雌雄の性分化は性染色体の違いから始まり、個体発生の進行にしたがって、まず性腺が精巣または卵巣の形態的特徴を備えるようになる。次いで生殖輸管系とその付属腺、さらに外性器を含む外部性徴が形態分化を遂げ雌雄別々の形態が完成する。 一連の性分化の過程の中で、中枢神経系の機能の雄と雌での違いも形成され、その結果性行動や内分泌動態などの性差が成熟した両性間で見られることとなる。しかしこれらの過程のほとんどは遺伝子の厳密な支配下にあるのではない。哺乳動物における脳の性分化は、出生前後の一定期間(臨界期)にアンドロジェンが脳組織に働くことにより誘導される。特にラット、マウスなどの齧歯類では胎生18日から出生後7日の間という限られた期間(臨界期)のみで脳の雌雄差が形成される。性行動の発現に関する基本形は雌型であり、正常な遺伝的雄では、臨界期に雄型性行動を特徴付ける脳の統御機能への転換が進められると考えられる。その経過に問題があれば、成熟後の性行動と遺伝的性の乖離という問題が生じることとなる。 成熟した両性間で見られる性行動や内分泌動態などの機能的違いは、これらの機能を支配する視床下部における神経細胞の数やシナブス形成パターンなどの脳構造の雌雄差に基づくものである。アンドロジェンは脳の生殖制御機能に重要な視床下部に存在する神経細胞やグリア細胞に作用してその分化に影響し、軸索の伸長やシナプス形成の促進といった現象を誘導する。臨界期に性ステロイドホルモンが介入するか否かによって、ラット視床下部に性的二型性が生じるという事実は、神経回路が未完成の時期に性ホルモンを与えることによって特定の神経回路の形成や成熟が促進されること、言い換えればそのような部位に性ステロイドホルモンによって誘導される脳回路形成の可塑性が存在することを意味している。 脳の性分化を誘導するアンドロジェンは脳の細胞内において芳香化酵素によりエストロジェンへと代謝され、このエストロジェンがエストロジェン受容体に作用して最終的に脳の性分化が誘導されると考えられている。脳の性分化の時期における性ステロイドの作用は遺伝子の転写、翻訳を介したものであると信じられており、臨界期において性ステロイドにより発現誘導される遺伝子群やその翻訳産物を単離することは、脳の性分化のメカニズムを解析する上で重要な研究目標としてとして位置付けられてきた。そこで第1章において、脳の性分化の時期に性ステロイド処置により脳を雄性化した際に、視床下部において発現の上昇する遺伝子を単離することを試みた。脳の性分化の臨界期の中にある出生後2日に、テストステロンプロピオネート(TP)を処置した雌ラット視床下部と未処置の雌ラット視床下部cDNAライブラリーを用意し、cDNAサブトラクション法を行ったところ、グラニュリン(grn)前駆体遺伝子がTP処置により発現が上昇する遺伝子として単離された。 Grnはin vitroにおいて上皮系の細胞を含む数多くの細胞の増殖を制御する成長因子として知られている。 Grn遺伝子は1つの前駆体タンパクをコードしており、そこから約6kDaの7つのペプチドがプロセシングされてくるが、それぞれはgranulin motifと呼ばれる特徴的な12個のシステインを含む特徴的なアミノ酸配列を保有する。これらgrnペプチドのgranulin motifは哺乳類、魚類、昆虫などの種を越えて保存されており、grnペプチドが種を越えて重要な働きを担っている可能性を示唆している。ラットのgrn遺伝子は様々な臓器に発現しているが、特に脾臓、胎盤、卵巣、精巣、精巣上体、副腎、腎臓などのステロイドに反応性の高い臓器での高い発現が観察されている。培養系での細胞増殖に対する作用は数多く報告されているが、in vivo実験系におけるgrn前駆体および7つのgrnペプチドの役割について解析された報告はない。ラット脳においてもgrn遺伝子の発現は確認されてはいるものの、脳における機能については検討されていない。 第2章において、出生1日前から出生後10日にかけての雌雄ラットでの視床下部におけるgrn遺伝子の発現動態を検討したところ、出生1日前から1日後まではgrn遺伝子発現は雌雄同じレベルであるが、その後雄では出生10日までほぼ一定の発現量を示すのに対し、雌では徐々に発現量が減少し、出生10日で雄に比べ1/4となった。すなわち周生期の視床下部においてはgrn遺伝子発現は雌雄で異なる発現パターンを示し、脳の性分化の臨界期の終了に向けて、雄は雌に比べてはるか高い発現量を示した。出生前後の時期には血中アンドロジェン濃度は雄で高く雌で低いことが報告されており、この時期のgrn遺伝子発現量の差は血中アンドロジェン量の雌雄差に起因すると考えても矛盾しない成績であった。 同じく第2章でのgrn遺伝子のプローブを用いたin situ hybridizationの結果から、生後5日齢の雄ラットの視床下部において、grn遺伝子は視床下部腹内側核(VMH)と弓状核(ARC)に特に強い発現があることが示された。VMHやARCは神経核の大きさやシナブス形成パターンに雌維差の観察されることで知られており、grn遺伝子の発現が他の脳領域と比較してこれらの部位で特異的に高いということは、grnが雄ラットのVMHやARCに作用して、これらの神経核に雌雄差を形成している可能性を示唆するものであった。 第3章においては、grn遺伝子発現と脳の性分化との関連を個体レベルで検討するために、grn遺伝子に対するアンチセンスオリゴデオキシヌクレオチド(AS-ODN)を用いて、新生期の雌雄ラットの脳室内に投与して脳の性分化の臨界期にgrnの発現を抑制することを試みた。用いたAS-ODNはin vitroにおいて2種の株化細胞系でgrn mRNAの発現量を低下させることが実証され、さらに新生期の雄ラットの脳室内への投与8時間後において、脳内組織のgrn mRNAの発現量の低下が観察された。これより遺伝子発現の低下に伴うgrn前駆タンパクあるいはgrnペプチドの生成量の減少が誘起できると考えられた。 AS-ODN処置により、雌雄ともその後の体重変化や摂食量に対して影響しなかった。さらにAS-ODN処置の雌ラットでは、性成熟の時期や成熟後の性周期の回帰、ロードーシス反射を指標とした性行動、血中LH濃度、さらには妊娠、分娩に至るまでの経過は正常であった。以上のことからAS-ODN処置が非特異的な脳の障害を引き起こしている可能性が少ないこと、雌型の脳機能の確立には影響を及ぼさないことが示された。 AS-ODN処置雄ラットの雄性行動を観察したところ、mounting、intromission、ejaculationなどの雄型の性行動の発現頻度が著明に減少した。また、AS-ODN処置雄ラットを去勢してエストロジェン処置を行ったところ、少数例ながら雌型の性行動、ロードーシスが誘起され、新生期のgrnの発現は雄ラットにおける雄性行動を司る神経系の形成に必須の役割を演じている可能性が示されるとともに、このような処置を受けた遺伝的雄の性行動は、雌型かそれに近い状態に止まっている可能性が示された。 以上から、cDNAサブトラクションにより単離されたgrn遺伝子は、新生期の脳の性分化の形成過程で、雄のVMHやARCにおいて強く発現し、その発現はアンドロゲンによって誘導されることが示された。またアンドロゲンによって形成される神経系の様々な機能的な性差のうちでも、少なくとも雄性行動を司る神経系の形成に作用する因子であることが示された。 |