寛政九年(一七九七)十一月、本居宣長『古事記伝』第十七巻附巻として、一冊の書が刊行された。服部中庸による『三大考』と題されたその書は、十枚の図とその解説から成り、『古事記』神代巻の解読をつうじて世界の成り立ちを説くものだった。その内容には、宇宙を天・地・泉(=黄泉)の「三大」から構成される三元的世界とし、また須佐之男命の統治する泉国と月読命の統治する夜之食国とを同一の国とするなど、いずれも神話的世界像に関わる部分で『古事記伝』の説とは異なる独自の主張が多く含まれていた。宣長が何故このような書を、みずからの学問研究の集大成である『古事記伝』の附巻としたのか。それを考えるには、従来の「文献学的」と称されるような『古事記伝』への評価から離れ、『古事記伝』を執筆することで宣長が『古事記』から導きだそうとしたのがどのような世界像だったのか、言葉を換えれば、宣長はいかにして『古事記』を神話テクスト--世界の成り立ちや物事がいまかくある由来を語るテクストという意味での--として読み得たのかを問うことが必要になる。そのような観点から、『古事記伝』に集約される宣長の古典研究の営みを捉えなおしてみることを、『三大考』という書物の存在が要求しているのである。 したがって、本論文では、『三大考』の具体的分析をつうじて『古事記伝』へと遡ることにより、『三大考』そして『古事記伝』をそれらの描き出した神話的世界像という観点から位置づけ直す。それには、宣長以前の段階で神話的な世界像がどのようなかたちで存在したのか、またそれが歴史をつうじてどのように具体的な変遷を遂げたかについても知る必要があり、また、いかなる時代的背景において、宣長が自らの神話的世界像を導き出さねばならなかったのかという点についても考察しなければならない。 このため、第一章では、中世におけるアマテラス像という具体的モチーフを例とし、神話の変容過程の一端を窺うと同時に、宣長以前の段階で存在した神話的世界像の特質を探ることを試みた。 中世に入って、それまでの古代とは異なるアマテラス像を描き出したテクストが多数現れるようになる。そこに描かれるのは、世界のはじめ、「大日の印文」とともに出現し、「第六天魔王」と契約を交わし魔王の障碍を未然に防ぐことで陰からこの国の仏法を保護し、その魔王から三種の神器のひとつである「神璽」を受け取る存在としてのアマテラスである。このようなアマテラス像が、なぜ中世になって出現することとなったのか。この中世のアマテラスに関する多様なテクストを手がかりとして、古代の帝国的世界像とは異なる世界像--天竺・唐土・本朝の三国を仏法という単一の原理が覆う三国的世界像--を読み解き、そのなかで、大日としてのアマテラスが日本の主たることによって、日本という個別的世界が三国的世界に属することの確信が果たされること、そのようなアマテラスの位置が、仏教的世界観において欲界の支配者と見倣され得た第六天魔王との契約によって保証されること、そして、「神璽」を介し、天皇の正統性といった問題もそのなかで位置づけられてゆくことなどを明らかにする。 つぎに第二章では、宣長の生きた近世中〜後期という時代、前章で見たような中世的世界が過去のものとなってゆくなかで、神話が根拠づけるべき現実の側がどのような変貌を遂げていったか、その変化に重要な役割を果たした要因のひとつとして、主に西洋自然科学知識の影響という側面から考察した。 近世の開始と同時に、イエズス会宣教師らの手によってもたらされた天文学的知識、とくに、地球概念やその地球と同格の天体としての日月の位置づけなどは、夙くも一七世紀初頭に不干斎ハビアンが中世的な仏教の教説に基づいた世界像を論駁するのに用いられていた。こうした知識は、その後の禁教令下で制約を被りながらも、『天経或問』やリッチの世界図などの著作を通じ、徐々に広く浸透してゆき、仏教の須弥山説や儒学の渾天説によるものとは質的に異なった世界像を生み出していった。宣長もまた、こうした新しい現実のなかで生きていたことが、『天文図説』や『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』、『真暦不審考弁』などの著作から確かめられ、そうした現実に対応し得るものとしていかに『古事記』を読むかということが、宣長の課題であったと認められる。 つづく第三章以降が、『三大考』の具体的な分析となる。まず本章では、数種の草稿をあわせ見ることで『三大考』成立過程を解明し、その作業を通じそこに表れた問題の輪郭を定めることを目的とする。 『三大考』を『古事記伝』と比較した場合、『三大考』が大枠において『古事記伝』を下敷きとしながらも、そこから顕著に異なってゆく点として、(一)天・地の二元的世界ではなく天・地・泉の三元的世界を機軸とすること、(二)天=日、泉=月という、神話的世界の天体的定位を行うこと、(三)泉国と夜之食国を同一の国とし、したがってそこを支配する須佐之男命と月読命も同一神であるとすること、などの主張が挙げられる。『三大考』には、『天地初発考』『天地初発考図』『天地考』の三種の草稿の存在が確認されるが、これらの内容を比較検討し、(一)(二)の説がもっとも初期の段階から『三大考』構想の根幹として存在したこと、そこへ、『古事記』に現れる「産巣日(ムスビ)」の神々の「産霊(ムスビ)」の働きによる世界の展開という、『古事記伝』から受け継いだ要素が段階的に強調されながら重ね合わされていったこと、これに対し、(三)の説はむしろ事後的に、しかも宣長による改変を経て成立したことなどを明らかにする。 第四章では、前章で得られた知見をもとに『三大考』の提示する世界像の分析を行い、そこからさらに『古事記伝』を見返してゆくことで、宣長にとっての『三大考』の意味を探った。そしてこの分析を通じ、『古事記伝』が『三大考』を併せ持つことで実現された『古事記』の読みがどのようなものであったか、解明を試みた。その結果、(三)の説が表面的には『古事記伝』との矛盾を孕んだものであるにもかかわらず、結果的には宣長によるこの改変が、『三大考』の描き出す世界像を『古事記伝』の描き出す世界像へつながるものにし、反対に初期の草稿やあるいは『三大考』批判者側の著作の持つ世界像とは異なるものとするのに貢献していたことを明らかにした。それは、「産霊(ムスビ)」のはたらきにより、天・地・泉を含めた宇宙の全体が成り立つ世界であり、日月という天体や、外国の存在といった問題を含む現実のすべてが、「産霊」のはたらきを通じて根拠づけられるような世界だった。『古事記伝』の根底に横たわるこうした世界像への確信を、より明確に、より推し進めたかたちで可能にするテクストが『三大考』だったのであり、その限りにおいて(一)(二)のような点も、『古事記伝』との揺れを孕みながらも宣長にとって容認すべきものであったと理解される。 最後に第五章では、『三大考』以後に惹き起こされた論争を全体として検証しつつ、そこで何が問題とされたのかを見届けた。これにより、『古事記伝』『三大考』の提示したものをあらためてその外側から映しだすと同時に、『古事記伝』をその研究史の嚆矢として持つような、近代の『古事記』が、どのような場所からはじまったかを見定めることを目的とした。 『三大考』に関わる論争は、宣長の死後百年にわたって様々な著作を生み出しつづけた。そこで焦点となったのは、本質的には『古事記』からいかなる世界像を読み出すかということであり、はたして『古事記』は近世後期の現実を根拠づけ得る神話テクストたり得るのかという問題だった。『三大考』批判者側の著作が、結果的にはこの問いかけに対し否定的な答をつきつけるのに対し、『三大考』を継承した著作では、なお科学的世界観と古伝から導き出される世界観の止揚が図られてゆくことになる。両者の世界像のあいだに横たわる断絶が覆いがたいものとなったとき、論争に終止符が打たれ、あらためて近代の神話がはじまることになる。 以上のような分析を通して、宣長の『古事記』研究の営みを、近世という時代におけるあらたな神話的世界像の創出という観点から位置づけることを試みた。こうした考察を行うことが、近世以降現代に至るまでの『古事記』像、そして『古事記』について語る者自身の思考の枠組みがどのように規制されてきたのか、省みることにつながってゆくと考える。 |