学位論文要旨



No 214467
著者(漢字) 長谷川,功
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,イサオ
標題(和) 霊長類前頭前野の長期記憶検索における機能
標題(洋) Role of the primate prefrontal cortex in retrieval of long-term memory
報告番号 214467
報告番号 乙14467
学位授与日 1999.10.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14467号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉下,守弘
 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 加藤,進昌
 東京大学 教授 高橋,智幸
 東京大学 講師 森,寿
内容要旨

 霊長類において感覚情報を受容処理する大脳新皮質の後連合野が陳述的長期記憶の保持と検索に関与することが,複数の知見から示唆されている。癲癇の脳外科手術中に側頭葉の表面を電気刺激すると過去の視覚的、聴覚的体験が甦るという報告がある(Penfield and Perot 1963)。マカクザルの下部側頭葉連合野には、図形連合学習を通じて獲得された視覚的長期記憶をコードする神経細胞群、および図形を想起する必要性に応じて活動が誘導される神経細胞群の存在が示されている(Naya et al.1996)。記憶痕跡の活性化には階層的に異なる頗野間の上行性・下行性の神経結合が重要と思われるが、側頭葉の神経細胞に記憶の想起を促す神経回路の実体に関する知見は極めて乏しい。下行性入力の起源の一つとして考えられるのが前頭前野である。前頭葉の損傷患者では、文脈に関する記憶の障害や記憶検索の方略の適応に特異的な障害が報告されている。本研究では、霊長類の前頭前野は後連合野との相互作用を通じて長期記憶の検索過程を制御することができる,という仮説を検討するために二つの異なる方法を組み合わせた。すなわち、(1)脳梁後半部離断サル標本に図形連合記憶課題を導入した新しいパラダイムによる行動学的実験と、(2)陽電子放射断層撮影法(PET)と機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)を用いた記憶検索課題におけるヒトの脳賦活化実験のメタ分析である。

(1)前頭前野による記憶検索の制御:脳梁後半部離断ザルにおける行動学的実験

 四頭の日本ザルで脳梁膨大部および前交連を切断し、脳梁前半部は正常のまま残した脳梁後半部離断標本を作った。病変の範囲はMRIと髄鞘染色組織切片で確認し、一頭には逆行性蛍光色素を注入して側頭葉間の交連線維は離断され前頭前野間の交連線維は保たれていることを確認した。この標本に図形連合記憶課題を訓練した。この課題は長期記憶課題であり、手掛りとなる図形と予め無作為に対応付けられている図形を二つの選択肢の中から眼球運動により選ぶことが要求される。成績のチャンスレベルは50%である。視覚刺激には2゜×2°のフーリエ図形を用いた。サルに注視課題を行わせている間に、左右何れかの半視野の中に注視点から2.5°外側に手掛り刺激(0.7秒)、選択刺激(0.5-1.0秒)を順次提示した。一次視覚野から下側頭葉連合野に至る大脳腹側視覚経路の半球間の連絡は遮断されているので、末梢からの視覚入力情報は視野と反対側の大脳半球に限局する。強膜磁場コイル法を用いて、サルの眼球位置は刺激呈示期間中注視点から0.5°以内の範囲にあり、注視点が消えてから直線的な軌跡を描いて選択図形に到達することを確認した。このパラダイムを用いて二つの行動学的実験を行った。

