学位論文要旨



No 214531
著者(漢字) 河野,淳也
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,ジュンヤ
標題(和) 多光子励起により誘起された液体表面の分子反応過程
標題(洋) Molecular Reaction Processes in Liquid Beam Surface Induced by Multiphoton Excitation
報告番号 214531
報告番号 乙14531
学位授与日 2000.01.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第14531号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 秋元,肇
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨 1.

 液体の表面では垂直方向に急激に密度、ポテンシャルが変化する。また、液体であることの特徴、例えば構造変化(ゆらぎ)等が存在する。そのため固体表面と異なり、液体表面を介して気相から容易に気体が取り込まれ、また液体内部から表面に容易に物質が輸送される。溶液表面において溶質分子が濃縮されていることや、溶液内部との溶媒和の構造、溶媒和エネルギーの相違などにより、溶液表面では電解質の電離状態や分子のイオン化ポテンシャルが溶液内部と異なるので多くの興味ある現象が起こる。このような液体表面の特徴から、液体表面上の分子が特異な反応性を示すことが期待される。しかし、液体の清浄表面を真空中に導入する困難さや表面近傍の気体による妨害により、液体表面における反応過程の研究は少なく、またその対象も低蒸気圧の液体に限られていた。近年開発された液体分子線法を用いると、低蒸気圧に限らない液体の清浄表面を高真空中に導入し、液体表面から生成する化学種を質量分析の手法を用いて同定することができる。本論文では、液体分子線法を用いて液体表面分子の気相放出に伴って誘起される化学反応過程を明らかにすることを目的として研究を行った。反応場となる溶液表面の同定および溶液表面上に生成したイオン種の放出過程についてまず検討した。また、溶液表面にレーザー励起によりイオンを生成し、その反応過程を追跡した。

2.液体中および真空中のイオン同時検出による液体分子線からのイオン放出機構

 液体試料を30気圧に加圧し、それを直径20mの小孔から真空中に噴出させることにより液体分子線を形成した。真空容器は油拡散ポンプと2個のクライオポンプにより排気し、液体分子線の存在下でその圧力を10-5 Torr程度に抑えた。アニリン(AN)/1-プロパノール(1-PrOH)溶液、あるいはエタノール(EtOH)を真空中に液体分子線として導入し、波長266nmのレーザー光照射によりイオンを生成した。液体分子線から真空中へ放出されたイオンは飛行時間型質量分析計により、液体中に残留したイオンは誘導電流検出器により同時に測定し、イオン放出機構を明らかにした。図1に0.2MのAN/1-PrOH溶液について、溶液中に生成したイオン量および気相中に生成したイオン量のレーザー強度依存性を示す。AN/1-PrOH溶液では、溶液中に生成したイオンの強度はレーザー強度の増加とともに増加するが、約25J/pulseを超えると増加しなくなった。また、気相中に生成したイオン、AN+(1-PrOH)nは、約25J/pulseのしきいレーザー強度から観測され始め、その後レーザー強度の増加とともに強度を増していくことが分かった。溶液中に生成したイオンの気相中への放出過程は、クーロン放出モデルにより説明できる。つまり、レーザー励起により溶液中にイオンおよび電子が生成するが、溶液表面で生成した電子は気相中へと放出される。その結果溶液表面に残ったイオンは互いのクーロン反発力により気相中へと放出される。AN/1-PrOH溶液におけるイオン強度のレーザー強度依存性は、溶液表面で一定値以上の密度で電荷が存在する領域からイオンが気相中へと放出されるというモデルにより説明することができる。

図1 AN/1-PrOH溶液へのレーザー光照射で溶液中に生成したイオンによる誘導電荷(○)、および気相中に生成したイオン、AN+(1-PrOH)nの生成量(●)のレーザー強度依存性
3.選択的多光子励起に伴う液体表面分子の反応3.1多光子励起に伴うプロトン化フェニルケトンとアルコールのイオン分子反応

