学位論文要旨



No 214430
著者(漢字) 大山,誠一
著者(英字)
著者(カナ) オオヤマ,セイイチ
標題(和) 長屋王家木簡と奈良朝政治史
標題(洋)
報告番号 214430
報告番号 乙14430
学位授与日 1999.09.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14430号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 石上,英一
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
 東京大学 助教授 佐藤,康宏
内容要旨

 研究の意図は、十年ほど前に公表された長屋王家木簡の分析を出発点とし、その成果をもとに、奈良時代の政治史を理解しようとしたものである。従来、政治史理解の基本史料は、『続日本紀』や『万葉集』あるいは『懐風藻』などであったが、これらのみでは当時の人間関係の氷山の一角に過ぎない。これに対し、長屋王家木簡の場合は、その数が数万点におよび、その分析により、奈良時代の有力貴族であった長屋王の生活を復元することが可能である。そこで、本書では、この木簡の分析を通し、長屋王家、および彼の義姉にあたる氷高内親王との関係、さらには藤原氏との対立を軸とした政治史を解明した。

第一章「長屋王家木簡」に見える家政機関

 長屋王家木簡は、平城京左京三条二坊一・二・七・八坪の地から発掘され、作成された年代は奈良時代初期にあたる和銅4年(711)から霊亀3年(717)にかけてのもであるが、その内容は複雑で、正確な理解はきわめて困難であった。とくに、木簡に記された人名によりこの4坪の邸宅に長屋王とその親族が居住したことは明らかであったが、木簡の性格はなお複雑で、この邸宅の正式な所有者、とくにこの木簡を作成し今日に残すことになった家政機関の所有者が誰であるのかが問題であった。そこで、本書では、この木簡の性格を再検討し、次のような結論に達した。

 この邸宅の所有者は、長屋王とその正妻にあたる吉備内親王であるが、木簡を残した家政機関としては、二の二人のそれに加え、吉備内親王の姉にあたり、後に即位することになる氷高内親王の家政機関も考えられる。何故なら、家令の構成から二品相当の家政機関が存在することは確実であるが、木簡が作成された当時長屋王は従三位、吉備内親王は三品で該当しない。これに対し、氷高内親王は二品で矛盾しない。また、木簡の中に1点とはいえ「氷高親王」と記したものもあり、きわめて好都合だからである。さらに、木簡の分析によれば、この三者の家政機関は融合しており、事実上一体となって機能しているのであるが、そのことも以上のような人間関係を考えれば理解しやすいからである。また、氷高内親王は、木簡作成中にあたる霊亀元年(715)に即位するが(元正)、かの女の家政機関はその後も存続し、長屋王・吉備内親王一家との密接々関係を続けた様子が木簡から窺える。それが、「大命」「幸行」「侍従」などといった天皇固有の用語を用いた木簡で、これらは、原則として内裏から長屋王家にもたらされたものと考えられる。

第二章氷高内親王をめぐる諸問題

 ここでは、第一章の結論をうけて、木簡の作成された時代の政治過程、とくに氷高内親王とその即位をめぐる問題を検討した。

 まず、氷高内親王の邸宅であるが、長屋王邸宅の南側に当たる左京三条二坊六坪からは長屋王家木簡と性格が類似する木簡群が発見されており、かつ、即位以前の和銅年間の木簡の中に中務省・宮内省・後宮関係のものがあるが、これらは当時の天皇で、氷高・吉備両内親王の母にあたる元明との関連が考えられる。とすれば、この邸宅の所有者は、元明と長屋王家の双方と密接な関係にあったということになるが、そのような人物としては氷高内親王をおいてない。

 その氷高内親王の即位の事情であるが、慶雲4年(707)に文武が25才で亡くなるところから始まる。文武を擁立したのは藤原不比等で、彼の死は不比等の権力にとって重大な危機であった。そこで、不比等は、その政治力を駆使し、文武の遺児で、当時7才の首皇子(後の聖武)の即位を期待して、首の祖母で文武の母にあたる阿閇皇女を中継ぎとして擁立する。前天皇の皇后ではない女性が即位するのは前代未聞のことで、そのため不比等は平城遷都を宣言して百官の目をそらし、不比等自身への賜封五千戸を演出して自らの権力を誇示し、その上で「不改常典」を捏造して元明即位を正当化したのであった。

