学位論文要旨



No 214513
著者(漢字) 菊水,健史
著者(英字)
著者(カナ) キクスイ,タケフミ
標題(和) 空間記憶学習行動の神経機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 214513
報告番号 乙14513
学位授与日 1999.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14513号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 西原,眞杉
 東京大学 助教授 竹内,ゆかり
内容要旨

 哺乳動物では多様な記憶学習能が観察されるが,特に帰巣や縄張りというような空間的記憶学習はその生命活動を正常に営む上で必要不可欠なものである.空間認知には2つの機構があるとされている.1つは自己中心的(egocentric)空間認知で,自分を基準点とし,そこからの方角および距離を用いて空間的位置関係を把握するものである.経路を覚えて目的地に到達する場合や,いわゆる"わたり"などはこれに相当する,もう1つは相対的(allocentric)空間認知で,良く馴れ親しんだ小空間内において道標となる物体群の絶対的位置関係を座標の枠組みとして,自己および目的物の位置を知るものである.この機構は"どこ"というような陳述的空間認知とされ,ヒトやサルなど脳が高度に発達した動物で頻繁に用いられている.同じ空間認知に関わるこれら2つの機構の違いを明らかにすることは,空間記憶の本体を知る上で必要不可欠である.そこで本研究では空間課題として従来より用いられている水迷路に改良を加え,相対的空間定位機構のみを評価でき,さらに空間記憶と同時にかつ独立して動機付けや感覚・運動機能を評価できる系の確立を目指した.その新しい評価系を用いて相対的空間記憶を司る神経機構を明らかにすることを目的とし,以下の実験を行った.

 はじめに相対的空間定位機構のみに依存する記憶評価系として相対的空間弁別課題 (allocentric place discrimination task;APDT)を確立した.プールに外見上同じであるが,1つは浮き台でラットが乗ると沈み,もう1つは固定台でその上に乗ると水から逃れられるよう可視の台を2つ同時に呈示した.すなわち台はスタート地点から視覚的に認知でき,ラットは陳述空間的にどちらの台かを弁別することになる.1日1セッション,1セッション6試行,1試験2セッションで実験を行い,第2試行から第6試行までの正答率を記憶の指標とした.訓練終了後,正答率は90%に達した.プールの周囲をカーテンで覆ったところ,正答率はチャンスレベルにまで低下し,本評価系が相対的空間定位機構に依存することが確認された.末梢性筋弛緩薬のdantrolene投与により運動機能を低下させると,遊泳速度の低下と遊泳時間の延長が観察された.プール内の水温を上昇させて嫌悪刺激を弱化させると,静止時間の延長と遊泳速度の低下が見られた.また水迷路で動機付けを低下するとされるmorphineの投与でも,水温を上昇させたときと同じく,静止時間の延長と遊泳速度の低下がみられた.しかし,いずれの処置によっても正答率は正常に保持されていた.これらの結果よりAPDTでは同一個体を用いて空間記憶能を,動機付けや感覚・運動機能とは別個にかつ同時に評価しうることが明らかとなり,相対的空間定位機構に依存する記憶能について選択的な評価が可能であることが示された.

 そこで,記憶学習に重要とされるコリン神経系の相対的空間定位機構における役割を従来のモーリス水迷路型の空間定位課題(place navigation task;PNT)を併用しながら検討した.APDTの正答率はアセチルコリンムスカリン受容体拮抗薬のscopolamine(SCP)0.5mg/kg投与により選択的に障害され,チャンスレベルにまで低下した.中枢透過性の低いSCP metylbrimideでは障害がみられず,またSCPによる障害はアセチルコリンエステラーゼ阻害薬のphysostigmine(PHY)の同時投与で改善された.一方PNTでは,SCP投与により遊泳距離は延長したものの,第1試行の情報をもとに,第2試行以降では遊泳距離の低下が認められ,記憶能が保持されていることが示された.遊泳軌跡の解析の結果,同じ道筋を繰り返し通るというような,自己中心的空間認知機構を用いた行動パターンが認められた.以上より,APDTはPNTに比べ,アヤチルコリンムスカリン受容体に依存することが明らかとなった

