初に、無限の大きさを持つ集団における対立遺伝子平衡頻度を決定論的計算から導いた。実際には、有限集団中で起こる機会的遺伝子浮動の影響を無視できないので、コンピュータシュミレーションを実行し、得られた結果について詳細な検討を行った。

 非対称型超優性淘汰モデル(従来のモデル)

 集団中にはn個の対立遺伝子が存在すると仮定する。MHC遺伝子に関しては、ホモ接合体よりもヘテロ接合体の方が淘汰上有利であるので、アリルAiの淘汰係数をSiとおき、ホモ接合体AiAiである場合の適応度を1-si、ヘテロ接合体AiAjである場合の適応度を1とおく。平衡状態ではアリル毎の適応度が等しくなることに注意すれば、アリルAiの平衡頻度は

 

 と計算される。式(1)は常に正の値をとるので、無限の大きさを持つ集団ではアリルが何種類あろうとも、理論上はそのすべてが集団中に維持されることになる。つまり、MHC遺伝子座多型を説明するのに非常に都合のよい結果が得られる。しかし、この仮定だとヘテロ接合体はアリルの種類にかかわらずすべて同じ適応度を持つことになり現実的ではない。実際には異なる種類のヘテロ接合体間にも適応度の差が存在すると思われる。なお、これまでに最もよく研究されているのは対称型超優性淘汰モデルであり、ホモ接合体の適応度もすべて同じ1-sと仮定するものである。

 アリル特異的淘汰モデル(今回構築したモデル)

 対立遺伝子ごとの淘汰を考慮するために、アリルAiの淘汰係数をsiとおき、ホモ接合体AiAjの適応度を1+si、ヘテロ接合体AiAiの適応度を(1+si)(1+sj)≒1+si+sjとおいた。このような仮定にすれば、ホモ接合体間のみならず、ヘテロ接合体間での適応度の差についてもモデル化可能である。アリルAiの平衡頻度は

 

 と計算される。式(2)の右辺で分子が負の値をとる場合は、アリルAiが最終的にその集団から消え去ることを意味する。n個の対立遺伝子が平衡多型を保ちながら存在する集団に(s1≦s2≦…≦sn-1≦sn)、突然変異によって新たなアリルAmが出現した場合に、アリルAmが既存のn個の遺伝子と共に維持されるためにはその適応度が

 

 の条件を満たす必要がある。

 アリル特異的頻度依存性淘汰モデル(今回構築したモデル)

 アリル特異的頻度依存性淘汰(以下では頻度依存性淘汰という)がMHC遺伝子座で働く場合に、多型性が維持されやすくなるのか否かの検討を行うべく、アリル特異的淘汰モデルの拡張を試みた。頻度依存性淘汰とは、頻度が増加するとそのアリルの適応度が減少し、頻度が減少するとそのアリルの適応度が増加するような淘汰をいう。アリルAiの頻度をxiとして、ホモ接合体AiAiの適応度を1+si(1-xi)、ヘテロ接合体AiAjの適応度を{1+si(1-xi)}{1+sj(1-xj)}≒1+si(1-xi)+sj(1-xj)とすると、アリルAiの平衡頻度は

 

 となる。式(2)と式(4)の比較より、頻度依存性淘汰はMHC遺伝子座の多型維持に有効に働くことが確認された。

シミュレーション

 上記のモデルでは突然変異を考慮していなかったので、有限集団中における突然変異環境下での対立遺伝子の挙動についてコンピュータシミュレーションを行った。突然変異によって、それまで集団中に存在することのなかった新たな対立遺伝子が誕生することを仮定した無限対立遺伝子モデルを採用し、従来のモデルである超優性淘汰モデルと、今回構築したアリル特異的淘汰モデル、頻度依存性淘汰モデルの検討を行った。集団はN個体から構成され、突然変異(1遺伝子1世代当たりvの確率で起こる)が起こるたびにその淘汰係数を0からzまでの範囲でランダムに割り振った。同時に、親遺伝子と突然変異の起こった時間(世代)についても記録した。アリル特異的淘汰を中心に以下の5点について検討を行った。