 0.5Mのアセトフェノン/エタノール溶液液体分子線に波長250nmのレーザー光を照射したときに得られた質量スペクトルを図2に示す。質量スペクトル中には一つのイオン種が選択的に強く現れ、その質量数は149であった。生成するイオン種の溶媒依存性から、このイオン種は[C6H5C(OEt)CH3]+と帰属された。また、[C6H5C(OH)CH3]+というイオン種も同時に検出された。フェニルケトンC6H5COR(R=H,CH3,C2H5,C6H5)のアルコールR’OH(R’=CH3,C2H5,n-C3H7,i-C3H7)溶液では同様のイオン種、[C6H5C(OR’)R]+が得られた。これらのことから、芳香属カルボニル分子がT1状態でアルコールから水素を引き抜き、その後光イオン化されることで中間体として[C6H5C(OH)CH3]+というイオンを生成すること、またそれをアルコール分子が求核的に攻撃することによって[C6H5C(OEt)CH3]+が生成していることが分かった。(スキーム1)

図表図2 アセトフェノンのエタノール溶液に波長250nmのレーザー光を照射することにより得られた質量スペクトル / スキーム 1
3.2多光子励起に伴う安息香酸とアルコールのエステル生成反応

 0.5Mの安息香酸のエタノール溶液を真空中に液体分子線として導入し、波長272nmのレーザー光を照射して得られた質量スペクトルを図3に示す。観測されたイオン種は主に[C6H5C(OH)2]+、[C6H5C(OH)(C2H5O)]+、[C6H5C(OH)2(C2H5OH)]+およびそのエタノール溶媒和クラスターイオンであった。溶液にナフタレンを添加すると、これらのイオン種の強度が減少した。これは、光吸収後の緩和により生成したT1状態の安息香酸からナフタレンのT1状態へのエネルギー移動が起こっていることを示している。安息香酸はそのT1状態において溶媒のアルコールから水素を引き抜いた後に光イオン化され、[C6H5C(OH)2]+を生成する。これは安息香酸のエステル化反応の中間体である。質量スペクトル中には最終生成物までの中間体がすべて観測されることが分かった。

図3 安息香酸のエタノール溶液に波長272nmのレーザー光を照射することにより得られた質量スペクトル
4.多光子励起に伴う電解質溶液表面の反応4.1CaI2アルコール溶液からのイオン生成過程

 0.5MのCaI2/エタノール溶液液体分子線へのレーザー光照射により生成したイオンは主にCaI+(EtOH)m(m=1-7、CaOEt+(EtOH)m(m=2-9)、およびH+(EtOH)m,(m=3-5)であった。イオン化からパルス加速までの遅延時間に対する減衰定数を図4に示す。この減衰定数は、そのイオンの持つ初速度を反映している。求めた速度から、気相中に放出されたCa2+(EtOH)mが電荷分離反応を起こし、同一クラスター内に生成した2つのイオン種、CaOEt+(EtOH)m’、H+(EtOH)m"が生成し、これらがクーロン反発により大きな運動エネルギーを得ていることが明らかとなった。

図6 イオン化からパルス加速までの遅延時間に対するイオン強度の減衰定数◇:H+(EtOH)m、□:CaOEt+(EtOH)m、△:CaI+(EtOH)m
4.2.CaCl2アルコール溶液からのCa+(EtOH)m生成過程

 0.1MのCaCl2/エタノール溶液に波長266nmのレーザー光を照射することにより、Ca+(EtOH)m、CaOEt+(EtOH)m、H+(EtOH)m、およびCaCl+(EtOH)mが主に観測された。この溶液に電子捕捉剤であるCHCl3を添加したときのCa+(EtOH)2、CaOEt+(EtOH)1、H+(EtOH)3、およびCaCl+(EtOH)1のイオン強度のCHCl3濃度依存性を図5に示す。CHCl3濃度の増加に対してCa+(EtOH)2、CaOEt+(EtOH)1のイオン強度は減少し、一方、H+(EtOH)2、CaCl+(EtOH)1は明らかに増加する傾向を示している。これらの結果から、Ca+(EtOH)n、CaOEt+(EtOH)nの生成過程には溶媒和電子によるCa2+の還元反応が関与していることが明らかとなった。