 次にAPDTにおける他の神経系の関与を調べた.PNTで学習遅延を起こすとされるbenzodiazepine(BZP)-gamma amino butyric acid(GABA)受容体アゴニストのdiazepam,アセチルコリンニコチン受容体アンタゴニストのmecamylamine,セロトニン1A受容体アゴニストの8-OH DPAT,ドパミンD2受容体アンタゴニストのhaloperidol,N-methyl-D-aspartate(NMDA)受容体アンタゴニストのMK-801いずれにおいても,正答率の低下は観察されなかった.これら薬物によりその他の行動パターンが変化したことより,その作用は記憶学習能を直接的に変化させるのではなく,むしろ感覚能や運動能,動機付けなどに影響を与えるものと思われる.続いてSCP誘発記憶障害に対する各種薬物の改善作用を検討した.PNTでの記憶に関してSCPによる障害を改善することが示されているBZP-GABA受容体アンタゴニストのflumazenil,セロトニン3受容体アンタゴニストのondansetorone,ヒスタミン3受容体アゴニストのR(-)-()-Metylhistamineいずれの薬物でも正答率の改善効果は認められなかった.よってアセチルコリンムスカリン受容体の阻害による正答率の低下は,他の神経系を変化させる事による代償的作用によっても改善されない事が示された.以上より,APDTの正答率はアセチルコリンムスカリン受容体に選択的に依存することが明らかとなり,前述の結果を支持する成績が得られた.

 さらにAPDTにおけるコリン神経系と海馬長期増強(long-term potentiation;LTP)との関係を調べた.ムスカリン1受容体(M1)アンタゴニストであるpirenzepine50g,さらにはコリンの再取込阻害薬であるhemicholinium-3 5g脳室内投与により正答率の選択的障害が観察されたが,同じ投与条件を用いた麻酔下ラットにおける海馬CA1野LTPに対するpirenzepine50gおよびhemicholinium-3 5gの影響を検討したところ,いずれも通常のシナプス伝達あるいはLTPには全く影響がみられなかった.一方,NMDA受容体アンタゴニストのD(-)-2-amino-5-phosphonovaleric acid (D-AP5) 200nmolでは正答率の低下は観察されなかったが,海馬LTPは完全に阻害された.以上の結果からAPDTの正答率が,特にM1受容体を介した中枢コリン系に選択的に依存しており,シナプスレベルの記憶の座とされる海馬CA1野LTPには直接的には関連しないことが示された.

 老齢動物においてコリン神経系の機能が低下することは良く知られている.そこで,APDTを用いて加齢に伴う空間記憶能の変化とコリン神経系の関与を検討した.PNTを用いた評価系では加齢に従いサーチエラーの上昇が見られるものの,若齢時と同様に台の位置を記憶することができた.このときのラットの遊泳軌跡を調べると,SCP投与時に観察されたものと同様に,同じ道筋を繰り返し通るという行動パターンが認められた.-方APDTによる評価系では,若齢時に90%程度であった正答率が,18ヶ月齢を過ぎるころから低下し,22ヶ月齢時では約60%にまで低下した.この低下はM1受容体アゴニストのCS-932 0.3,1.0mg/kg,あるいはアセチルコリンエステラーゼ阻害薬のPHY0.3mg/kgの投与により部分的に拮抗され,正答率の上昇が認められた.これらの結果よりAPDTでの記憶の評価はPNTのそれに比べ加齢による障害を受けやすことが示された.またAPDTで観察された加齢にともなう記憶学習障害はアセチルコリン神経系,特にM1受容体を活性化することで改善されることが示された.

 以上をまとめると,まずラットの相対的空間認知機構のみに依存する学習評価系としてAPDTを確立した.APDTでは記憶学習能と同時にかつ独立して動機付けや感覚運動機能を同一個体で評価でき,記憶能をより正確に評価できることが示された.本系の正答率がコリン神経系,特にM1受容体を介する神経系に選択的に強く依存すること,さらにこのコリン神経系の関与は海馬LTPを介する必要のないことが示された.本系を用いて加齢に伴う記憶学習能の低下を調べたところ,従来のPNTに比較し,より障害を受けやすいことが明らかとなった.老齢ラットやSCPを投与された動物では,スタート地点からゴールまでの道筋を記憶する行動パターンが観察され,自己中心的空間記憶に依存する様子が観察された.これは,コリン神経系の機能障害により相対的空間記憶が正常に機能しなくなり,結果として自己中心的空間記憶に依存した行動パターンをとったと考えられる.すなわち本研究の結果より,相対的空間記憶が選択的にコリン神経系,とくにM1受容体を介する機構に依存すること,その記憶は海馬長期増強によらないこと,さらに老齢動物において著明な障害を受けることが明らかとなった.今後本系を用いることで,より詳細な空間記憶機構の解明が可能であると思われる.

