第I部について 第I部第4章(初出は1976年、以下同じ)は、最も早い時期に公にしたものである。同章における大きな問題関心は、なぜ農業において小農的形態が一般的なのか(小農の強靭性と言い換えてもよい)、なぜ資本家的農業への展望を見通すことができないのか(当時の主流的な見方であった)、という点にある。同章において稲作と茶業による複合的経営に着目したのも、その点にあり、茶業という商品作物生産にウエイトを置いた経営形態を「在地生産家」と規定して、検討を加えたのもそのためである。言い換えるならば、「在地生産家」として稲作と茶業とを結合させた農家の経営形態が、歴史具体的にどのようなものであったかという点に着眼して、そうした存在を「小農」概念と関わらせて検討したのである。そこでは、製茶業において「家内仕舞経営」(家族労作経営)と「大仕掛経営」 (豪農経営)との間に生産力的格差は見ることはできず、むしろ「家内仕舞経営」という「小農」的な形態が生産力的に見て普遍的であることを確認することができた。とはいえ、なぜそれが一般的なのかという理由を明示することはできなかった。と同時に、「家」という視角が必ずしも明瞭とはいえなかった。
「家」に視点を定めるようになったのは第I部第5章(1984年)においてである。そこで検討しておきたかったことは、「小農」としての農家が大正期に入ってどのように自らを定立させているのか、そこでのメカニズムがどのように働いているか、という点である。個別の農家経営調査に基づいて、その経営の担い手がどのように構成されているかを検討した際、次のような素朴な事実のもつ重要性に気がついたのである(当然といえば、当然なのであるが)。例えば、ある農家の構成メンバーである次・三男たちが、その親の経営の一翼を、長男とともに担っていたとしても、彼ら次・三男がその親の経営をそのまま継続して担うとはいえないとすれば、次代の経営の担い手とそうではない構成メンバーとを区別して理解する必要が生まれてくる。とくに彼ら次・三男が結婚した(あるいは「家付娘」の養子になった)とき、その次・三男世帯がそのまま継続してこれまでの同一経営において担い手たり得ないという事実が、農家経済を考える場合、非常に重要なファクターとなることに気がついたのである。つまり、農家経済を構成するメンバーを世帯としてつかむことが重要であること、と同時に農家という存在の時系列において、その構成員のあり方が、家族周期(ファミリー・サイクル)のそれぞれの段階において変化することの意味を問うことが重要であること、これである。そのことによって、「小農」として存在する農家を「家」の視点から見直すきつかけをつかむことができたのである。
そこで、「家」という視角から検討したものが第I部第6章(1987年)である。同章において念頭に置いたのは、チャヤノフの「小農経済」論であった。いうまでもなく、チャヤノフは、戦前期において小農経済学者として広く知られた存在であり、その理論に対しては批判も多かったが、近年では、その再評価も生まれつつある。そうした動きに着目しつつ、同章では、チャヤノフの「小農経済」論が農家経済を考える上で有効な枠組であると位置づけている。なかでも注目したのは、チャヤノフの家族周期論と市場経済のもとにある「小農」把握であった。とくに家族周期論についていえば、生活の単位として家族を位置づけ、その繰り返しの意味を問うことに着目した。
また、チャヤノフの「小農経済」論は、「商品型の経済」のもとにおける「家族経済」に対する理論的枠組を提供しているといってよい。その意味で市場経済においても、小農経済が成立する根拠を提示したものとして理解することができる。齋藤仁氏のいう「商品経済的行動規範」に基づく農家経済の営みを検討する場合、適用可能な理論的枠組であるという視点は、本論文にとってきわめて重要である。農家経済が小農的形態を取りながら、市場経済と結びついて存在することの意味を問い直すことになると考えるからである。
こうした「家」を基礎とした農家経済の原型がいつ頃形づくられたのかを検討したのが、第I部第3章(1993年)である。従来からの「小農自立」論に関わらせて、譜代下人とその親方の関係の変容の中に、「小農」的家の成立が見られることを明らかにしたものである。
以上見てきたように、第I部「家の歴史的位相」は、「商品経済的規範」に裏付けられた小農の位置づけを出発点にした上で、農家経済が、その家族の周期的律動、構成員の変化を通じて、生活単位としての「家」の存在と不可分に結びつくことによって、「家」が農家経済にとって規定的役割を果たしていることを歴史的に検証する作業であったといってよい。つまり、「家」が生活単位として意味があるとすれば、農家にとって農業は、生活を持続させる上での選択肢の一つであったという点を見逃してはならないのである(この点に関連させて、ボランニーが指摘する「利得の原理」と「生存の原理」を想起しておきたい)。またこの点に、「小農としての強靭性」の意味を見定めることが可能になる、というのが本論文の立場である。そうした「家」のあり方を、いわば原理的に押さえる理論的枠組として、有賀喜左衛門氏の「家」論に注目したのである。第1章において有賀「家」を検討したのも、その故である。