 第一に、図形連合学習の大脳半球間転移を調べた。手掛り刺激と選択刺激を同一の視野に提示する「半球内条件」で、三以上の刺激組(二つの手掛り刺激と二つの選択刺激の組)で両半球ともに課題の規則について習熟した後、新しい四つの刺激組を順次用いて計測を行った。まず計測組を片側の大脳半球に学習させ(初学習)、連続した40試行において前半・後半ともに八割以上正解する、という基準に達するまでに要した試行数を計った。計測は一日200試行づつ行った。誤答の後に続く矯正試行やサルが注視を維持できずに中断した試行は、計測には含まなかった。次に同一の刺激組を用いて対側の大脳半球に、同じ基準に達するまで教えるの(再学習)に要した試行数を計った。その結果、脳梁後半部離断ザルと三頭の正常対照群では学習の大脳半球間転移に有意な違いがあった(F(1,5)=19.71;P<0.007,ANOVA)。正常対照群では初学習(297±79試行;平均±標準誤差)に比べて再学習(42±24試行)では有意な学習の短縮(t=4.62;P<0.05,post hoc t-test)が見られたが、脳梁後半部離断ザルでは初学習(257±60試行)と再学習(281±86試行)に有意差はなかった(t=0.67;P>0.5)。各刺激組に対して初学習と再学習で基準に達するまでに要した試行数を各々TC1.TC2とし、(TC1-TC2)/(TC1+TC2)×100の式に従って学習の節約率を計算した。正常対照群では有意に(t=12.99;P<0.006)正の節約率(84±6%)が得られたが、脳梁後半部離断ザルでは節約率(-2±7%)は零と有意に異ならなかった(t=0.27;P>0.8)。従って、図形連合学習は脳梁前半部を介して左右の前頭前野の間で大脳半球間転移しないことがわかった。

 第二に、半球間転移の実験に用いたのと同じ刺激組を用いて、手掛り刺激と選択刺激を別の視野に提示する「半球間条件」で図形連合学習を訓練した。三頭の脳梁後半部離断ザルは皆、この条件で片側の大脳半球に与えた手掛り刺激から対側の大脳半球に与えた対応する選択刺激を正しく選ぶことができた。サルが皮質下の経路や末梢からの手掛りに依存して課題を解いている可能性を排除するため、残存する脳梁前半部をさらに切除する脳梁全離断術を行った。脳梁全離断の前後で半球内条件と半球間条件では成績に異なる影響(F(2,10)=52.79;P<0.0001)が認められた。四つの刺激組それぞれについて一日100試行ずつ二日間の平均の成績を計測すると、半球内条件では左87±5%→86±5%、右89±4%→90±4%と有意な変化がなかった(左t=0.54;P>0.6;右:t=0.72;P>0.5)のに対し、半球間条件では86±4%→54±3%と、有意に低下した(t=18.78;P<0.003)。この結果から、半球間条件の記憶検索の成績は脳梁前半部を介する前頭前野間の連絡により保たれていたことが明らかになった。前頭前野は直接的な視覚入力を受けないときに下部側頭葉連合野に貯えられた視覚的長期記憶を検索する過程を制御できることが示唆された。

(2)記憶検索課題におけるヒトのPET・fMRI脳賦活化実験のメタ分析

 ヒトPET・fMRI実験のメタ分析を行い、言語的なエピソード記憶の再認・再生課題において前頭前野の外側部の活性化がどの研究にも一貫して認められることが明らかになった。右半球には記憶再認課題における賦活部位が多く、左半球には再生課題(手掛り再生、自由再生の両者を含む)と再認課題における賦活部位が混在する傾向があった。今回の分析に含めた13の研究では、記憶検索時の脳の賦活を異なる三つの認知過程の何れかに帰依し得た。即ち、記憶検索の成功に伴う(易しい条件で優位に活性化される)認知過程、検索の努力の強さに依存した(難しい条件で優位に活性化される)認知過程、(難易度に拘らず同じように活性化される)検索の試行に対応した認知過程である。記銘時に与える指示の違いにより記銘の深さを操作するか、検索時に出現する学習済の単語と未学習の単語の比率を操作することにより検索の難易度を設定できる。今回のメタ分析には難易度の高い条件と低い条件を直接対照して各認知過程ごとの活性化部位を検討している研究だけを集めた。予め記憶検索条件と低次元の対照条件との差をとる等の方法で関心領域を設定しているものも、全脳を対象としているものも含めた。分析の結果、前頭前野の特定の領域が記憶検索の成功、努力、試行、の何れの認知過程と対応するかに関しては、研究間で一致した見解が得られず、新しいパラダイムの開発が必要であることが明らかになった。

