はじめに 嚥下研究の多くは、嚥下の急速で複雑な運動の時間的経過を一般に3つの過程に分けて行われている.bolusの移動状態の時間的経過からは口腔相,咽頭相,食道相(phase)の3相に,神経機構における出力の時間的経過からは嚥下第I期、第II期、第III期(stage)の3期に各々分類されている.口腔相はX線側面透視所見にて舌により口腔内に保持されていたbolusが後方に移動し,その先端が口峡部を通過する時点までを言う.咽頭相はbolusの後端が食道入口部を通過するまでを言い,食道相は胃食道吻合部を通過するまでとされている. 一方嚥下第I期(口腔期)は随意期で口腔内で後方に送られたbolusによって嚥下反射が惹起される直前までを言う.嚥下第II期(咽頭期)はこの嚥下反射とともに開始される.しかし嚥下第II期の反射運動における各部位の動きは嚥下量や,嚥下物の物性あるいは体位などにより異なることがあるため,咽頭相の開始時点と嚥下第II期の開始時点とに「ずれ」を生じる可能性がある.したがって末梢あるいは中枢神経系の異常により、嚥下の位相(phase)と期(stage)に一定の許容範囲を超えた「ずれ」を生じることによって嚥下障害は起こり、この「ずれ」は正常者では代償されると言われている. 近年造影剤等の物性に関する研究並びに固形造影剤の嚥下動態に関する研究がなされている.前述の様に正常者の場合にはbolusの物性の応じて嚥下量を調節する事により相と期の「ずれ」を代償していると考えられるが、これまで嚥下物の性状と1回嚥下量を厳格にコントロールして行われた報告は少ない. そこで、正常者において体位により嚥下の位相と期に「ずれ」が実際に生じることを確認するために、ジャイロスコープを用いて下咽頭食道透視側面像の観察を行った. 次に口腔内にふくませる嚥下物の量を段階的に増加させることにより1回に嚥下し得る最大量(最大1回嚥下量)を機能的に測定し、嚥下物の物性の違いに対するこの最大1回嚥下量の変化の意義について検討した. さらにより一般の嚥下動作に近い連続嚥下において1回嚥下量を測定し、嚥下物の物性による変化を観察した.またこれを最大1回嚥下量と比較検討した. これらの結果により、正常な嚥下が行われるために代償され得る相と期の「ずれ」および嚥下時のbolus形成の調節機構について考察した. 実験1 ・方法:被験者として正常成人男性10例を対象とした.嚥下物として粉末硫酸バリウムを充填した日本薬局方4号カプセルを用いた.被験者をジャイロスコープのベッドに固定し立位、45度、仰臥位の各々の側面透視像をVTR録画した.これを動画ファイルとしてパーソナルコンピューターに取り込み、カプセル型固形造影剤の中心点と舌骨体部の中心点の座標を計測し解析した. 解析に際し、カプセル型固形造影剤が口峡部を通過した時点を嚥下の咽頭相の開始の時間的指標とし、舌骨上筋群の活動が開始されたと考えられる舌骨の前方運動の開始時点を嚥下第II期の開始の時間的指標として選んだ. ・結果:全例で誤嚥することなくカプセル型固形造影剤は嚥下されたが、45度の体位ではカプセル型固形造影剤の口峡部の通過に比べ、舌骨の前方運動が大きく遅れ、立位および仰臥位ではほぼ一致するかむしろ舌骨の前方運動が早かった.この結果より、体位によって嚥下の位相と期に「ずれ」が実際に生じることが確認され、今回行なった体位では45度の体位で「ずれ」が最も大きかった. 実験2 ・方法:被験者として器質的、機能的疾患の認められなかった男性37例、女性12例を対象とした.嚥下物としては水、およびキッセイ薬品工業社製食品増粘剤スルーソフトSの2%溶液を用いた.それぞれを10ml毎の漸増法にて出来るだけ多く1回嚥下させた.この直後に口腔内残留物を吐き出させ実際の1回嚥下量を測定した.二種類の嚥下物についてそれぞれ嚥下試行量に対して実際の1回嚥下量を示す嚥下試行量-1回嚥下量曲線を作成した. ・結果:今回行った49症例の嚥下試行量-1回嚥下量曲線を水、2%スルーソフトS各々について分類すると以下の4群に大別できた.これらを仮にA群、B群、C群、分類不能群と名付ける. 即ち実際の1回嚥下量が (A)嚥下試行量と共に単調に増加するもの (B)増加の後平坦化しプラトーを形成するもの (C)ピークを迎えた後減少するもの、あるいは減少の後平坦化するもの(分類不能)明らかなパターンを示さず上記3群に分類できないもの 図表 B群とC群で最初のピークをP点(Peak点:最大1回嚥下量)とし、C群即ち1回嚥下量がピークを迎えた後に平坦化した時の1回嚥下量をF点(Flat点:無関位嚥下量)とした.水、2%スルーソフトSの両者で共に最大1回嚥下量を観測できた例は49例中25例(25/49)であり、その両者の差は3〜40mlと個人よってバラつきがあるが、常に水の最大1回嚥下量の方が多いと言える. 実験3 ・方法:被験者として器質的、機能的疾患の認められなかった男性9例、女性1例を対象とした.嚥下物として水、と2%スルーソフトSを用い、300ml程度から連続嚥下させ、嚥下総量をこの嚥下回数で割り、連続嚥下における1回嚥下量を算出した. さらにこれらに被験者に[実験2]に準じ、水、および2%スルーソフトS各々で試行量を10mlずつ増加させて行き、正常な嚥下動作が不可能になるまで嚥下試行回数を増加し、嚥下試行量-1回嚥下量曲線を作成した.この嚥下試行量-1回嚥下量曲線上に連続嚥下における1回嚥下量を重ね合わせ比較した. ・結果:無関位嚥下量(F点)を確認できた症例では、連続嚥下における1回嚥下量の中に無関位嚥下量に近い数値を見いだせるが、最大1回嚥下量(P点)とは一致し難い.これは水、スルーソフトS両者で同様である.また連続嚥下における1回嚥下量は水、スルーソフトS両者で[実験2]の様な明確な差の見られない被験者が多かったが、統計学的には両者の差の有無について確認できなかった. 考察 現在までに嚥下物の物性の違いによる嚥下動態については様々な報告がなされている.正常者では、口峡を越えたbolusによってひとたび嚥下第II期の反射が惹起されるとそれに関与する筋群の筋活動は一定のkinesiological patternをとり、体位および嚥下物に関係なく常に一定の作動様式が見られ、また正常者では液体造影剤と固形造影剤の咽頭通過時間に差は認められないとされている. 実験2で水、2%スルーソフトSの両者で最大1回嚥下量を規定できた例では、ほぼ全例で2%スルーソフトSの方が約20ml程度少なくなっており、bolusの咽頭通過時間が一定であれば、この結果は最大努力という負荷を与えられた嚥下の場合に、粘性の高いスルーソフトSの方がbolusの単位時間あたりの移動量(体積)が少ないことを示している.即ち1回の嚥下動作で嚥下しきれない量の物質が口腔内にあった時の嚥下動態に関して次の様な2つの考え方ができる. (1)舌根部でbolusの後端が形成される際に、その嚥下物の物性を判別し、bolusの量を調節しながら舌根部がbolusを咽頭へ送り込んでいる. (2)舌根部でbolusの後端が形成される際に、その物性に応じた移動速度を持つbolusが舌根部の位置で分割された後に、舌根部によって咽頭へ送り込まれる. 実験3における連続嚥下という負荷を与えられた嚥下の場合でも、もし嚥下物の物理的な性質によりbolusの量がpassiveに規定されているのならば、1回嚥下量は最大1回嚥下量と同様に水で多くなると考えられる.今回の方法では水、2%スルーソフトSの両者の差の有無については統計学上確認できなかったものの、その1回嚥下量に水、2%スルーソフトSの両者では明確な差の見られない被験者が多かった. 実際の摂食では、bolusの性状は固形物の場合にも咀嚼、撹拌によりほぼ一定の状態となり嚥下される為、また常に最大努力を要求される嚥下でもない為、物性の違いによる1回嚥下量が意識されることはない.正常者ではひとたび嚥下反射が惹起されるとそれに関与する筋群の筋活動は一定のkinesiological patternをとり、local feedbackはないとされている.これは嚥下が気道と交差する極めて危険な時期であるために、融通性を持たない固定の神経機構からの出力パターンを有していた方が安全かつ確実に気道が保護できるためと考えることができる. 今回行なった最大1回嚥下や連続嚥下のような負荷を与えられた場合には、その1回嚥下量は少なくとも嚥下第II期終了以前までに、bolusの性状に応じて、前述のような何らかの方法で調節されている事が示唆されるが、その具体的方法については明らかにすることはできなかった.また連続嚥下の際、その1回嚥下量は最大1回嚥下量より少ない量で規定され、最大1回嚥下量の様にbolusの物性の変化に大きく影響を受けることはない.このことは連続嚥下では最大1回嚥下量比べより小さなbolusを形成することにより、強固な嚥下反射が破綻せぬように安全に嚥下を終了させるような調節がなされていることを示唆している. まとめ 今回の研究では嚥下第I期から嚥下第II期の間でbolusの物性に応じて1回嚥下量の調節を行い、位相と期の「ずれ」を代償するような機構が存在する可能性について考察した. |