内容要旨 | | 哺乳動物では多様な記憶学習能が観察されるが,特に帰巣や縄張りというような空間的記憶学習はその生命活動を正常に営む上で必要不可欠なものである.空間認知には2つの機構があるとされている.1つは自己中心的(egocentric)空間認知で,自分を基準点とし,そこからの方角および距離を用いて空間的位置関係を把握するものである.経路を覚えて目的地に到達する場合や,いわゆる"わたり"などはこれに相当する,もう1つは相対的(allocentric)空間認知で,良く馴れ親しんだ小空間内において道標となる物体群の絶対的位置関係を座標の枠組みとして,自己および目的物の位置を知るものである.この機構は"どこ"というような陳述的空間認知とされ,ヒトやサルなど脳が高度に発達した動物で頻繁に用いられている.同じ空間認知に関わるこれら2つの機構の違いを明らかにすることは,空間記憶の本体を知る上で必要不可欠である.そこで本研究では空間課題として従来より用いられている水迷路に改良を加え,相対的空間定位機構のみを評価でき,さらに空間記憶と同時にかつ独立して動機付けや感覚・運動機能を評価できる系の確立を目指した.その新しい評価系を用いて相対的空間記憶を司る神経機構を明らかにすることを目的とし,以下の実験を行った. はじめに相対的空間定位機構のみに依存する記憶評価系として相対的空間弁別課題 (allocentric place discrimination task;APDT)を確立した.プールに外見上同じであるが,1つは浮き台でラットが乗ると沈み,もう1つは固定台でその上に乗ると水から逃れられるよう可視の台を2つ同時に呈示した.すなわち台はスタート地点から視覚的に認知でき,ラットは陳述空間的にどちらの台かを弁別することになる.1日1セッション,1セッション6試行,1試験2セッションで実験を行い,第2試行から第6試行までの正答率を記憶の指標とした.訓練終了後,正答率は90%に達した.プールの周囲をカーテンで覆ったところ,正答率はチャンスレベルにまで低下し,本評価系が相対的空間定位機構に依存することが確認された.末梢性筋弛緩薬のdantrolene投与により運動機能を低下させると,遊泳速度の低下と遊泳時間の延長が観察された.プール内の水温を上昇させて嫌悪刺激を弱化させると,静止時間の延長と遊泳速度の低下が見られた.また水迷路で動機付けを低下するとされるmorphineの投与でも,水温を上昇させたときと同じく,静止時間の延長と遊泳速度の低下がみられた.しかし,いずれの処置によっても正答率は正常に保持されていた.これらの結果よりAPDTでは同一個体を用いて空間記憶能を,動機付けや感覚・運動機能とは別個にかつ同時に評価しうることが明らかとなり,相対的空間定位機構に依存する記憶能について選択的な評価が可能であることが示された. そこで,記憶学習に重要とされるコリン神経系の相対的空間定位機構における役割を従来のモーリス水迷路型の空間定位課題(place navigation task;PNT)を併用しながら検討した.APDTの正答率はアセチルコリンムスカリン受容体拮抗薬のscopolamine(SCP)0.5mg/kg投与により選択的に障害され,チャンスレベルにまで低下した.中枢透過性の低いSCP metylbrimideでは障害がみられず,またSCPによる障害はアセチルコリンエステラーゼ阻害薬のphysostigmine(PHY)の同時投与で改善された.一方PNTでは,SCP投与により遊泳距離は延長したものの,第1試行の情報をもとに,第2試行以降では遊泳距離の低下が認められ,記憶能が保持されていることが示された.遊泳軌跡の解析の結果,同じ道筋を繰り返し通るというような,自己中心的空間認知機構を用いた行動パターンが認められた.以上より,APDTはPNTに比べ,アヤチルコリンムスカリン受容体に依存することが明らかとなった 次にAPDTにおける他の神経系の関与を調べた.PNTで学習遅延を起こすとされるbenzodiazepine(BZP)-gamma amino butyric acid(GABA)受容体アゴニストのdiazepam,アセチルコリンニコチン受容体アンタゴニストのmecamylamine,セロトニン1A受容体アゴニストの8-OH DPAT,ドパミンD2受容体アンタゴニストのhaloperidol,N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体アンタゴニストのMK-801いずれにおいても,正答率の低下は観察されなかった.