 脳梁後半部離断ザルにおける行動学的実験から、直接的な感覚入力がないときに前頭前野が後連合野に貯えられた長期記憶を検索する過程に関与することが示唆された。PET・fMRIを用いた脳賦活化実験のメタ分析から、ヒトにおいても長期記憶の検索に伴い前頭前野が活性化されることが複数の研究で一貫して認められた。これらの結果は、霊長類において前頭前野が長期記憶検索を制御することができる、という仮説を支持する。

審査要旨

 本研究は、霊長類前頭前野の長期記憶検索における役割を明らかにするため、脳梁後半部離断サル標本における図形連合記憶学習の行動学的解析と、ヒトの記憶検索課題遂行にともなう脳賦活化実験のメタ分析を組み合わせたものであり、下記の結果を得ている。

 1.日本ザルで脳梁膨大部と前交連を切断し、脳梁前半部は正常のまま残した脳梁後半部離断標本を作った。病変の範囲をMRIと髄鞘染色組織切片、逆行性蛍光色素注入実験で調べると、側頭葉間の交連結合は離断され前頭前野間の交連結合は保たれていることが示された。

 2.この標本に図形連合記憶課題を訓練し、手掛り刺激と選択刺激を同一の視野に提示する「半球内条件」で、図形連合学習の大脳半球間転移を調べた。その結果、正常対照群では初学習に比べて再学習では有意な学習の短縮が見られたが、脳梁後半部離断ザルでは初学習と再学習に有意差は認められなかった。

 3.初学習と再学習で基準に達するまでに要した試行数の差を和で割り、学習の節約率を計算すると、正常対照群では有意に正の節約率が得られたが、脳梁後半部離断ザルでは節約率は零と有意に異ならなかった。従って、図形連合学習は脳梁前半部を介して左右の前頭前野の間で大脳半球間転移しないことが明らかになり、長期記憶は後連合野に蓄えられていることが示唆された。

 4.手掛り刺激と選択刺激を別の視野に提示する「半球間条件」でも、脳梁後半部離断ザルは片側の大脳半球に与えた手掛り刺激から対側の大脳半球に与えた対応する選択刺激を正しく選ぶことができた。

 5.残存する脳梁前半部をさらに切除する脳梁全離断術を行うと、半球内条件の成績は有意な変化がなかったが,半球間条件の成績はチャンスレベルに低下した。この結果から、脳梁後半部離断標本において半球間条件の記憶検索の成績は脳梁前半部を介する前頭前野間の連絡により保たれていたことが明らかになった。前頭前野は直接的な視覚入力を受けないときに下部側頭葉連合野に貯えられた視覚的長期記憶を検索する過程を制御できることが示唆された。

 6.PET・fMRI法によるヒトの脳賦活化実験のメタ分析を行い、言語的なエピソード記憶の再認・再生課題において前頭前野の外側部の活性化がどの複数の研究に一貫して認められることが明らかになった。右前頭前野には記憶再認課題における賦活部位がより多く、左前頭前野には再生課題(手掛り再生、自由再生の両者を含む)と再認課題の賦活部位が混在する傾向にあった。

 7.右前頭前野背外側部前方に、記憶検索の成功に伴う活動が優位だという報告もあったが、分析の結果、前頭前野の特定の領域が記憶検索の成功、努力、試行、の何れの認知過程と対応するかに関しては、今回の分析に含めた13の研究では一致した見解が得られず、新しいパラダイムの開発が必要であることが明らかになった。

 以上、本論文はニホンザルの脳梁後半部離断標本における行動学的実験から、直接的な感覚入力がないときに前頭連合野が後連合野に貯えられた長期記憶を検索する過程に関与し得ることを明らかにし、また脳賦活化実験による記憶研究のメタ分析から、ヒトにおいて長期記憶の検索時に前頭連合野が一貫して活性化されることを明らかにした。本研究は、霊長類の前頭連合野が後連合野との相互作用を通じて長期記憶の検索過程を制御することができる、という仮説を支持するものであり、これまで未知に等しかった、霊長類前頭前野の長期記憶検索における機能の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク