学位論文要旨



No 214493
著者(漢字) 櫻井,万里子
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,マリコ
標題(和) 古代ギリシア社会史研究 : 宗教・女性・他者
標題(洋)
報告番号 214493
報告番号 乙14493
学位授与日 1999.12.06
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14493号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高山,博
 東京大学 教授 樺山,紘一
 東京大学 教授 蔀,勇造
 東京大学 教授 本村,凌二
 放送大学 教授 伊藤,貞夫
内容要旨

 「ポリス」は古代ギリシア人が生み出した独特な性格の国家である。今では人類共通の財産となっている古代ギリシアの文化遺産のほとんどは、このポリスなくしては創り出されなかったと言ってよい。本論文「古代ギリシア社会史研究」は、そのような古代ギリシアに特有の現象であったポリスの特質を解明するために、宗教、女性、他者という三つの視角から古代ギリシア社会の分析を試みた研究である。

 古代ギリシアに関する研究は、従来、政治史、文化史、社会経済史が主流であったが、他の分野の歴史学の傾向に歩調を合わせて一九七○年代から社会史的アプローチによる研究が夥しく増加し、今日に至っている。まず、女性を対象とした研究がフェミニズム思想の台頭に触発されて活発に進められ始めた。また、ヨーロッパ中心主義への批判的姿勢のひとつの帰結として、古代ギリシアの宗教を研究対象とする際に、従来は意識的であれ無意識的であれ導入されがちであったキリスト教的観点を可能な限り排除し、対象に即して分析、考察をしようとする研究も増加している。さらに、二○世紀も末になって顕在化した欧米における民族問題と国民国家に対する疑問提起、そして、ヨーロッパ統合の現実化という一連の動きを受けて、古代ギリシア史研究者のあいだでも、古代ギリシア人のアイデンティティ形成や、それと表裏一体の関係にある他者認識の問題が注目されるようになっている。もちろん、このように新しい研究対象が掲げられるようになったのは、文化人類学や記号論などの分野で開発された研究方法の援用が可能となったことや、利用できる碑文史料が発掘活動によって激増し、その結果、ルネサンス以降のヨーロッパの知の伝統というフィルターを経由しない情報が、直接に相当数もたらされるようになったことも大いに関係している。

 本論文は、著者が古代ギリシア史研究を志して以来、二〇年余のあいだの研究成果を集成したものである。そのあいだの欧米における関連分野の研究の、上記のような状況に啓発されながら、また、日本社会に生きる自分自身の関心が多様化し、拡大するにつれて、テーマも史料へのアプローチの方法も多様となった。ただし、問題意識は常に、ポリスの本質を捉えたいということろにあった。他の古代社会と比べても、また、その後の人類の歴史を通観しても、古代ギリシアの独自性は何よりもまずこのポリスに起因すると考えたからである。その結果、本論文は全体として一貫性を保つことができた。

 全体は三部からなるが、各部の冒頭、第一章では当該部の主題に関する全体的な見取り図を提示し、各主題すなわち宗教、女性、他者の理解に必要な諸事項に解説を加え、続く各章で個別の問題を論じる、という構成をとる。また、第III部第3章を除き、各章はそれぞれ独立の論文として既に発表されたものであり、発表時から本論文刊行時の1996年までのあいだに、章によっては相当数の年月が経過している場合があるため、関連領域における刊行以後の研究動向を各章に補論として付加した。以下においてにまず各部について論旨を簡潔にまとめたうえで、本論全体の要旨を記述し、最後に序論にもどってその意義を説明する。

 第I部では宗教祭儀がアテナイの国力増大と繁栄に寄与していたことを、穀物の女神デメテルとその娘コレを主神とするエレウシスの秘儀を事例として取り上げ、論証した。全ギリシア的な規模で開催された四大祭典(オリュンピア、ピュティア、イストミア、ネメア)が、ポリス形成以前のギリシア世界において存在していた社会秩序を反映させているのに対し、エレウシスの秘儀は私的祭儀として発祥しながらも、ポリス・アテナイの国家祭儀へと変貌を遂げ、ついには全ギリシア的な規模の祭儀へと変容していった。その変化あるいは発展は、アテナイがギリシア世界において覇権を確立する際の精神的支柱としての役割を秘儀が果たしていくことで現実のものとなったことを、休戦や財政面に注目しながら論証した。

 第II部はアテナイの一夫一婦制の確立を、国家とオイコス(家)制度との拮抗関係の中に位置づける試みである。エピクレーロス制度、すなわち男子のいないオイコスが女子(エピクレーロス)を通して存続を図る制度、そして姦通法成立の背景、さらに女性の財産権の実態、これらの諸問題を前古典期から古典期末にいたる時間の経過の中で考察し、婚姻制度がアテナイの民主政成立への動きと連動していたことを跡づけた。

 第III部はギリシア世界での覇権を確立したアテナイが、ポリス内外の他者との関係形成にどう対処したか、対メトイコイ(在留外人)、対ペルシア人、対トラキア人、各々の場合について具体的事例に即して検討し、市民の他者認識の変容が自己変革につながる可能性を内在させていたことを明らかにした。

