学位論文要旨



No 214512
著者(漢字) 福村,雅雄
著者(英字)
著者(カナ) フクムラ,マサオ
標題(和) 行動学的および生化学的手法を用いた神経毒性評価法に関する研究
標題(洋)
報告番号 214512
報告番号 乙14512
学位授与日 1999.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14512号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 助教授 西原,眞杉
 東京大学 助教授 竹内,ゆかり
内容要旨

 中枢神経系は数百億個もの神経細胞から構成される情報処理器官であり、神経機能の中心としてその複雑なネットワークにより、認知、記憶、思考、情動、行動などの高次機能を司る。生体にとって枢要であるため血液脳関門等のシステムにより守られてはいるが、他の臓器同様に化学的(化学物質の暴露など)、遺伝的(先天異常など)、物理的(外傷など)あるいは時間的(老化など)な様々な要因により疾患・異常が起こる。このうち化学物質暴露に起因する疾患・異常の問題は、予防および治療を目的とした医学的見地からは無論のこと、生活の安全確保という社会的側面からも近年急速に重要性を増している。その背景には、化学物質による環境汚染あるいは健康被害問題が、市民にとっての大きな関心事になってきた社会的事情がある。しかし中枢神経系は極めて複雑な高次機構を有するため、毒性を適切に検出・評価する単一スクリーニング法を確立することは困難であった。そこで本論文では神経行動学的ならびに神経生化学的観点から新たな神経毒性スクリーニング法の確立を目的とした研究を行った。

第1章

 生体は日常的に多くの化学物質に(非)意図的に暴露されており、健康な社会生活のためには既存・新規化学物質の安全性評価は欠かせない。それ故化学物質の安全性は、一般毒性、生殖発生毒性、発ガン性等の各種毒性試験により評価されてきた。このうち、特に神経系への毒性検出に主眼をおいたものが神経毒性試験であり、諸外国では既に採用され、本邦においても義務づけされようとしている。神経毒性試験では、まず一般症状の観察、行動機能観察および神経病理学的検査から構成される一次スクリーニングが実施され、何らかの毒性兆候が認められた場合に詳細な検索が行われる。したがって、一次スクリーニング法の感度・精度といった信頼性は極めて重要である。しかし、神経毒性に関する基礎研究は不足しており、試験ガイドラインの整備は他の毒性試験に比べて著しく立ち遅れている。そこで本研究では近年急速に研究が進んでいる脳科学における最新の知見に依拠し、神経行動学的ならびに神経生化学的毒性検出法について研究した。まず材料として、神経機能と行動の関係が比較的良く研究されているラットおよびその中枢ドーパミン(DA)神経系を採択した。DA神経系における神経伝達物質DAは、様々な情動・行動に影響することが知られていることから、機能的毒性はDA量を生化学的に測定することで、また行動学的毒性は聴覚性驚愕反応(ASR)を検査することで検出可能と考えた。そこでラットのDA神経に化学物質により傷害を与え、これら新しい手法が神経毒性スクリーニングへ適用可能か否かを検討した。化学物質としてはDA神経に毒性を持つとされている3,3’-イミノジプロピオニトリル(IDPN)および覚醒剤メタンフェタミン(MA)を採用した。

第2章

 第2章ではまず、神経毒性スクリーニング法における新たな行動学的検出法の適用,すなわちASR検査における機器測定の適用を検討した。雄のLong-EvansラットにIDPNを0、100、200、400mg/kgの用量で3日間連続して腹腔内投与することにより神経毒性を誘発し、初回投与前、最終投与後1、7、14、28、56および84日に音刺激への反応を検査した。検査は現行法である音刺激の暴露および反応評価を実験者が行うクリッカー法と、ASR検査機器を用いたSR法により実施し、双方の毒性検出感度を比較した。また、ASRに現れる影響がIDPNの神経毒性に起因することを確認する目的で動物の活動量も同時に測定した。その結果、一過性の活動量低下に引き続く持続的な活動量増加が認められ、動物にはIDPNによる典型的な神経毒性が誘発されたと考えられた。一方音刺激に対する反応低下はIDPN400mg/kg群についてはクリッカー法およびSR法において検出されたが、IDPN200mg/kg群についてはSR法のみにおいて検出され、SR法の感度はより優れることが見いだされた。クリッカー法では感度そのもの、試験実施者の主観の混入に起因する術者間差および施設間差が常に問題視されるが、SR法の採用によりこれらの問題が大きく改善されることも示された。神経毒性スクリーニングはバッテリー試験であり、その構成要素の改善は全体のレベルアップにつながる。ASRは聴覚器から反射に到る一連の神経系におこる傷害の検出が可能であり、信頼性の高い測定機器も数多く開発されている。したがって、客観性、感度に優れ、かつ簡便・安価なSR法は神経毒性の新たな行動学的スクリーニング法として有効であると考えられた。

第3章

 続く第3章では、行動変化の背景には神経機能の変化があると考え、神経生化学的観点からの検討を行った。すなわち神経伝達物質を定量することにより、行動変化に現れない神経毒性を検出しようと試みた。雌雄のSDラットにMAを0、5、10mg/kgの用量にて2時間間隔で4回反復皮下投与することにより神経毒性を誘発した。MA投与に随伴する高体温による動物の死亡を防ぐ目的で直腸温をモニターし、著しい高体温を示した動物は直ちに冷却した。ラットは投与3日後に犠死させ、速やかに脳を摘出し氷上で分画した。次に新線条体におけるDAおよびセロトニン量は電気化学検出器をとりつけた高速液体クロマトグラフィー(HPLC-EC)にて測定した。その結果、MAは用量依存的に新線条体におけるDAおよびセロトニン量を有意に減少させた。またこれらの減少は雌雄同程度であった。したがって、MAの神経毒性は生化学的に検出されることが明らかとなり、新たな神経毒性評価法としての可能性が示唆された。またMAの中枢神経毒性には性差が報告されていたが、本研究により性差は認められないとの新しい知見を得た。

第4章

 第4章では神経毒性スクリーニングにおける神経伝達物質定量の有効性について、第3章とは異なる条件からの検証を試みた。供試動物である雄のSDラットにMAを0、10、20、30、40mg/kgの用量で単回皮下投与した。MA投与に随伴する高体温による動物の死亡を防ぐ目的で直腸温をモニターし、著しい高体温を示した動物は直ちに冷却した。ラットは投与3日後に犠死させ、速やかに脳を摘出し氷上で分画した。次いで新線条体におけるDA、セロトニンをHPLC-ECにより測定するとともに、DA生合成の律速酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)および神経細胞傷害の指標であるグリア線維酸性蛋白質(GFAP)量をウエスタンブロット法により測定した。その結果MAによる用量依存的なDAおよびセロトニンの減少が認められたとともに、毒性学的変化の証左であるTHの減少ならびにGFAPの増加が認められた。したがって、神経毒性評価における神経伝達物質定量の有効性が検証された。また従来MAの比較的高用量の単回投与は高体温による動物の死亡が高率に認められるため困難であり、そのため第3章で用いた反復投与法が主流であった。本研究においては、投与時の体温をモニターし著しい高体温による動物の死亡を防ぐことにより、単回投与法の開発に成功した。単回投与法には反復投与法に比べて併用薬物の投与計画の設定が容易であるという利点がある。したがって、本手法によりMAの神経毒性を保護する物質の探索効率が上がり、医薬品開発研究の効率化も期待できる。また、MAの中枢神経毒性発現機序の解明研究にも応用可能と考えられた。

第5章

 神経毒性の発現機序には他の毒性と同じく器質的な異常によるものと機能的な異常によるものがある。器質的な異常は行動学的、病理学的あるいは生理・生化学的に検出が可能である。一方、機能的異常がその段階にとどまり器質的傷害にまで進行しない場合、その存在は行動学的手法により検出する以外に適切な方法はないとされ、現行の神経毒性試験は一般症状の観察、行動機能観察および神経病理学的検査から構成されてきた。しかしながら本論文で示されたように,急速に進展する脳科学に依拠した生化学的検出法が開発されつつある.すなわち、中枢DA神経系におけるIDPNの毒性は行動学的手法により、またMAによる毒性は生化学的手法により検出が可能であった.つまり行動変化の背景にあると考えられる神経系の機能的傷害が行動学的変化として表出しない場合、つまり行動学的な毒性検出が困難な場合が存在し、このような機能的神経毒性を検出するためには生化学的手法が有効であると考えられた。したがって、現行の神経毒性スクリーニング法は生化学的手法を加えることにより、信頼性の向上が可能と考えられる。さらに近年神経毒性研究は胚・胎児などを含めた次世代児の神経系への影響を視程に含めた研究、すなわち発生・発達神経毒性へと対象を広げつつある。環境ホルモンとして話題に上っている化学物質をはじめとして、数種の化学物質には発生・発達神経毒性作用を有することも明らかになっている。本論文で開発した手法は、この発生・発達神経毒性分野での応用も期待される。

