エステルは酒類に含まれる香味成分のうちで最も重要な成分の一つで、とりわけ酢酸イソアミルは酢酸エチル、カプロン酸エチルと共に吟醸香として日本酒では重要視される香気成分である。一方、ビール醸造では、これらのエステルが突出して香気バランスを崩すことを嫌い、過剰なエステル生成を抑制するために主発酵の前に短時間の通気を行ってきた。また吟醸酒を作る際には脂肪酸含量の高い米の周辺部分を除去してエステル含量を増やしてきた。しかしこれらの制御は経験的なもので論理的な説明はできなかった。 このように酒類醸造上その制御が望まれることから、エステルの生成機構についてはこれまで多くの研究が行なわれてきた。その結果酢酸イソアミルはアセチルCoAをアセチル基供与体としてイソアミルアルコールからアルコールアセチルトランスフェラーゼ(AATase)によって生成されること、AATase活性が不飽和脂肪酸(UFA)によって阻害されることが明らかになり、通気によって供給された酸素により脂肪酸が不飽和化され、このUFAがAATase活性を阻害するモデルが提唱された。さらにAATaseの大部分の活性を担うAATase Iが完全精製され、そのアミノ酸配列を基にSaccharomyces cerevisiaeよりAATase Iをコードする遺伝子ATF1が、下面発酵ビール酵母S.pastorianusからATF1遺伝子のホモログLg-ATF1がそれぞれクローニングされた。さらにAATaseの部分的な活性を担うAATase IIが完全精製され、このタンパクをコードするATF2遺伝子もS.cerevisiaeからクローニングされた。 著者は今回報告する一連の研究を通じて、エステル生成の制御機構についての基礎的知見を蓄積し、酒類醸造における香気制御に貢献するため、AATase活性をコードする遺伝子群、およびその発現制御系の分子生物学的解明を行った。 1.S.cerevisiaeにおけるATF1遺伝子の転写 下面発酵ビール酵母において酢酸イソアミルの生成は酸素及びUFAによって抑制される。AATase活性の低下が酢酸イソアミルの生成抑制の原因となっていることが判明したことから、この酵素活性の低下とAATaseをコードするATF1遺伝子転写レベルとの関連を調べるため、解析の容易なS.cerevisiaeを用いて解析を行った。 酸素やUFAがATF1遺伝子の転写に影響を及ぼすかどうかを調べるために、嫌気培養した酵母を、好気培養にシフトする、あるいは嫌気下でオレイン酸を加えるという2条件下でATF1遺伝子の転写量をノーザン解析により測定した。その結果、ATF1遺伝子の転写産物は両条件下で速やかに抑制された。 さらにUFAとATF1遺伝子の転写抑制効果の関係を調べるため、嫌気培養に種々のUFAを添加し、ATF1遺伝子の発現量を測定した。ATF1遺伝子は多くのUFAによって転写抑制を受けたが、その効果はUFAの種類によって大きく異なった。ATF1の転写抑制効果とUFAの融点の相関を調べると、融点の低いUFAほどATF1遺伝子の転写抑制効果は高く、逆に融点の高いUFAでは転写抑制効果が弱いことが示唆された。 UFAによって転写抑制を受ける遺伝子として-9UFA合成遺伝子であるOLE1が知られている。そこでOLE1遺伝子についても嫌気培養系で種々のUFAを添加し、転写抑制効果を調べたところATF1遺伝子同様、融点の低いUFAほどOLE1遺伝子の発現を強く抑制した。さらに、OLE1遺伝子は、アシル-CoAシンターゼをコードするFAA1,FAA4遺伝子の二重破壊によって、UFAによる転写抑制から解除されることが報告されている。faa1,faa4二重遺伝子破壊株においてATF1のUFAによる転写抑制について調べてみたところ、抑制が解除されることが明らかとなった。以上の結果は、ATF1遺伝子とOLE1遺伝子は共通の機構で転写制御されている可能性を示唆する。 2.ATF1遺伝子の転写制御メカニズムの解明 ATF1遺伝子の転写活性・抑制の分子機構を解明するため、プロモーター領域の解析を行なった。プロモーターの5’側からの段階的欠失、あるいは内部欠失をもつプロモーターの解析から、転写活性化に必須な領域、UFAによる転写抑制に必須な領域、酸素による転写抑制に必須な領域の存在がそれぞれ同定された。18-bpの転写活性化に必須な領域をCYC1のUAS欠失プラスミドに連結したところ、UAS活性とともにUFAによる転写抑制が確認されたことから、転写活性化に必須な領域とUFAによる転写抑制に必須な領域は重複している事が示された。 これらの制御を受ける領域に作用する転写因子を明かにするため、既知転写因子の結合配列を検索したところ、転写活性化に必須な領域には解糖系酵素遺伝子などの転写活性化を担うRap1pの結合配列が、酸素による転写抑制に必須な領域には低酸素性リプレッサーであるRox1pの結合配列が見いだされた。そこで、Rap1pもしくはRox1pのゲルシフトアッセイを行なったところ、Rap1pは転写活性化に必須な領域に、Rox1pは酸素による転写抑制に必須な領域にそれぞれ結合した。 Rox1pは標的遺伝子の転写を抑制するために、グローバルリプレッサーであるTup1p/Ssn6p複合体の介在を必要とする。そこでrox1,tup1,ssn6各遺伝子破壊株におけるATF1遺伝子発現を検討したところ、酸素によるATF1遺伝子の抑制が部分的に解除された。