 しかし、即位した元明は、不比等の期待を裏切る。元明が親しかったのは、不比等と首皇子ではなく、長屋王と娘の氷高・吉備内親王、および長屋王と吉備内親王との間に生まれた膳夫王らの孫たちであった。その結果、元明は、不比等と長屋王という二人の権力者の対立の中で困惑するが、ついに、霊亀元年(715)、長屋王の思惑通り、首ではなく、娘の氷高内親王に位を譲る。こうして、元正が即位するが、それは、一般に考えられてきたごとき、文武から聖武への中継ぎとしてではなかった。明らかに、長屋王による擁立で、事実上、長屋王によるクーデターに近いものであった。以上の政治過程は、元明・氷高内親王・長屋王らが密接な関係にあるという長屋王家木簡の解釈と完全に一致するのである。

第三章長屋王と吉備内親王

 ここでは、あらためて木簡を分析し、長屋王と吉備内親王について、生活の様子、および長屋王の変に至る政治過程を論じた。

 まず、長屋王家の財源として封戸や私的に所有する薗・田・氷室・山処などの所在地を明らかにし、さらに、左京三条二坊一・二・七・八坪の邸宅の居住者を確定した。結論的に言って、この邸宅の居住者は、長屋王と吉備内親王とその子供たちばかりでなく、長屋王の妾の安倍大刀自、石川夫人らとその子供たちも居住することを明らかとした。子供たちは、木簡には「某若翁」と見えるものである。この結果、妻妾同居という事態が示されるが、これは通説とはことなるが、木簡が明らかにした事実である。

 次に、元正即位を実現した長屋王の権力のその後であるが、養老4年(720)に藤原不比等が亡くなって、長屋王政権が確立したかに見えたものの、直ちに武智麻呂・光明子ら不比等の子供たちによる反撃が始まる。養老5年、庇護者であった元明太上天皇が亡くなると、長屋王の権力は急速に弱体化し、神亀元年(724)、元正は譲位し、武智麻呂らが擁立する首が即位する。これが聖武である。これにより長屋王は事実上権力を手放すことになったが、彼自身あるいは彼の子の膳夫王が有力な皇位継承資格者であることは変わらなかった。藤原氏にとっては、聖武夫人の光明子が男子を生むことが悲願であった。そして、神亀4年(727)閏9月、光明子が男子を出産する。直ちに赤子のまま立太子するが、翌年9月に亡くなる。皇太子を失った藤原武智麻呂・光明子らは、その怒りを長屋王家に向ける。翌神亀6年(729)2月、藤原氏は六衛府の兵で長屋王家を囲み、長屋王・吉備内親王とその間に生まれた子供たちを抹殺する。これが長屋王の変であるが、その理由とされたのが長屋王の思想で、国家転覆を目的とした[左道」というものであったが、具体的には新川登亀男氏が論じたように、神亀経跋文に見える道教思想であった。

 元来、長屋王の妻には不比等の娘もおり、また、正妻の吉備内親王は文武の弟なのであるから、長屋王家と藤原氏および文武・聖武とは強い結びつきがあったはずである。ところが、長屋王の変という陰惨な結果を招いたのであるが、その背景となる政治過程については、元明・元正の両女帝を文武から聖武への中継ぎと考える従来の通説からは説明できなかった。しかし、長屋王家木簡の分析から、元明・元正が藤原氏とではなく、長屋王と密接な関係にあったことが明らかとなったことにより、本書のような新たな解釈が可能になったと考える。

参考論文長屋王家木簡と金石文

 第1部の二つの論文は、主論文を準備した基礎的論文で、内容は主論文に反映している。

 第2部は、長屋王の左道について、より具体的に理解するために、長屋王が関与したと思われる長谷寺法華説相図、野中寺弥勒像などの金石文を研究したもの。何れも、養老2年に唐より帰国した道慈の影響下に作成されており、長屋王の左道も、実は道慈が持っている道教思想・神仙思想あるいは弥勒信仰に依拠したものであることを明らかとした。

 第3部は、聖徳太子に関する史料が、『日本書紀』も法隆寺系の史料も、すべて推古朝当時のものではなく、その結果、聖徳太子は架空の人物であることを論じ、その上で、聖徳太子という人物像が成立してくる過程を論じたもの。