審査要旨

 動物にとって空間記憶学習能は生命活動を営む上で必要不可欠な機能であるが,哺乳類における空間認知機構には自分を基準点として空間的位置を把握する自己中心的(egocentric)空間認知と、慣れ親しんだ小空間内において道標となる物質群の絶対的位置関係を座標の枠組みとして位置を知る相対的(allocentric)空間認知の2種類の機構の存在が知られている。本研究は、水迷路法をもとに相対的空間弁別課題を確立するとともに、これを用いて空間記憶のうちとくに相対的空間定位記憶を司る神経機構を明らかにすることを目的としたものであり、8章から構成される。

 第1章では、本論文の背景となる空間認知記憶に関するこれまでの研究成果が概観され、本研究で相対的空間記憶学習とその神経機構としてアセチルコリン系の役割に焦点を当てて神経薬理学的検討を行うにいたった経緯が説明されている。

 第2章では、相対的空間定位機構にのみ依存する記憶の評価系として、新たに相対的空間弁別課題(allocentric place discrimination task;APDT)が確立された。これはプールの中に外見が同じ固定台と浮き台を2つ同時に呈示してラットに選択させる課題である。訓練終了後の正解率は90%程度に達し、末梢性筋弛緩薬dantroleneの投与による運動機能低下や、プール水温上昇による嫌悪刺激の弱化、あるいはmorphin投与による動機付け低下といったさまざまな状況下においても正答率は正常に保持されることが明らかとなった。これらの結果より、APDT系を用いることにより、空間記憶能を動機付けや感覚・運動機能とは独立かつ並行して検討しうることが示され、相対的空間定位機構に依存する記憶能について選択的な評価を実施することが可能となった。

 続く第3章と第4章では、このAPDTとモーリス水迷路型の空間定位課題(place navigation task:PNT)とを用いて両者の成績を対比しながら、まず相対的空間記憶学習におけるコリン系神経の重要性を明らかにした。次いでコリン系に加えてセロトニン系、ドパミン系、ギャバ系、興奮性アミノ酸系などについてもAPDTによる詳細な検討が行われた。その結果、PNTでは学習遅延を起こすことが知られている薬物がAPDTに対しては異なる影響を及ぼすことが示され、APDTの正答率はアセチルコリンムスカリン受容体に選択的に依存することが明らかにされている。

 第5章では、APDT記憶におけるコリン神経系の役割および海馬長期増強(Long-term potentiation;LTP)との関係が検討されている。すなわちムスカリン1受容体(M1)拮抗薬やコリン再取込阻害薬の脳室内投与により正答率の選択的障害が誘起されたが、このとき海馬CA1野LTPには影響が観察されず、一方、NMDA受容体拮抗薬の脳室内投与では海馬LTPは完全に阻害されたが正答率の低下はみられなかった。これらの結果より、APDTの正答率は特にM1受容体を介する中枢コリン系に選択的に依存しており、シナプスレベルの記憶の座とされる海馬CA1野LTPには直接的に関連しないことが示された。

 第6章では、APDTを用いて加齢に伴う空間記憶能の変化とコリン神経系の関与が検討され、APDTによる評価系では若齢時に90%程度であった正答率が、18ヶ月齢を過ぎる頃から下がり始めて22ヶ月齢では約60%にまで低下すること、そしてこの低下はM1受容体作動薬あるいはアセチルコリンエステラーゼ阻害薬の投与により部分的に拮抗されることなどが明らかとなり、APDT記憶はPNT記憶に比べて加齢による障害を受けやすいことが示された。

 第7章では、本研究で得られた結果を中心に、既報の様々な知見を援用しながら空間認知記憶学習に関わる神経機構についての考察が展開されており、最終の第8章は総括にあてられている。

 以上要するに、本研究は空間記憶学習とくに相対的空間認知機構に焦点を絞り神経薬理学的および生理学的観点から詳細に検討を行ったものであり、相対的空間記憶に中枢アセチルコリン系が選択的に関与することを見出し、空間記憶学習における独創的な概念を提唱するに至っており、学術上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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