学位論文要旨



No 214550
著者(漢字) 鈴木,宏昭
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ヒロアキ
標題(和) 類似に基づく思考と学習に関する認知科学的研究
標題(洋)
報告番号 214550
報告番号 乙14550
学位授与日 2000.02.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第14550号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐伯,胖
 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 堀,浩一
内容要旨

 本論文では、認知科学の立場から、人間の思考と学習が過去経験から得られた知識の類推的使用として特徴づけられることを主張した。この主張を裏づけるためには、人間の思考、学習が形式的、抽象的ルールによっては説明し得ないこと、及び類似が思考と学習という高次認知機能に拡張可能であることを示し、類推においてベースとして用いられる知識の性質を特定する必要がある。この各々を論文の第I、II、III部で扱った。

 第I部では、人間の学習、思考が形式的、抽象的なルールの適用過程としては捉えられないことを示し、領域や文脈情報を含む過去の経験から得られた知識を、現場面との類似関係に基づいて類推的に利用する過程である可能性を指摘した。

 人間の思考は内容から独立した形式的なルールに基づくとする立場が存在する。しかし、1970年代以降の認知科学は、人がそのようなルールを用いているとする立場からは説明できない実験データを数多く提供してきた。これらの研究は、人の思考は領域に固有であり、文脈に敏感であることを明らかにした。1章では、論理に基づく思考観、Piagetの発達論、弱い一般的方略に基づく思考の理論を取り上げ、それらの問題点を実証的、論理的に明らかにした。人間が形式的なルールに基づいた思考を行わない理由は、形式的ルールが仮定する世界と、人間が思考を行う

 世界との違い、及び形式的、抽象的なルールの利用におけるコストの高さに関係することが明らかにされた。

 2章では、算数・数学、物理などの領域に固有ではあるが抽象性の高いルールが、少なくとも学習初期には強い文脈依存性を示すことが示された。学校で教えられるこれらの領域のルールは現実場面での利用が困難であること、一方学習者の推論は問題の文脈によって大きく左右され、誤ったルールの適用結果として説明することもできないことが明らかにされた。以上のことから、人間の思考は文脈に依存していることが明らかにされた。思考の文脈依存性は、前章で述べたルール適用のためのコストに関係していることが示された。

 3章では、与えられたデータの内容と独立し、既有知識を用いない学習メカニズムを仮定する手続き的学習理論を批判的に検討した。この学習理論では、情報を逐一検査でき、かつ用いられるルールの数が少数である場合以外は、人間の学習を説明できる可能性が低いことを明らかにした。次に、概念の帰納学習、テキストからの学習、物理の学習の分野から、対象領域に関する既有知識を活用した学習を示すデータを挙げ、人間の学習が既有知識に依存していることを示した。次に、こうした知見に基づいて提案された、説明に基づく学習理論についての検討を行った。しかしながら、この理論の前提とは異なり、人間は当該学習領域においてきわめて貧弱な知識しか持たない場合であっても、また矛盾する知識がある場合でも学習が可能である。

 4章では、1章から3章までの知見をまとめ、人間の思考と学習を的確に捉える理論は、文脈依存性を説明できること、学習の知識依存性を認めること、完全な領域知識を仮定しないことの3つの条件を満すべきであることを示した。そして、人間の思考、学習が、領域や文脈情報を含む過去の経験から得られた知識を、現場面との類似関係に基づいて類推的に利用する過程である可能性を指摘した。

 しかしながら、上記の仮説を検証するためには、類似が高次認知機能へ拡張可能であるか、また知識内に含まれる文脈情報がいかなるものかを特定しなければならない。

 第II部では、類似を思考や学習といった高次認知機能へと拡張するための条件を明らかにし、人間の類似判断がその条件を満足するかを検討した。

 第5章では、まず認知科学における人間の諸心理機能のモデルや理論には類似がさまざまな形で利用されていることを、カテゴリー化、記憶検索、帰納推論、学習の転移、言語理解・獲得の各分野の研究を通して明らかにした。しかしながら、認知科学、認知心理学における古典的な類似の理論は、固定した特徴に基づいていること、関係、構造情報を検知し、利用するメカニズムを特足しないこと、ゴールや領域知識を利用するメカニズムが存在しないことから、思考や学習といった高次認知機能にそのままの形で拡張することはできないことが示された。

 第6章では、人間の類似判断が上記の3つの問題を克服しているかを近年の類似判断についての研究を通して明らかにした。関連する研究から、人間は、対比されるものとの関係において考慮される情報やその顕著さを変化させていること、人間は類似判断を行うことにより、関係、構造的な特徴を検知し、それらの特徴を表面的類似に関する特徴と区別して類似判断を行うこと、人間は特定のゴールと領域知識が与えられることにより、ゴールに関連する情報を生成し、ゴールの達成にとって適切な類似判断を行うメカニズムを有していることが明らかにされた。以上から、思考、学習における知識利用の基本メカニズムに類似をすえるための条件が満たされたことが結論づけられた。

 第III部では、類推についての従来の研究及び理論を検討することを通して、人間の類推は準抽象化を媒介としていることを理論的、実証的に明らかにした。

 第8章においては、まず類推の概念規定を行った。次に、類推のプロセスにおいて重要なベースの検索と写像についての研究を概観した。従来の理論においては、過去の経験が何らの抽象化も経ずにそのままの形で取り込んだベースを想定している。この結果、検索や写像の初期においてベースとターゲット間で悉皆的に対応仮説を生成せざるを得ない。しかしこうした仮定は、人間の記憶表象についての知見、処理能力についての知見と著しい矛盾を生み出している。また、これらの理論はなぜ類推が可能かという問題に答えていないため、知識の転移が困難な学習者が行う当てはめ型の類推と、人間が主観的には確信を持って行う類推とを区別できないことが指摘された。

 以上の問題を克服するため、第9章では類推が可能であるための条件を理論的に分析し、準抽象化の存在が必須であることを理論的に明らかにした。まず、類推写像が可能であるための条件が、ベースとターゲットとのカテゴリー的同一性、すなわちベースとターゲットを包摂する抽象化の存在にあることを理論的に明らかにした。一方、第I部で指摘したように、人間は抽象化を利用することが著しく困難である場合が少なくない。そこで、人間の用いる抽象化の特徴をカテゴリー研究の知見から分析し、それらは1)一般化された目標の達成に向けたものになっていること、2)抽象化内の対象や関係はその目標の達成という観点から、意味的、機能的にまとまりをもっていること、3)またそこに関与する対象は目的を実行するための条件を満たしていること、の三つの特徴を持つことを明らかにした。そしてこうした特徴を持つ抽象化を準抽象化と名付けた。また、準抽象化は類推におけるベース検索、写像において、計算論的に有益な制約を与えることが明らかにされた。

 10章では、準抽象化の特質を明らかにするために行われた3つの研究を報告した。まず力の合成分解における初心者の思考過程を実験的に分析することにより、構造的には同一であるが、そこでの目的に応じて二つの異なる準抽象化が存在し、物理の学習に深く関与することを明らかにした。次に、初心者におけるオペレーティングシステム・コマンドの学習の分析を行った。関連する知識がないようにみえる場合でも、agent-patient関係の準抽象化という小さな知識単位が類推的に用いられていることが明らかになった。この準抽象化を導入することにより、初心者が学習しやすい項目と学習しにくい項目が区別できること、またその項目内における学習結果の変動も説明できることが示された。最後に、算数の文章題の解法の転移についての研究を通して、具体例に基づく類推と準抽象化に基づく類推の二つを比較した。その結果、準抽象化を教示に導入することにより、ある種の問題への転移を促進できることが明らかにされた。

 11章では、準抽象化に基づく類推と他の類推理論との比較を行った。この比較を通して、準抽象化に基づく類推説は、抽象化された知識を前提とする点、抽象化が目標に応じてなされているとする点、特定の領域を前提としない点において独自の地位を持つことが明らかにされた。

 以上の議論から、人間の思考と学習は、形式的、抽象的ルールに基づいたものとは見なせないこと、また人間は思考、学習にとって本質的重要性を持つ関係、構造、ゴールの情報を取り込んで柔軟に類似判断を行うことが可能であること、人間の類推は準抽象化を媒介して行われることが明らかにされた。これらのことから、人間の思考、学習は、領域や文脈情報を含む過去の経験から得られた知識を、現場面との類似関係に基づいて類推的に利用する過程であるという主張の妥当性が認知科学的に確認された。

審査要旨

 従来、思考はなんらかの一般的推論規則にしたがってなされるか、もしくは個別の知識領域に固有のモデル(ないしは枠組み)に「当てはめて」行われるものとされてきたが、近年の認知心理学研究の結果、人々の思考は一般規則の適用とは本質的に異なる「領域固有性」があること、それにもかかわらず、具体的個別的経験が異なる場面での思考に有効に転移することもあることなど、統一的には説明しがたい事実が次々と明らかになってきている。一方、認知科学の分野で、比喩、類推、などについての精緻なモデルが種々提案され、類似に基づく思考が従来考えられていたよりも、はるかに広範囲の思考や学習に利用されている可能性が開かれてきている。

 本論文では、類推に基づく思考や学習に関する過去の研究を展望し、あらたに、「準抽象化」と名付けたレベルの類推概念を提唱し、人間の思考や学習が準抽象化を媒介とする類推によるとする仮説の妥当性を、理論的かつ実証的に検証している。

 第I部では、人間の学習・思考が形式的、抽象的なルールの適用過程としては捉えられないことを、過去の研究の批判的検討から明らかにした。第II部では、従来の類推研究で提起されてきた類似性の概念では、記憶やカテゴリー化等には有効でも、思考や学習に一般的に適用されるには不十分であることを明らかにし、人間は特定のゴールと領域知識が与えられることによって、ゴールに関連する情報を生成し、ゴールの達成に適切な類似判断を行うメカニズムを有することを明らかにした。第III部では、類推写像が可能となる条件として、ベースとターゲットを包摂する抽象化の存在を理論的に明らかにし、その抽象化は(1)一般化された目標の達成に向けたものであること、(2)抽象化内の対象や関係はその目標の達成という観点から意味的、機能的にまとまったものであること、そして(3)そこに関与する対象は目的を遂行するための条件を満たしていることとし、以上の三条件を満たす特徴をもつ抽象化を「準抽象化」と名付けた。さらに、物理の学習、コンピュータのプログラミングの学習、算数の文章題の解法の転移などに関する実験的研究から、準抽象化を導入することによって、人間の思考や学習のパフォーマンスを詳細なレベルで説明できることを明らかにした。さらに、本研究の類推に関する従来研究との違いや可能な批判の検討を通して、本研究の妥当性と独自性を浮き彫りにした。

 以上のように、本論文が人間の思考と学習に関して、従来の類似の概念を拡張し、「準抽象化による類推」の概念を提起し、その一般性と有効性を検証したことは、本研究の独自性とともに、教育学における教授・学習過程の研究にきわめて有意義な知見をもたらすものである。

 以上より、本論文は、博士(教育学)の学位論文として十分優れたものであると判断される。

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