 大宝律令によって本格的律令国家を形成しても、その頂点に立つべき天皇の思想的・政治的位置づけは曖昧のままだった。そこで、模範となる中国的聖天子像を皇室の祖先の中に示し、これにより天皇制の理念を明らかにする必要があった。そのために創造したのが聖徳太子という人物像である。その際、中国的聖天子像とは、儒教的礼を踏まえ、仏教・道教の保護者として君臨する人物像であるが、それを現実に創造したのが『日本書紀』で、その編纂責任者は藤原不比等・長屋王そして道慈らであった。彼らの様々な思想的・政治的立場が入り組みながら、その複合の上に聖徳太子が成立する過程を論じ、さらにその複雑な対立が、不比等の死後、長屋王の変へと推移する過程を詳しく論じた。

審査要旨

 大山誠一氏の論文『長屋王家木簡と奈良朝政治史』は、平城京左京三条二坊の邸宅跡から出土した「長屋王家木簡」の総合的検討を通して、奈良時代の政治過程について新しい自説を展開した研究成果である。研究の特徴は、新しい出土文字資料を積極的に位置づけ、通説を批判的に再検討して大胆に政治的背景をさぐるところにある。それらを通して、奈良時代前期の政治過程について、幅広く一貫した歴史的展望を提示したものである。

 第一「『長屋王家木簡』に見える家政機関」では、「長屋王家木簡」に見える家政機関の構成を検討し、平城京左京三条二坊の一・二・七・八坪を占める広大な貴族邸宅の所有者を長屋王とその正妻吉備内親王とし、また家政機関としては、長屋王・吉備内親王のそれとともに氷高内親王(元正天皇)の家政機関が邸宅内に一体として機能していたとする。霊亀元年(七一五)に即位した後も氷高内親王の家政機関が存続していたとする点では、長屋王の父高市皇子の家政機関が継承されたとする説もあり、なお議論が必要であろう。また、大山氏が論拠の一つとした邸宅内における「大命」「幸行」「侍従」などの天皇固有の用語も、奈良時代初期にはこれらの用語が天皇の独占物とはなっていなかったとする説も存在する。しかし個々の論点を越えて、研究途上の段階において、一貫した見通しを提示した意欲的な研究として評価されよう。

 第二「氷高内親王をめぐる諸問題」では、即位後も氷高内親王の家政機関が長屋王・吉備内親王の邸宅に存在したとする立場から、元明・元正両女帝論に論及する。霊亀元年(七一五)の氷高内親王の即位事情を、首皇子(聖武天皇)を擁する藤原武智麻呂に対抗する長屋王がクーデターに近いかたちで元正天皇を擁立したものと評価する。藤原不比等と長屋王との対立説などなお異論があり得るであろうが、元明・氷高内親王・長屋王らが密接な関係にあったという「長屋王家木簡」の解釈から政治過程論に迫る方法は、長屋王の政治基盤の解明とともに注目される。新しい出土文字資料から、従来『続日本紀』などによって構成されてきた歴史像を再検討する姿勢は、評価し得る。

 第三「長屋王と吉備内親王」では、木簡の検討から長屋王家の経済的基盤を明らかにするとともに、邸宅居住者が長屋王・吉備内親王とその子供たちばかりでなく、妻妾同居であったことを明確に指摘する。さらに藤原氏対長屋王という視角から長屋王の変に至る政治過程を展望する。元明・元正の両女帝が藤原氏と対立する長屋王と密接な関係にあったとする大山氏の見解は、両女帝を文武から聖武への中継ぎと考える通説的理解に対して、再検討を求める内容をもっている。また、古代の天皇像が大宝令で確定したわけではなく、現実の政治課程の中で長屋王の変を経て明確化していったとする指摘は、有益である。

 以上、本論文は、「長屋王家木簡」の全体像について自説を提示し、その新視角の上に奈良時代前期の政治背景について一貫した見通しを立てている。具体的な個々の論点を越えて、全体的な政治過程をめぐって幅広く明快な論旨を展開したところは、今後の研究の進展に寄与するものといえよう。また、発掘調査機関に属さない大山氏が、発掘後間もない時期から木簡の出土状況・機能にまで踏み込みながら大胆な試論を展開したことは、調査成果を広く学会で共有しつつ幅広い検討を行うという研究状況をもたらす上で、意義あることといえよう。論点が広範囲に及ぶこともあり、木簡理解などの面でなお多くの有力な異論が存在するなど、さらに詳論と説得力強化が望まれるものの、出土文字資料から政治過程論に迫ろうとする独自の達成を示した点で、本論文は今後の日本古代史研究に有益な基礎をもたらすものと評価できよう。

 したがって審査委員会は、本論文が博士(文学)にふさわしい研究であると判断する。

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