 以上のように、三部構成の本論において、ポリスの中核としての市民団すなわち成年男子市民が、市民団にとっては外部的な存在でありながらも、ポリス内部に存在基盤をもつ神々、女性、外人のそれぞれを、ポリスの存続と繁栄に資するように相応の位置に配していった過程を論証し、その過程こそは、ポリス・アテナイが市民共同体としての機構を整備し、民主政を実現させていく動きの一環であったことを明らかにした。このような方法で、神々、女性、外人のポリスにおける布置および市民団との関係性を明確化することにより、ポリス社会の構造的特質の一側面が明らかになったと考える。

 本論文が対象とする時代は、史料の残存状況のゆえに前5,4世紀、いわゆる古典期を中心としている。もちろん、第I部第1章、第II部第1,3,4章では前古典期にも遡及して言及している。しかし、それは古典期から過去を透視する形で論じるという方法を採らざるを得なかった。ポリス成立以降の前古典期の歴史については、史料の不足から十分に実証的な研究は困難だからである。しかし、当該期の歴史の解明はポリス誕生の事情を探るという問題とも関連するため、1970年代半ばに現れた新学説とそれをめぐって今なお続けられている議論には、ポリス成立の背景に光を当てようと意図する研究者たちは無関心でいることができない。その議論は、ポリスが誕生した当時、そこに生活する人々にとって、血縁関係は社会を構成する原理としてはすでに止揚されてしまった関係であったのか、それともポリス誕生後に徐々に血縁的関係から地縁的関係への移行が果たされ、民主政の実現がもたらされたのか、という問題を骨子とする。古代ギリシアを他の古代世界と比較、対照して、ギリシアの独自性の意義を解明するには、この議論が提起する問題は避けて通ることができない。そのような理由から、序論では、ポリス社会の成立から以降の歴史を通観する際の理論的枠組みを設定するためになされた試行錯誤の跡を提示した。それは、今後の著者自身の研究の方向性を指し示すものと言えるであろう。

審査要旨

 本論文「古代ギリシア社会史研究」は、宗教、女性、他者という三つの視角から古代ギリシア社会の分析を試みた研究である。古代ギリシアに関する研究は、従来、政治史、文化史、社会経済史が主流であったが、一九七〇年代から社会史的アプローチによる研究が著しく増加し、女性を対象とした研究、キリスト教的観点を可能な限り排除した研究、アイデンティティ形成や他者認識に関する研究がなされてきた。本論文もそのような古代ギリシャ史研究の新しい動向に沿ったものである。

 本論文は、櫻井氏が1960年代末に古代ギリシア史研究を志して以後20数年のあいだに公表した主要論考を集成したものだが、同氏の問題意識と全体の見通しを論じた序論が冒頭に置かれ、新しく書き下ろした論考が加えられているので、全体として統一の取れた博士論文となっている。ただ、各章に配置された論考の中には、最初の発表時から相当数の年月を経たものがある。そのため、同氏は、それらの章の末に、関連領域に関する、論考発表以後の研究動向を書き加えている。この補論によって、当該テーマに関する近年の研究の進展状況と、各論考の研究史上の位置を知ることができるようになっている。

 さて、宗教を主題とする第1部では、エレウシスの祭儀が、私的祭儀として発祥しながらも、ポリス・アテナイの国家祭儀へと変貌を遂げ、ついには全ギリシア的な規模の祭儀へと変容していった過程が詳細に分析され、宗教祭儀がアテナイの国力増大と繁栄に大きく寄与していたことが明らかにされている。櫻井氏は、アテナイがギリシア世界において覇権を確立する際の精神的支柱として、この宗教祭儀が重要な役割を果たしていたと主張している。

 女性を主題とする第2部では、アテナイの婚姻制度がアテナイの民主政成立への動きと連動していたことを、三つの問題に焦点を当てて明らかにしている。三つの問題というのは、男子のいないオイコス(家)が女子(エピクレーロス)を通して存続を図る「エピクレーロス制度」、姦通法成立の背景、女性の財産権の実態、である。櫻井氏は、これらの諸問題を、前古典期から古典期末にいたる時間の経過の中で考察し、アテナイの一夫一婦制の確立を、国家とオイコス制度との拮抗関係の中に位置づけている。

 他者を主題とする第3部では、覇権を確立したアテナイが、ポリス内外の他者、すなわち、メトイコイ(在留外人)、ペルシア人、トラキア人との関係形成にどう対処していったかを、詳細に分析している。櫻井氏によれば、これらの市民の他者認識の変容が、ポリスの自己変革につながる可能性を内在させていたという。

 このように、当論文では、ポリス内部に存在基盤をもつ神々、女性、外人が、ポリスの存続と繁栄に資するように相応の位置に配されていった過程が詳細に分析されている。櫻井氏によれば、その過程こそが、ポリス・アテナイが市民共同体としての機構を整備し、民主政を実現させていく動きの一環であった。

 いずれの章も、一次資料の緻密な分析に基づいて出された著者独自の優れた研究成果である。とりわけ、第2部5章の女性の地位と財産権を論じた部分は、欧米の最新の研究成果を凌駕する極めて水準の高いものと判断される。本論文には、わずかではあるが、概念規定が必ずしも十分ではないと思われる箇所や理解が容易でない表現が見られる。しかし、いずれも本論文の価値を大きく損なう性格のものではない。

 従って、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値すると判断した。

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