化学物質暴霧に起因する中枢神経系の疾患や異常の問題は、医学的見地からはもとより市民生活の安全確保といった社会的側面からも重要である。このため化学物質の製造開発にあたっては神経毒性のスクリーニングも義務づけられつつあるが、試験ガイドラインの整備は他の毒性試験に比べて著しく立ち遅れているのが現状である。その要因の一つとして、哺乳類における中枢神経系の複雑さゆえに化学物質による神経毒性を適切かつ簡便に検出・評価しうるスクリーニング法の確立が困難であったことが挙げられる。本論文は、神経行動学的ならびに神経生化学的観点から新たな神経毒性のスクリーニング方法の確立を目指したものであり6章から構成される。 まず第1章では本論文の背景となる神経毒性スクリーニング法の現状が概観され、学術的・社会的側面から新たな試験方法確立の必要性が説明されている。また本研究において中枢ドーパミン(DA)神経系に着目した背景とDA神経系に対する毒性の指標として聴覚性驚愕反応(ASR)ならびに神経伝達物質の脳内濃度を採択するに至った経緯、そしてDA神経毒性を持つ化合物として3,3’-イミノジプロピオニトリル(IDPN)およびメタアンフェタミン(MA)を選んだ理由などが明快に述べられている。 第2章では神経行動学的観点からASR検査法を神経毒性スクリーニング試験に適用するための基礎検討が行われた。実験にはラットが用いられ、IDPNを3日間連続して腹腔内投与することによって神経毒性を誘発した際の音刺激への反応について、現在汎用されているクリッカー法とASR検査用機器を用いたSR法の間で比較検討が行われた。その結果、SR法の感度が優れており試験実施者の主観混入に起因する術者間差および施設間差が常に問題となるクリッカー法に比べて検出感度と再現性のいずれもが改善されることが明らかとなった。神経毒性スクリーニングは検査方法を組み合わせたいわゆるバッテリー試験であり、各構成要素の改善がスクリーニング全体の精度向上に繋がることから、新たな行動学的な神経毒性評価法としてSR法の有効性が示されている。 続く第3章では神経生化学的観点に立った新たな神経毒性スクリーニング法の確立について述べられている。すなわち神経毒性による行動変化の背景となる中枢神経系の機能的変化を脳内特定部位における神経伝達物質の量的変化として捉えようという試みであり、MAを2時間おきに4回反復投与された雌雄ラットの新線条体におけるDAならびにセロトニン(5HT)量が電気化学検出器付き高速液体クロマトグラフィー(HPLC)にて測定された。その結果、新線条体におけるDAおよび5HT量の減少が雌雄共に用量反応性に認められ、こうした神経伝達物質を指標にMAの神経毒性を生化学的に検出しうることが示された。 第4章ではこの生化学的神経毒性評価法について上記とは異なる実験条件下においてさらなる検討が実施されている。すなわち雄ラットにMAが単回投与され、新線条体におけるDAおよび5HT量の変化に加えてDA生合成系の律速酵素であるチロシン水酸化酵素(TH)および神経細胞障害の指標であるグリア線維酸性蛋白質(GFAP)の量がウエスタンブロッティング法によって測定された。その結果、MAによるDA、5HTおよびTH量の減少と逆にGFAP量の増加が観察され、神経毒性スクリーニング試験におけるこうした生化学的評価法の有効性が確認された。さらにMA単回投与による神経毒性試験は従来より困難とされてきたが、今回、体温のモニターと調節を組み入れる方法を開発することで応用的価値の高い新たなMA毒性評価法の実用化にも成功している。 第5章では本研究から得られた結果を中心に既知のさまざまな研究成果を援用しながらDA神経系を例に中枢神経系における生化学的・機能的変化と行動変化との関連、およびその毒性学的検出方法について神経生物学的観点を中心とした考察が展開されており、終章の第6章は総括にあてられている。 以上要するに、本研究は感度と再現性に優れた神経毒性スクリーニング試験方法の確立を目指して行動学的・神経生化学的観点から詳細な検討を行ったものであり、その成果は学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |