本稿は中世公家政権の独自の意義と、それを維持するシステムが社会状況の進展と多様化に照応してどのように変化していったのかをさぐろうとするものである。公家政権を下から支え、その様式や継続性を保障した実務官人の研究から出発し、同政権の経済基盤と存在意義の分析、さらに文化的・社会的背景の検討に及ぶ。 公家政権が主宰する公事は、天皇の代替わり、四季の移り変わり、二十年ごとの伊勢神宮の造替など、一定のスケジュール管理にのっとって、全国的な平均役徴収に支えられる大規模なものから、簡単な年中行事にいたるまで、さまざまなレヴェルで実施された。故実・先例にもとづいた複雑な手順によって行われる儀式・事業は、自然の循環や時間の流れを人々に認識させるとともに、必要に応じて多数の商工業者が召集・組織されて、さまざまな品物を調達、高度の技術を発揮するなど、当時の社会における最高の文化的達成が示される機会だったのである。公事と、それを支える緻密に組上げられた官制体系は、中世という混沌とした社会において傑出した意義をもっており、人々が一定の世界観、自己同一性をみいだす手がかりになっていたと考えられる。その装置を維持するために要するコストは破格であったが、同政権は律令制に発する全国支配の構想を基盤とし、人々の共感を汲み取り、富を吸収することによって、これをまかなっていたのである。 鎌倉幕府の成立、さらに承久の乱での敗北によって、公家政権は武家政権に凌駕され、影響力を低下させていったが、そのことは公家政権の敷居を低くする効果を生み、物心両面での人々の通交の活発化とあいまって、広範な層に門戸が開かれることになった。官職の価値は下落し、公事の費用を調達するためには、より多くの任官希望者を募ることが必要となった。幕府は御家人の成功を一括管理して朝廷に仲介するとともに、助成金の進献、賦課徴収業務の代行等、さまざまな援助を与えたのである。 中世貴族社会は貴姓氏族と卑姓氏族との絶対的な懸隔という上下分離の原則に大きく規定されていた。後者に属して「地下」に終始する人々は実務官人層として一定のまとまりを持っており、太政官弁官局の官務小槻氏、同外記局の局務清原・中原氏、院庁の庁務安部氏等、上首ポストを独占世襲した家柄を中心に、公家政権の様式性の維持・継承をになっていた。彼ら実務官人層においては、自家の存続と職務の遂行、関係する組織の資産と家産とは一致しており、さらに"地下"に限定されているために政治的浮沈からは遠く、文筆の技能の継承や、文書の保管等、公家政権の骨格を安定的に保障する役割を果たした。ただし、彼らによる保障は、いわば最低限のものにとどまり、実態の疲弊、形式性のみの肥大という傾向は否めなかったといえよう。また、上下の階層が画然と区分されているために、上意下達的な命令系統が機能せず、個々の職務についての賞罰や任用システムが不明確で、停滞と混乱に拍車をかけたという側面が指摘できる。 さて、実務官人層の立場を官吏的とすれば、もういっぽうに院近習の系譜をひくと位置付けられる侍層がいる。知行国支配においては、国主のもとで前者は国雑掌、後者は目代としてあらわれる。国雑掌に求められるのは、律令的様式にのっとった文書作成能力だったが、目代の方は、家産経営の先鋒として収益をあげるのを第一義としたものである。侍層は、時の権勢者と結んで、知行国や荘園等の管理を担当し、現場の状況に応じた経営努力によって都に富をもたらし、必要に応じて造営事業等を指揮する、いわば散文的役割をふりあてられていた。実務官人層にしても、借上等の金融業者と関係を結んで、各人が独立した経営体として活動している一面もあり、両方の性格の葛藤を抱えていた。後者は前者を次第に圧倒したが、完全に滅ぼすにはいたらなかった。 賦課を通じて公事に対する人々の共感を汲みげるという理念を、実際に在地に課したのが一国平均役である。その起源は、院の超越的高権の表明である王土思想にあるが、院が免除申請に対する認可権を独占的に行使することによって、あたかも全国の一元的支配が実現されているような虚構が演出されているのが実情だったといえよう。徴収にあたっては、武家政権の発足時から、武家への依存があらわれており、同時に有力権門に対しては徴収免除や現地への入部免除等の手心が加えられた。貴族社会内部においては、段別賦課のような事務的に割り切った方式は見苦しく、好意に基づく献金で代えるのが望ましいとする美意識もみることができ、所領を基準とする収取関係が、人格的結合にすりかえられていく傾向があらわれている。また、一国平均役と一口にいっても、その対象となる公事の種類によって、公家政権の関わり方は異なり、たとえば伊勢神宮が主体となる役夫工米徴収と、朝廷が主宰する大嘗会役の徴収とを同列に論じることはできない。とくに後者については、結局は幕府の徴収努力と献金が頼りにされることになったのである。公家政権は在地への一律賦課の発想から後退し、貴族社会内部での共生関係へいわば内向化していったが、それで不足する分の補填や、共生の範囲からはずれた一般荘園への働きかけは武家政権に任され、大きな負担をもたらすことになった。この問題に対処するために、公家・武家の連携のうえに定められたのが弘長3(1263)年の新制であり、公家政権の本来の財源を整備するとともに、撫民の必要性がうたわれていた。しかしながら、公家政権の公事の本質は、王土の民たる民衆を代表して、神仏との間におりあいをつけるところにあって、民衆の抱える問題と直接正対する性格のものではなく、撫民思想とは相容れない。幕府は、公事の後援と撫民という矛盾するふたつの課題を抱えこんでしまったわけである。公事と撫民との関係については、徳大寺実基の奏状にみられるような神事興行の合理化を求める提言も出され、民衆の負担に対する意識は確実に高まっていた。ただ、これが現実に生かされるにはいたらなかったのである。 一方で、公家政権は京都の都市的発展、全国的な経済・流通の進展とかかわって、その組織や財政構造を再編成していった。朝廷の諸官司は、基幹的な文書行政を支えるためのものと、特定の物品や技術の調達を主とする、いわば経済的官司とに分けることができ、前者は実務官人層により、後者は富裕な受領層とその系譜をひく人々によって担われていた。後者は、もともと受領として得た富をつぎこんで院に奉仕する場であったが、鎌倉期に入ると、逆に当該官司の所領経営、関係諸業種への課税等を通じて、これを収益源・得分権として再編成しようとする動きが生じる。西園寺家による左馬寮、菅原為長の大蔵省、四条・洞院家と修理職等である。これらの長官層が特定官司との関係を深め、条件を整備してゆくのにともない、実務官人層が担当する年預の地位についても、特定の家柄が独占世襲を求める傾向があらわれる。とくに文永〜弘安期に、相伝化をめぐる衝突が顕在化しており、この時期が経済構造の変革期にあたっていたことを感じさせる。ただし、これらの相伝化への意欲は、官司の経済的発展を意味するのではなく、むしろ固定化した権益の奪い合いであって、活性の低下を反映しているという点を忘れてはならない。 このような情勢のなかで、実務官人層の役割は後退し、侍層の経済活動が前面にあらわれる。彼らは神輿の造替、内裏の造営等の大事業の際に、多額の資金を負担したが、これは一般的な生産・流通の条件の整備を前提として、全国的なネットワークを持つ金融業者と連携することによって実現されたと考えられる。所領経営・資金調達等にあたって、さまざまな金融的操作が行われるようになっており、公事の実施による人心の結集という理念は背景に退き、あらゆるものが銭貨に換算可能となっていった。 さらに、貴族社会における皇統と貴族達との関係にも変化があらわれる。知行国・官司から得られる利益が固定化し、経営担当者の才覚を生かす余地のなくなった段階では、それらを配分する権利を持つ治天の君の地位が相対的に高まり、貴族達は"朝恩"を待ちのぞむだけの存在となったのである。さらに治天の君の地位も、両統迭立の状況下で不安定であるとともに、幕府の意向をうかがう存在にすぎず、またそれぞれの皇統を強化するために、一般貴族と同様に相伝所領の拡大を求めるようになっており、王権の超越性は失われてしまったといえる。 鎌倉時代は後醍醐天皇という強烈な個性の出現によって幕を閉じる。彼の本質は徳治思想と肥大した自我との混淆であって、公家政権の伝統的構想を再現し得るとする奢りは、二年余にして、その政権を瓦解させたのである。 |