第6章

 以上総括すると本研究は、急速に進歩する脳研究に依拠した最新の神経行動学および神経生化学的な知見の援用により、新規かつ高感度の神経毒性スクリーニング法の確立を行ったものである。本研究では中枢DA神経系を例に、行動学的毒性検出法(ASR検査)および生化学的毒性検出法(神経伝達物質定量)が有効であることを示し、新たな神経毒性スクリーニング法としての適用価値を明らかとした。

審査要旨

 化学物質暴霧に起因する中枢神経系の疾患や異常の問題は、医学的見地からはもとより市民生活の安全確保といった社会的側面からも重要である。このため化学物質の製造開発にあたっては神経毒性のスクリーニングも義務づけられつつあるが、試験ガイドラインの整備は他の毒性試験に比べて著しく立ち遅れているのが現状である。その要因の一つとして、哺乳類における中枢神経系の複雑さゆえに化学物質による神経毒性を適切かつ簡便に検出・評価しうるスクリーニング法の確立が困難であったことが挙げられる。本論文は、神経行動学的ならびに神経生化学的観点から新たな神経毒性のスクリーニング方法の確立を目指したものであり6章から構成される。

 まず第1章では本論文の背景となる神経毒性スクリーニング法の現状が概観され、学術的・社会的側面から新たな試験方法確立の必要性が説明されている。また本研究において中枢ドーパミン(DA)神経系に着目した背景とDA神経系に対する毒性の指標として聴覚性驚愕反応(ASR)ならびに神経伝達物質の脳内濃度を採択するに至った経緯、そしてDA神経毒性を持つ化合物として3,3’-イミノジプロピオニトリル(IDPN)およびメタアンフェタミン(MA)を選んだ理由などが明快に述べられている。

 第2章では神経行動学的観点からASR検査法を神経毒性スクリーニング試験に適用するための基礎検討が行われた。実験にはラットが用いられ、IDPNを3日間連続して腹腔内投与することによって神経毒性を誘発した際の音刺激への反応について、現在汎用されているクリッカー法とASR検査用機器を用いたSR法の間で比較検討が行われた。その結果、SR法の感度が優れており試験実施者の主観混入に起因する術者間差および施設間差が常に問題となるクリッカー法に比べて検出感度と再現性のいずれもが改善されることが明らかとなった。神経毒性スクリーニングは検査方法を組み合わせたいわゆるバッテリー試験であり、各構成要素の改善がスクリーニング全体の精度向上に繋がることから、新たな行動学的な神経毒性評価法としてSR法の有効性が示されている。

 続く第3章では神経生化学的観点に立った新たな神経毒性スクリーニング法の確立について述べられている。すなわち神経毒性による行動変化の背景となる中枢神経系の機能的変化を脳内特定部位における神経伝達物質の量的変化として捉えようという試みであり、MAを2時間おきに4回反復投与された雌雄ラットの新線条体におけるDAならびにセロトニン(5HT)量が電気化学検出器付き高速液体クロマトグラフィー(HPLC)にて測定された。その結果、新線条体におけるDAおよび5HT量の減少が雌雄共に用量反応性に認められ、こうした神経伝達物質を指標にMAの神経毒性を生化学的に検出しうることが示された。

 第4章ではこの生化学的神経毒性評価法について上記とは異なる実験条件下においてさらなる検討が実施されている。すなわち雄ラットにMAが単回投与され、新線条体におけるDAおよび5HT量の変化に加えてDA生合成系の律速酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)および神経細胞障害の指標であるグリア線維酸性蛋白質(GFAP)の量がウエスタンブロッティング法によって測定された。その結果、MAによるDA、5HTおよびTH量の減少と逆にGFAP量の増加が観察され、神経毒性スクリーニング試験におけるこうした生化学的評価法の有効性が確認された。さらにMA単回投与による神経毒性試験は従来より困難とされてきたが、今回、体温のモニターと調節を組み入れる方法を開発することで応用的価値の高い新たなMA毒性評価法の実用化にも成功している。

 第5章では本研究から得られた結果を中心に既知のさまざまな研究成果を援用しながらDA神経系を例に中枢神経系における生化学的・機能的変化と行動変化との関連、およびその毒性学的検出方法について神経生物学的観点を中心とした考察が展開されており、終章の第6章は総括にあてられている。

 以上要するに、本研究は感度と再現性に優れた神経毒性スクリーニング試験方法の確立を目指して行動学的・神経生化学的観点から詳細な検討を行ったものであり、その成果は学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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