「家」とは、農家経済が営まれる場であり、生活の単位として機能する限り、「小農」としての強靭性は維持される(あるいは農業が生活基盤として意味がある限り「小農」として存在する)。後述するように、それぞれの農家が農業の営みを持続させろ限り、相互の<耕作する事実>を保障する場として一定の範域が生まれる。そうした範域を「村」とするのが本論文の立場である。言い換えれば、「村」は、農家経済が機能する場であり、各農家を相互に制約する力を内在させることになる。また「家」の論理として、嫡系成員と傍系成員とが区別される限り、家族周期的にいって、傍系成員は、「家」から排出されることになる。「家」がこうした排出力をもつことは、同時に、「村」が人々を押し出す力を持つことでもある。
このように捉えることができるとすれば、「村」は、後述するように、<耕作する事実>という相互承認を通じて、「家」の論理が生かされる場であるとすることができる。もちろん、こうした規定が単純すぎることは否めない。そこで、都市との関係からそのアウトラインを描いたのが、第I部第7章(1998年)である。
第II部について 「村」の問題について考えるようになったきっかけは、地主制あるいは地主経営について個別具体的に検討したことによる。第II部第8章(1978年)において、静岡県小笠郡倉真村(現掛川市)在住の地主であった岡田家の地主経営を分析した時、一つの素朴な疑問が、解決されないまま残されたのである。その疑問とは、「散田帳」(小作帳)に記載された農家でなく、他の農家が小作米を納入しても、それを帳簿に記載して、承認するような態度を地主がとるのはなぜなのか、という点であった。一見当たり前のように見える事態であるが、例えば、中村政則氏の「大土地所有の圧倒的優位と零細農民経営の圧倒的劣位、この基本対抗=基本構造がこの時期に全日本的規模で確定されたのである(基本線の定置)」という理解からすると、必ずしもうまく説明できないように思われたのである。仮に中村氏の指摘するように、地主の絶対的優位性があるとすれば、なぜ、その権限を毎年の小作米納入に対して行使しないのか。それを「温情」と呼ぶとしても、なぜ、そうした「温情」が生まれてくるのか。「温情」と「圧倒的優位性」とはどのようの関係しているのか。ひとつの疑問から、様々な疑問が連鎖して出てくるのである。そうした疑問を解く鍵として「村」の存在に着目することになった。これまでも地主の「温情」をキイ・ワードにして地主制を理解しようとした仕事は少なくない。例えば庄司俊作氏はその一人である。しかし、ここで「村」に着目するのは必ずしも庄司氏の関心とは同じではない。ここでの主要な関心は、「村」という場に置かれた地主が、なぜ「温情」を発揮しなければならないのか、 「村」のいかなる力がそうさせるのか、という点にある(地主・小作関係に作用する「村」の存在、あるいはその力)。
こうした疑問を解く糸口を得たのは、第II部第9章(1989年)での「土地台帳」に基づく分析においてでおる。一村規模における各農家の土地所有の変遷を、「土地台帳」を利用して検討していたとき、その土地所有のあり方には大きな特徴があることがわかった。結論的にいえば、その規模に関わらず、私的土地所有権の絶対性が、必ずしも働かない場が存在し、<耕作する事実>に製肘されているということであった。そして、この<耕作する事実>を保障する場としての「村」という存在に注目するに至った。この<耕作する事実>については、例えば、大場正巳氏が「所有権、耕作権移動における移動の方向性」には「ある一定のルールが存在」するとして、「耕作『権』」と規定したものに近い。また川口由彦氏が地主と小作人の土地支配権の重層構造に着目して「小作人の土地固着性」に着目して、「小作人の土地支配権」ととらえたものと実体的には共通するものがある。
このように「村」を想定したとき、「村」の力が具体的に働く位相を土地慣行という視角から整理したのが、第II部第10章(1996年)である。各農家が自らの<耕作する事実>を相互に承認しようとするとき、相互承認を互いに確かめ合う広がりの中で日々の生活が営まれることになり、そこに土地慣行が生きていると考えたからに他ならない。こうした村理解は、主として農村社会学の分野において「村領域」論として追求されており、その意味で「村領域」論の位置を村落社会研究の中に見定めることは本論文にとって重要不可欠の課題である。第2章(1992年)はそのためのものである。