本論文は、提出者が農業工学研究所に勤務する研究者として、ため池堤体の地震安定性を追究してきた成果を、まとめたものである.わが国にはおよそ10万箇所のため池があり、農業用フィルダムという名称で呼ばれる堤高15m以上のものだけでも、1500ヵ所に達する。また、堤体の設計手法をとってみても、戦後の設計基準に基づいているものの他に、過去の経験的技術に依存しているものも、数多く存在している。そのような雑多な状況の中で耐震性を向上させるためには、単に設計基準を変更するだけでは不十分であり、既存のため池、特に近代以前に築造されたものについて、改築以外に何らかの実行可能な手だてを講ずる必要があった。 本論文で重点的に扱われているのは、既存ため池堤体の耐震性評価と強大地震の発生直後の被害迅速調査である。前者に関しては、堤体を構成する土の物性について詳しい情報が得られる場合には数値計算手法による動的解析が提案されている。しかし、とりわけ小型のため池では、詳しい情報を期待できることは少なく、過去の被災経験をまとめることによって何らかの法則を見い出すことを目指さざるを得ない。また、後者の地震発生直後の対応については、数多くのため池をすべて地震直後に調査して回ることは膨大な時間を要し、災害対策の立ち上げに遅れを生じてしまう。そこで、数多くのため池の中から、被害を被っている可能性の高いものを抽出し、それから優先的に調査、対策立案にかかることが、提案されている。以下に、十二章で構成されている本論文の内容を紹介する。 第一章の緒言に続き、第二章では世界のフィルダム築造の歴史を概括し、近世以前にも合理的なダム築造の思想のあったことを紹介した。また、近代以降に着目して、土木構造物の耐震設計法の変容を、まとめている。 第三章は、地震によるため池とフィルダムの被害の歴史を記述している。とりわけ近年の19回の地震に際して、詳しい被害調査の行なわれた結果が、ここで述べられている。それらによれば、地震マグニチュードと被害発生の限界震央距離との間に、一定の関係のあることが、知られている。また、ため池堤体の被害のほとんどが基礎もしくは堤体の液状化によるものであり、地震慣性力だけで決壊などの大きな被害に至った例が、ほとんどないことも、示されている。 次に、論文提出者自身がおこなった被害調査の知見が、記述されている。第四章は1983年日本海中部地震が対象で、調査結果をまとめることにより、堤体被害の程度が基礎の地盤の土質に強く依存することが示された。また、築造後10年以内の新しいため池に被害の多いこともわかった。これは、土は年代とともに強度を増すという年代効果の存在することが原因であろう、と推測されている。そしてさらに、ため池の地震被害の大半が震後しばらく遅れて発生している、との既往研究成果が紹介された。この知見に基づけば、地震後すみやかに被害状況の把握と修復が行なえれば、破堤と洪水に代表される大規模な被害を回避できることになる。 第五章の対象は、1995年兵庫県南部地震における被災状況である。当該地域のため池は規模の小さいものが多かったものの、既往の地震に比べると被害の程度は高かった。そして四章と同様に、基礎の地盤が土質材料でできている堤体に、被害が多く発生したことが、判明した。決壊した二箇所のため池でボーリングを行ない、詳しい調査を実施した。その結果、液状化が原因で著しい被害の発生したことが判明した。一方、地震断層から数メートル以内の距離に存在したため池において、被害の程度が全く異なっていた例があったが、その原因については未解明のまま残された。 経験的な知識として、震央から遠いほど、ため池に限らず地震災害の度合の減少することがある。第六章では、過去のため池被害についてもデータを収集し、震央距離と被害の有無との関係を過去の事例について検討した。それによれば限界震央距離というものが存在し、それより遠方ではため池被害が発生しないこと、そして地震マグニチュードが増えるとともに、限界震央距離はも長くなることが、判明した。マグニチュードと限界震央距離との関係は、従来提唱されていたマグニチュードと液状化発生限界距離との関係に似通っており、ため池の地震被害と液状化との間に密接な関係がある、という前章での議論と、照応している。 以上のようにため池の地震時被災は決して珍しい事象ではない。一方高さ15mを越えるフィルダムは、同じ土質材料で築かれた堤でありながら、一部のhydraulic fillingで築かれたものを除き、高い耐震性を有することが、経験的にも解析的にも知られている。このような差異の原因を調べたのが第七章であり、両者の間では基礎地盤の強固さと堤体締固め度に違いがあり、それが耐震性の相違につながっていることが示された。 地震で被災したため池は、原状に復旧するだけでは不十分で、ある程度は耐震性も向上させつつ修復することが重要である。第八章では、論文提出者がこれまでに関係した復旧事例を取り上げ、その効果を検討している。基礎をセメント混合土で強化した復旧事例については、振動台模型実験が行なわれた。この事例では現実には滅多に施工されないと思われるほどに手厚い復旧方法が実施されたが、実験結果は予想通り、ため池が高い耐震性を得たことを示した。これとは対象的に、繰り返し復旧されたにもかかわらず再三被災を繰り返しているため池の事例も、あわせて検討した。堤体の液状化が原因で被災した例では、原状復旧ではまったく不十分であり、繰り返し液状化が発生して被災を被っていることが示された。 本論文の研究目的の一つに、ため池の地震被害予測がある。ため池において最も重大な地震被害とは、決壊と貯留水の越流、下流における洪水である。そこで被害予測においても堤体の変形と沈下の予測が中心的な目的になった。土構造物の変形予測手法のなかで最も強力なものは、非線形動的有限要素解析であろう。論文提出者も、そのような手法の開発に関係しており、その結果が第九章で引用されている。しかし現実には、このような水準の高い手法が実用できるのはまれであり、もっと限定されたデータ量で作業可能な簡易手法の方が実用性は高い。本論文で試用されている簡易解析は、円弧滑り面を用いる極限安定解析である。そこへ水平方向の地震慣性力を静的に考慮し、かつ地中の過剰間隙水圧の上昇を取り込んでいる。数多くの被災事例について簡易解析を実行し、滑り安全率と堤体の沈下量との相関関係を得た。きわめて簡易ではあるがこの手法により、地震時の被災状況を迅速に推定できるようになった。 第十章では大地震直後にため池の被災状況を迅速に推定し、実地被害調査と対応を素早く行なえるようにする方法を、提案した。地震が発生するとマグニチュードと震央位置とは、かなり早い時点で確定する。それをもとに近隣のため池に対して入力地震動を推定し、ため池データベースに蓄積されている形状と土質データを利用して、被災(沈下)程度を算定する。本方法で被害大と推定されたため池は、実際の地震でも大きく被災しているので、推定結果の信頼性は高い。したがって、被害が大きい、と判定されたため池から、現地調査や被災対応を優先的に開始することができる。 第十一章では、今後に残された課題を列挙した。それら課題には、地震動の強さ推定に強震観測ネットワークを利用すること、震度法による安定解析の限界、動的有限要素解析との使い分け、気象条件(地震直前の降雨の有無)が被災程度に及ぼす影響などがある。 第十二章は全体の総括と結論である。 以上をまとめると本論文は、地震動に起因するため池堤体の被災現象を、事例調査、模型実験、解析の三方向から研究したものである。その成果は農業基盤施設であるため池の耐震性向上のために有用であり、地盤工学と耐震工学上の業績は大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |