大山誠一氏の論文『長屋王家木簡と奈良朝政治史』は、平城京左京三条二坊の邸宅跡から出土した「長屋王家木簡」の総合的検討を通して、奈良時代の政治過程について新しい自説を展開した研究成果である。研究の特徴は、新しい出土文字資料を積極的に位置づけ、通説を批判的に再検討して大胆に政治的背景をさぐるところにある。それらを通して、奈良時代前期の政治過程について、幅広く一貫した歴史的展望を提示したものである。 第一「『長屋王家木簡』に見える家政機関」では、「長屋王家木簡」に見える家政機関の構成を検討し、平城京左京三条二坊の一・二・七・八坪を占める広大な貴族邸宅の所有者を長屋王とその正妻吉備内親王とし、また家政機関としては、長屋王・吉備内親王のそれとともに氷高内親王(元正天皇)の家政機関が邸宅内に一体として機能していたとする。霊亀元年(七一五)に即位した後も氷高内親王の家政機関が存続していたとする点では、長屋王の父高市皇子の家政機関が継承されたとする説もあり、なお議論が必要であろう。また、大山氏が論拠の一つとした邸宅内における「大命」「幸行」「侍従」などの天皇固有の用語も、奈良時代初期にはこれらの用語が天皇の独占物とはなっていなかったとする説も存在する。しかし個々の論点を越えて、研究途上の段階において、一貫した見通しを提示した意欲的な研究として評価されよう。 第二「氷高内親王をめぐる諸問題」では、即位後も氷高内親王の家政機関が長屋王・吉備内親王の邸宅に存在したとする立場から、元明・元正両女帝論に論及する。霊亀元年(七一五)の氷高内親王の即位事情を、首皇子(聖武天皇)を擁する藤原武智麻呂に対抗する長屋王がクーデターに近いかたちで元正天皇を擁立したものと評価する。藤原不比等と長屋王との対立説などなお異論があり得るであろうが、元明・氷高内親王・長屋王らが密接な関係にあったという「長屋王家木簡」の解釈から政治過程論に迫る方法は、長屋王の政治基盤の解明とともに注目される。新しい出土文字資料から、従来『続日本紀』などによって構成されてきた歴史像を再検討する姿勢は、評価し得る。 第三「長屋王と吉備内親王」では、木簡の検討から長屋王家の経済的基盤を明らかにするとともに、邸宅居住者が長屋王・吉備内親王とその子供たちばかりでなく、妻妾同居であったことを明確に指摘する。さらに藤原氏対長屋王という視角から長屋王の変に至る政治過程を展望する。元明・元正の両女帝が藤原氏と対立する長屋王と密接な関係にあったとする大山氏の見解は、両女帝を文武から聖武への中継ぎと考える通説的理解に対して、再検討を求める内容をもっている。また、古代の天皇像が大宝令で確定したわけではなく、現実の政治課程の中で長屋王の変を経て明確化していったとする指摘は、有益である。 以上、本論文は、「長屋王家木簡」の全体像について自説を提示し、その新視角の上に奈良時代前期の政治背景について一貫した見通しを立てている。具体的な個々の論点を越えて、全体的な政治過程をめぐって幅広く明快な論旨を展開したところは、今後の研究の進展に寄与するものといえよう。また、発掘調査機関に属さない大山氏が、発掘後間もない時期から木簡の出土状況・機能にまで踏み込みながら大胆な試論を展開したことは、調査成果を広く学会で共有しつつ幅広い検討を行うという研究状況をもたらす上で、意義あることといえよう。論点が広範囲に及ぶこともあり、木簡理解などの面でなお多くの有力な異論が存在するなど、さらに詳論と説得力強化が望まれるものの、出土文字資料から政治過程論に迫ろうとする独自の達成を示した点で、本論文は今後の日本古代史研究に有益な基礎をもたらすものと評価できよう。 したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。 |