図5 イオン強度のCHCl3濃度に対する依存性○:Ca+(EtOH)2;●:CaOEt+(EtOH)1;□:H+(EtOH)3;△:Ca35Cl+(EtOH)1
6.まとめ

 本研究では、液体表面のレーザー照射による分子およびクラスター生成過程を、液体分子線法を用いて考察した。レーザー光励起によって気相中および溶液内部に生成したイオン種の同時検出により、溶液表面で生成したイオンの気相中への放出過程を調べ、クーロン放出によるイオン放出機構について考察した。また、反応中間体イオンを気相中に安定に分離できることを利用し、溶液表面においてレーザー光励起により生成したイオン種の示すいくつかの反応過程について考察した。その結果、芳香族カルボニル分子の選択的多光子励起に伴い、溶液表面上で求核置換反応、エステル化反応が進行することを明らかにした。また、電解質溶液の多光子励起に伴う電荷分離反応、溶媒和電子捕捉反応について考察した。

審査要旨

 本論文は9章からなり、第1章は序、第2章では実験の詳細を述べ、第3章では、液体中および真空中のイオン同時検出による液体分子線からのイオン放出機構が述べられている。そして、第4〜6章では、選択的多光子励起に伴う液体表面分子の反応、第7、8章では、多光子励起に伴う電解質溶液表面の反応、そして、第9章では、まとめが述べられている。

 第1章では、まず本研究の背景となる液体表面の興味ある現象および特徴を述べ、さらに本論文の研究目的として、液体分子線法を用いて液体表面分子の気相放出に伴って誘起される化学反応過程を明らかにすることを掲げている。そして、第2章では、反応場となる溶液表面の同定および溶液表面上に生成したイオン種の放出過程について検討し、また、溶液表面にレーザー励起によりイオンを生成し、その反応過程を追跡したことが述べられている。

 第3章では、液体分子線から真空中へ放出されたイオンは飛行時間型質量分析計により、また、液体中に残留したイオンは誘導電流検出器により同時に測定し、イオン放出機構を明らかにしている。アニリン/1-プロパノール溶液におけるイオン強度のレーザー強度依存性は、溶液表面で一定値以上の密度で電荷が存在する領域からイオンが気相中へと放出されるというモデルにより説明することができることを示している。

 第4章では、まず、多光子励起に伴うプロトン化フェニルケトンとアルコールのイオン分子反応の研究を行い、芳香属カルボニル分子がT1状態でアルコールから水素を引き抜き、その後光イオン化されることで中間体として[C6H5C(OH)CH3]+というイオンを生成すること、第5章では、それをアルコール分子が求核的に攻撃することによって[C6H5C(OEt)CH3]+が生成していることを解明している。また、第6章では、多光子励起に伴う安息香酸とアルコールのエステル生成反応の実験により質量スペクトル中には最終生成物までの中間体がすべて観測されることを明らかにしている。

 第7章では、CaI2アルコール溶液からのイオン生成過程の考察をしている。イオン化からパルス加速までの遅延時間に対する減衰定数定数がイオンの持つ初速度を反映すると考え、気相中に放出されたCa2+(EtOH)mが電荷分離反応を起こし、同一クラスター内に生成した2つのイオン種、が生成され、これらがクーロン反発により大きな運動エネルギーを得ていることを明らかにしている。また、第8章では、CaCl2アルコール溶液からのCa+(EtOH)m生成過程の実験結果より、Ca+(EtOH)n、CaOEt+(EtOH)nの生成過程には溶媒和電子によるCa2+の還元反応が関与していることを見出している。

 第9章では、本論文のまとめを述べている。液体表面のレーザー照射による分子およびクラスター生成過程を液体分子線法を用いて考察した結果、芳香族カルボニル分子の選択的多光子励起に伴い、溶液表面上で求核置換反応、エステル化反応が進行することを示したとしている。さらに電解質溶液の多光子励起に伴う電荷分離反応、溶媒和電子捕捉反応について考察したことを述べて全体をまとめている。

 なお、本論文第4章は、近藤保氏・真船文隆氏・堀本訓子氏、第3・5・6・7・8章は、近藤保氏・真船文隆氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験と解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)を授与できると認める。

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