これらの結果から、これまで提唱されてきた、酸素が不飽和脂肪酸を作ってこれがエステル生成を抑制しているという仮説は誤りで、酸素は単独の経路を介して不飽和脂肪酸と平行してエステル生成抑制を行なっていることが明らかになった。 ATF1遺伝子の発現は窒素源の豊富な培地で顕著に起こるため、窒素源シグナルを仲介するA kinaseホモログSch9pがATF1遺伝子の転写活性化に関与する仮説を検証し、sch9遺伝子破壊株においてはATF1遺伝子の発現が顕著に下がることを明らかにした。一方、A kinaseの制御因子BCY1の遺伝子破壊株ではA kinaseが強力に活性化しているにもかかわらず、ATF1遺伝子の発現量は変化しなかった。これらの結果は、ATF1遺伝子の転写活性化に効果的なシグナルは糖源よりもむしろ窒素源であり、Sch9pがRap1pの活性化に関与している可能性を示唆する。 3.S.pastorianusにおけるATF1、Lg-ATF1の解析 実際にビール醸造に用いられる下面発酵ビール酵母のATF1及びLg-ATF1を解析した。現在Saccharomyces属酵母は、S.cerevisiae、S.bayanus、S.pastorianus、S.paradoxusに分類されている。ATF1遺伝子及びLg-ATF1遺伝子がこれらの種々の酵母の中でどのような分布をしているかを、パルスフィールド電気泳動で染色体を分離、サザン解析した。その結果、ATF1遺伝子はS.cerevisiaeの15番染色体、下面発酵ビール酵母の1000及び1050kb染色体に存在し、S.bayanusには存在しないことが明らかになった。一方Lg-ATF1遺伝子はS.bayanus及び下面発酵ビール酵母の850kb染色体に存在し、S.cerevisiaeには存在しなかった。このことから下面発酵ビール酵母はS.cerevisiaeとS.bayanusの交雑種であることが示唆された。また、Lg-ATF1遺伝子の酸素及び不飽和脂肪酸に対する挙動を調べたところ、ATF1遺伝子同様どちらの条件においても転写が顕著に抑制された。 4.S.pastorianusにおけるATF2の解析 S.pastorianusのATF2遺伝子をS.cerevisiaeのATF2遺伝子をプローブとして用い、クローニングした。蛋白質コード領域は、S.cerevisiaeのATF2遺伝子とDNAレベルで99%、アミノ酸レベルで100%の相同性が認められた。ATF2遺伝子の由来を調べるためにS.cerevisiae、S.bayanus及び下面発酵ビール酵母S.pastorianusの染色体をパルスフィールド電気泳動で分離し、サザン解析した。その結果ATF2遺伝子はS.cerevisiaeからは検出されたが、S.bayanusにはからは検出されなかったことから下面発酵ビール酵母のATF2遺伝子はS.cerevisiae由来であることが示唆された。ATF2遺伝子発現は、酸素によってATF1、Lg-ATF1遺伝子同様強い抑制を受けるが、UFAによる抑制は全く受けないことが示された。 5.まとめと考察 ATF1遺伝子は転写レベルで制御を受けており、その機構は図のようなモデルにまとめることができる。 図表 UFAによる制御は、プロモーターに作用する蛋白を同定することはできず、機構の解明は今後の研究に待たれる。現在いくつかの研究室でOLE1のUFAによる転写抑制因子の取得が進行中であり、これが判明すればATF1の制御に応用できる。 膜の流動性は融点の高い飽和脂肪酸と融点が低いUFAの比率で決まる。一般にビール醸造が行なわれる低温では膜の流動性が低下するため、不飽和脂肪酸を増加させることにより流動性の恒常性を維持しようとする。不飽和脂肪酸合成を担う遺伝子としてOLE1が知られているが、今回の研究でOLE1とATF1の種々の不飽和脂肪酸に対する挙動が同じであり、制御因子を共有しているという結果は、ATF1が単にエステルを生成する酵素ではなく、生体膜の恒常性維持に寄与している可能性を示唆している。 さらに、Rap1pがOLE1遺伝子やATF1遺伝子の転写活性化に寄与していることも興味深い。Rap1pの結合配列は、リボゾームや解糖系遺伝子のプロモーターに広く存在しており、増殖の開始や維持に関係していることが想像される。嫌気発酵の初期にリボソームや解糖系遺伝子とともにOLE1遺伝子やATF1遺伝子が発現し、嫌気発酵では合成できないUFAを蓄積しようとする事は極めて合目的である。 またビール酵母を用いた解析により、ATF1遺伝子という観点からは下面発酵ビール酵母S.pastorianusがS.cerevisiaeとS.bayanusの交雑種であることが示唆された。ATF2遺伝子についてはビール酵母中にS.bayanus由来のLg-ATF2と呼ぶべき遺伝子が存在することを期待してクローニングを行なったが、S.cerevisiae由来のATF2遺伝子しか存在しなかった。S.pastorianusは3-4倍体といわれており、必ずしもS.cerevisiaeとS.bayanusの両遺伝子をもっているとは限らないが、おそらくLg-ATF2遺伝子は抜け落ちてしまった遺伝子であると想像される。 このように先達者の経験により知られていたエステル生成量の制御技術についてエステル生成遺伝子を用いて解析し、細胞内でのメカニズムを分子レベルで説明することが可能となった。今後これらの基礎的知見がエステル制御技術更には香りの良い酒類を造ることに役立つことが期待される。 |