 第一に、2N=100を固定し、v、zの値をいろいろ変化させて40回の試行を行い、維持される対立遺伝子数の平均値とヘテロ接合度の平均値を得た。中立な場合よりも多くの対立遺伝子を両モデルは維持できたが、アリル特異的淘汰モデルよりも頻度依存性淘汰モデルの方が対立遺伝子数とヘテロ接合度を高いレベルで維持可能であった。第二に平衡頻度分布に関する検討を行った。ヒト集団で観察されるHLA対立遺伝子頻度は、非常に多型性に富むHLA-B及びHLA-DRB1遺伝子座の場合、最高の頻度を持つ対立遺伝子であっても40%程度であり、1%以下の対立遺伝子がもっつとも多く観察されている。アリル特異的淘汰モデル及び頻度依存性淘汰モデルを仮定した場合、2N=500、v=0.001、z=0.1と設定した場合に現実の頻度分布をうまく説明できることが確認された。一方、従来の非対称型超優性淘汰モデルではそのような分布を得ることができなかった。平衡頻度分布曲線を頻度x=0から頻度x=1までを積分することで平衡状態での対立遺伝子数を求めることができるが、興味深いことに非対称型超優性淘汰モデルにおいて淘汰係数の幅が大きくなるほど維持できる対立遺伝子数は減少していった。この結果は従来の考えや式(1)から予想される結果とは異なるものであった。第三に、アリルの存続時間(集団中で維持される期間)について検討した。アリル特異的淘汰モデルと頻度依存性淘汰モデルでは、zが小さいとどのアリルが集団中に維持されるかは偶然(機会的遺伝子浮動)に左右されたが、zが大きい場合には、式(2)や式(4)から予想されるように、大きな淘汰係数を割り振られたアリルが選択的に維持されるようになった。しかもそのようなアリルは長期間集団中に保有されることが示され、実際に観察されてきた「MHC遺伝子座での長期にわたるアリルの維持」をうまく説明できるモデルであることが確認された。なお超優性淘汰を仮定した場合は、一つのアリルが長期にわたり存在することはなかった。アリル系統樹上で、アリルの分岐が最も古く起こるモデルほど種間垂直伝達仮説を説明するの都合が良いが、アリル特異的淘汰モデルは種間垂直伝達を強く支持しうるモデルであった。第四点として非同義置換速度の検討を行った。MHC遺伝子の抗原認識部位では、非同義置換速度は同義置換速度の3倍程度であることが分かっている。アリル特異的淘汰モデルはこのことを十分説明できるモデルであった。最後に第五点として、超優性淘汰の進化的安定性についてアリル特異的淘汰を用いて調べたところ、全てのアリルがほぼ等しい適応度をもつような進化的安定状態に到達することはなかった。

考察

 超優性淘汰モデルはMHC遺伝子座での多型性を説明しうる有力なモデルだが、その進化的安定性に問題があった。少しでも淘汰上有利な対立遺伝子が出現すると、ホモ接合体の適応度は1-s、ヘテロ接合体の適応度は1という仮定が成り立たなくなるからである。すなわち、この状態は進化的に安定な状態ではなかった。この状態からずれるほど多型の維持は困難になるため、このモデルでは維持される対立遺伝子の数を過大評価してしまうおそれがある。従って、超優性淘汰を仮定する研究ではその安定性の根拠を説明すべきである。

 アリル特異的淘汰モデルにも問題は存在する。異なる対立遺伝子は異なるペプチドレパートリーを有するが、もし同じ病原体に由来する異なるペプチドを異なる対立遺伝子が結合できる場合には、「各対立遺伝子に働く淘汰は独立である」とするモデルの前提に反することになる。もしこのようなケースが頻繁に観察されることが明らかになれば(そのためには、病原体のゲノム解析が必要だが)、MHC遺伝子、病原体、ペプチドの三者の関係を扱う大規模コンピュータシュミレーションの遂行が望まれる。

結論

 今回構築したアリル特異的淘汰モデル及び頻度依存性モデルは、MHC遺伝子座で観察されるほぼ全ての特徴を説明することができた。特に、長期にわたる対立遺伝子の保有や種間垂直伝達及びヒト集団で観察される平衡頻度分布を説明する上で優れていた。頻度依存性淘汰モデルの方がMHC遺伝子座で観察される種々の現象を説明しやすかったが、極端にアリル特異的淘汰より優れているわけではなかった。より確実にMHC遺伝子座多型を説明するには、MHC遺伝子座での突然変異率が高く、ヒトに至る系統では有効集団サイズが進化の過程で常に十分大きかったと考えるのが適当であろう。

審査要旨

 本研究はMHC遺伝子座における高度多型性の維持に重要な役割を果たすと考えられる自然選択の種類を同定するために、集団遺伝学の理論に基づいて数理モデルを構築し、MHC遺伝子座で観察される多型性、平衡頻度分布、アリルの長期存続、および非同義置換速度の解析を試みたものであり、以下の結果を得ている。

 1.アリル特異的淘汰モデルの構築

 対立遺伝子ごとの淘汰を考慮するために、アリルAiの淘汰係数をsiとおき、ホモ接合体AiAiの適応度を1+si、ヘテロ接合体AiAjの適応度を(1+si)(1+sj)≒1+si+sjとおいた。当条件下でのアリルAiの平衡頻度は

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 と計算される。式(1)の右辺で分子が負の値をとる場合は、アリルAiが最終的にその集団から消え去ることを意味する。n個の対立遺伝子が平衡多型を保ちながら存在する集団に(s1≦s2≦…≦sn-1≦sn)、突然変異によって新たなアリルAmが出現した場合に、アリルAmが既存のn個の遺伝子と共に維持されるためにはその適応度が

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 の条件を満たす必要があることが示された。

 2.アリル特異的頻度依存性淘汰モデルの構築

 アリル特異的頻度依存性淘汰(以下では頻度依存性淘汰という)の検討を行うべく、アリル特異的淘汰モデルの拡張を試みた。頻度依存性淘汰モデルにおいては、アリルAiの頻度をxiとして、ホモ接合体AiAjの適応度を1+si(1-xi)、ヘテロ接合体AiAiの適応度を{1+si(1-xi)}{1+sj(1-xj)}≒1+si(1-xi)+sj(1-xj)と仮定した場合に、アリルAiの平衡頻度は

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 とあらわされた。式(1)と式(3)の比較より、頻度依存性淘汰はMHC遺伝子座の多型維持に有効に働くことが示された。

 3.上記のモデルでは突然変異および機会的遺伝子浮動を考慮していなかったので、有限集団中における突然変異環境下での対立遺伝子の挙動についてコンピュータシミュレーションを行った。様々なパラメタのセットに対し試行を行い、維持される対立遺伝子数の平均値とヘテロ接合度の平均値を得た。中立な場合よりも多くの対立遺伝子を両モデルは維持できたが、アリル特異的淘汰モデルよりも頻度依存性淘汰モデルの方が対立遺伝子数とヘテロ接合度を高いレベルで維持可能であることが示された。

 4.シミュレーションにより、平衡頻度分布に関する検討を行ったところ、アリル特異的淘汰モデル及び頻度依存性淘汰モデルを仮定した場合、ヒト集団において実際に観察される頻度分布をうまく説明できるが、従来から検討されていた非対称型超優性淘汰モデルでは説明できないことが示された。

 5.アリルの存続時間(集団中で維持される期間)について検討したところ、アリル特異的淘汰モデルと頻度依存性淘汰モデルは「MHC遺伝子座での長期にわたるアリルの維持」をうまく説明できることが確認された。なお超優性淘汰を仮定した場合は、一つのアリルが長期にわたり存在することはなかった。以上のことから、アリル特異的淘汰モデルは種間垂直伝達を強く支持しうるモデルであることが示された。

 6.非同義置換速度の検討を行ったところ、アリル特異的淘汰モデルは、MHC遺伝子の抗原認識部位で観察される、同義置換速度に比べ約3倍の非同義置換速度を十分説明できるモデルであることが示された。

 以上、本論文は数理解析およびコンピュータを用いたシミュレーション解析をもとに、従来考えられていた超優性淘汰モデルでは、実際の観察データを説明できないことを明らかにし、アリル特異的淘汰がMHC遺伝子座での高度多型性を維持している可能性が高いことを明らかにした。本研究ではMHC遺伝子のみを扱ったが、免疫系で働く遺伝子はその進化過程において自然淘汰の影響を少なからず受けているため、今回得られた結果は、今後解析が進むと思われる免疫関連遺伝子の進化の解明にも重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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