これら薬物によりその他の行動パターンが変化したことより,その作用は記憶学習能を直接的に変化させるのではなく,むしろ感覚能や運動能,動機付けなどに影響を与えるものと思われる.続いてSCP誘発記憶障害に対する各種薬物の改善作用を検討した.PNTでの記憶に関してSCPによる障害を改善することが示されているBZP-GABA受容体アンタゴニストのflumazenil,セロトニン3受容体アンタゴニストのondansetorone,ヒスタミン3受容体アゴニストのR(-)-()-Metylhistamineいずれの薬物でも正答率の改善効果は認められなかった.よってアセチルコリンムスカリン受容体の阻害による正答率の低下は,他の神経系を変化させる事による代償的作用によっても改善されない事が示された.以上より,APDTの正答率はアセチルコリンムスカリン受容体に選択的に依存することが明らかとなり,前述の結果を支持する成績が得られた. さらにAPDTにおけるコリン神経系と海馬長期増強(long-term potentiation;LTP)との関係を調べた.ムスカリン1受容体(M1)アンタゴニストであるpirenzepine50g,さらにはコリンの再取込阻害薬であるhemicholinium-3 5g脳室内投与により正答率の選択的障害が観察されたが,同じ投与条件を用いた麻酔下ラットにおける海馬CA1野LTPに対するpirenzepine50gおよびhemicholinium-3 5gの影響を検討したところ,いずれも通常のシナプス伝達あるいはLTPには全く影響がみられなかった.一方,NMDA受容体アンタゴニストのD(-)-2-amino-5-phosphonovaleric acid (D-AP5) 200nmolでは正答率の低下は観察されなかったが,海馬LTPは完全に阻害された.以上の結果からAPDTの正答率が,特にM1受容体を介した中枢コリン系に選択的に依存しており,シナプスレベルの記憶の座とされる海馬CA1野LTPには直接的には関連しないことが示された. 老齢動物においてコリン神経系の機能が低下することは良く知られている.そこで,APDTを用いて加齢に伴う空間記憶能の変化とコリン神経系の関与を検討した.PNTを用いた評価系では加齢に従いサーチエラーの上昇が見られるものの,若齢時と同様に台の位置を記憶することができた.このときのラットの遊泳軌跡を調べると,SCP投与時に観察されたものと同様に,同じ道筋を繰り返し通るという行動パターンが認められた.-方APDTによる評価系では,若齢時に90%程度であった正答率が,18ヶ月齢を過ぎるころから低下し,22ヶ月齢時では約60%にまで低下した.この低下はM1受容体アゴニストのCS-932 0.3,1.0mg/kg,あるいはアセチルコリンエステラーゼ阻害薬のPHY0.3mg/kgの投与により部分的に拮抗され,正答率の上昇が認められた.これらの結果よりAPDTでの記憶の評価はPNTのそれに比べ加齢による障害を受けやすことが示された.またAPDTで観察された加齢にともなう記憶学習障害はアセチルコリン神経系,特にM1受容体を活性化することで改善されることが示された. 以上をまとめると,まずラットの相対的空間認知機構のみに依存する学習評価系としてAPDTを確立した.APDTでは記憶学習能と同時にかつ独立して動機付けや感覚運動機能を同一個体で評価でき,記憶能をより正確に評価できることが示された.本系の正答率がコリン神経系,特にM1受容体を介する神経系に選択的に強く依存すること,さらにこのコリン神経系の関与は海馬LTPを介する必要のないことが示された.本系を用いて加齢に伴う記憶学習能の低下を調べたところ,従来のPNTに比較し,より障害を受けやすいことが明らかとなった.老齢ラットやSCPを投与された動物では,スタート地点からゴールまでの道筋を記憶する行動パターンが観察され,自己中心的空間記憶に依存する様子が観察された.これは,コリン神経系の機能障害により相対的空間記憶が正常に機能しなくなり,結果として自己中心的空間記憶に依存した行動パターンをとったと考えられる.すなわち本研究の結果より,相対的空間記憶が選択的にコリン神経系,とくにM1受容体を介する機構に依存すること,その記憶は海馬長期増強によらないこと,さらに老齢動物において著明な障害を受けることが明らかとなった.今後本系を用いることで,より詳細な空間記憶機構の解明が可能であると思われる. |