本論文は1,5-アンヒドロ-D-グルシトール(AG)の生体内での役割解明を目指したもので3章よりなる。AGはグルコースの1-デオキシ体であり、ヒトを含め広く動植物界に存在している。ヒトの血液中の濃度はグルコースの40分の1ほどであり、摂食などの影響を受けず一定値に保たれているが、糖尿病においてのみ特異的に減少することが分かっている。しかしAGの生体内における代謝や役割については全く明らかになっていなかった。そこで申請者はAGの代謝および生埋学的役割を解明する目的で、ほ乳類よりも単純な代謝系を持つと考えられる細菌(E.coli C600)を用いて研究を行った。 第1章ではE.coli C600がAGを合成することを示している。E.coliを、炭素を13Cに置き換えた[U-13C]グルコースと通常のグルコースを1:1の割合で含む培地で培養し、合成されたAGをGC-MSで分析した結果、[U-13C]AGと通常のAGの1:1混合物が大部分を占めることから、AGは主にグルコースから、その炭素骨格を保ったまま合成されることを明らかにしている。 またAG合成は定常期初期に急激に起こり、細胞内および培地中に一過性に蓄積すること、AGの蓄積は細胞密度、培養開始期のグルコース濃度、培養時間にはかかわりなく、培地中のグルコースが枯渇した時点で必ず起こることを示し、グルコースの欠乏がAG合成を誘導することを推察した。さらにcAMPがAGの細胞からの放出を抑え、またAGの消費も遅らせると述べている。 第2章ではE.coli C600がAGをAG6Pに代謝することを明らかにした。グルコース欠乏下でAGを培地に加えると、E.coliは直ちに取り込み、培地にはAGがほとんどなくなる。E.coliは取り込んだAGをリン酸化し、大部分をリン酸エステルの形で培地中に戻していることが示された。このリン酸エステルを同定するために、E.coliに[U-13C]AGを与えて作らせた[U-13C]AGPを部分精製し、13C-NMRによりAG6Pであることを突き止めた。GC-MSによってもAG6Pであることが確認された。リン酸化糖を細胞外に放出することは通常はあまり起こらないことであるから、AG6Pを汲み出す特異的な輸送系が存在することが示唆された。 第3章ではE.coli C600には、グリコーゲンが先ず1,5-アンヒドロフルクトース(AF)に分解され、ついでAG、さらにAG6Pに代謝されるという新たなグリコーゲン分解経路があることを示した。AFからAGへの還元反応は培地中にグルコースが欠乏した後でなければ活性化されないことも示した。これらの事実はAGがグリコーゲン代謝の調節に関わっていることを示唆しており、実際、培地に加えた低濃度(5M)のAGがグリコーゲン分解を40%も促進することを証明した。 AGがE.coliのグリコーゲン代謝調節のメカニズムにおいて果たす役割は次のようなものと推察している。グルコースが豊富にあるときはE.coliはグリコーゲンを蓄積し、同時にその一部を蓄積量依存的にAFへと分解する。生成するAFの量は重量で比較してグリコーゲンの約1/1000であり、その殆どが培地中に蓄積する。培地中のグルコースが枯渇しグリコーゲンの利用が必要になると、培地中に蓄積していたAFが急速に取り込まれ、AGへと代謝され、このAGがグリコーゲン分解を促進する。グリコーゲン分解の促進がもはや不要になると、AGはリン酸化されてAG6Pとなり大部分は細胞外に放出されてグリコーゲン分解に影響を与えなくなる。 また、AF、AGともいったん細胞外に放出されては取り込まれることを考慮し、これらが環境の栄養状態を知らせるような細胞外シグナル分子の役割を持っている可能性があることを指摘している。 このように、本研究によりAG、およびグリコーゲンの新たな分解経路の存在意義がE.coliで明らかにされた。生物界に広く存在していると考えられるAGおよびこの分解経路を研究するに当たり、本研究は重要な足がかりとなるであろう。また本研究により指摘されたAG等の細胞外シグナル分子としての可能性は、すでにE.coliのquorum sensingに関与するシグナル分子という形の研究を誘発した。 以上本論文はE.coliでAGの合成、およびグリコーゲンの新たな分解経路の存在を証明し、その存在意義を明らかにしたものであり、学術上きわめて有用なものと考えられる。なお、本論文第1章は水野秀昭氏、赤沼宏史氏との、第2章は亀谷俊一氏、水野秀昭氏、赤沼宏史氏との、第3章は亀谷俊一氏、門倉健氏、赤沼宏史氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)を授与できると認める。 |