学位論文要旨



No 214558
著者(漢字) 渡辺,研司
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ケンジ
標題(和) イギリス近代建築運動におけるMARSグループの活動に関する史的研究 : 1933年から1957年までを中心に
標題(洋)
報告番号 214558
報告番号 乙14558
学位授与日 2000.02.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14558号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 Findlay Kathryn E.
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 研究の目的

 本研究は、近代建築国際会議CIAM(Congres Internationaux d’Architecture Modern)のイギリス支部である、近代建筑研究すなわちMARS(Modern Architectural Research)グループの活動を、その結成の年である1933年から、終焉の年である1957年までという時代的枠組みを設定し、その時代に見られるMARSグループの近代建築運動に関連する事績の建築史的考察、及びグループに関連した建築家の活動を検証することで、イギリスにおける近代建築運動の特質を解明することを目的とする。

第1章イギリス近代建築運動の受容

 MARSグループは、1933年4月にCIAMの事務局であった、ギーディオンの要請により、イギリス国内のCIAM組織として結成された。CIAM創設の1928年からMARSグループ結成までの5年という期間に、イギリス近代建築運動のもつ遅れが存在する。しかしながら、結成と同時にグループの活動指針、執行委員会、専門委員会が組織された。1933年のCIAM4会議に4人の代表が、初めて正式に参加したのだが、ヨーロッパ諸国のMARSグループと同様な各国CIAMグループの結成が、1943年のフランス、ASCORALグループ結成まで存在していないことから、1928年のCIAM創設には、イギリスは関与していないといえども、グループとしての活動においては、ヨーロッパ諸国の先陣をきっていたといえる。つまり、この5年という遅れが、グループとして活動を行う上で、逆に先進性を育む時間的猶予となっている。

 第二次大戦前におけるMARSグループの主要な活動としては、1938年のロンドンで開催された、MARS新建築展覧会があげられる。これは、CIAM創設の際に採択されたラ・サラ宣言における、近代建築の大衆への普及という課題に対する、MARSグループからの応答という意味合いがあった。1920年代までヨーロッパ大陸に見られる近代建築に対しては、イギリスの風土的特質である保守性、あるいは反コスモポリタン的姿勢によって、イギリス国内においては受容されておらず、それ故、展覧会というメディアによって近代建築を親しみのあるものにすることが第一の目的となった。

 結果的には、展覧会の存在は、イギリス国内だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本に及ぶまで知られることになり、その目的は達成されたといえる。しかしながら、国際様式の近代建築のイギリスへの受容は、逆説的に近代建築のイギリス的なものへの模索を促すことになる。このことは、近代建築が、戦争において、左翼、右翼を問わず、国家の威信をかけたイデオロギーに巻き込まれる例が他の諸国において多々見られるが、全体主義に最後まで反対したイギリスの場合も例外とはいえないことを示す。そして、イギリス近代建築運動の特質として、政治的にも組織的にも、ソビエト、ドイツに見られるように左翼、右翼において極端な立場をとらず、中庸的な姿勢を維持することがあげられる。

第2章イギリス近代建筑運動の馴化

 第二次大戦が開始されると同時に、MARSグループの活動は、スラム・クリアランスを中心とした、ロンドンの都市計画に重点が移動する。グループ内の都市計画委員会が組織され、1942年に、ロンドン・マスタープランの発表に至る。このMARSグループによる都市計画案は、1943年のLCCによるロンドン州計画に先駆けて発表されたにもかかわらず、ロンドン州計画が田園都市計画の伝統を受け継いでいたため、MARSグループのマスタープランが持つ左翼的革新性が否定的に受け取られ、机上の空論として正当な評価を受けなかった。

 1944年には、MARSグループの主催によって、「近代建築とは何か」という題名をもつ討論会が開催され、近代建築に対する定義が一般に公開された議論を通して行われた。以上の二つの事績の経緯は、MARSグループ内における、研究、調査の一環であり、会報(ブルテン)として発表されている。

 この調査、研究、講演、そして討論会を通した議論の公開性と自己批判を重んじる相対化に見られる近代建筑の受容形態は、第二次大戦後、新世代の建築家、芸術家による組織運動に継承されており、イギリス近代建築運動の特質の一つであると認識できる。

 第二次大戦後においては、1947年にイギリスでCIAM会議をはじめて開催し、MARSグループがその運営を行っている。ヨーロッパにおけるCIAMの活動は、戦争によって10年間途絶えており、また、その中心となっていたCIAMのメンバーは、ル・コルビュジエを除き、アメリカに活動の場を移していた。戦後、CIAMの活動の再開に際して、戦争による被害が少なく、またヨーロッパとの関係も深いイギリスが、その総括役として選ばれた。そして、MARSグループによる活動は、戦後CIAMにおいてヨーロッパ対アメリカ、資本主義対社会主義の二重構造の緩衝的な役割を果たすことになった。その二重構造として顕著な議論としては、美学対技術という問題が1947年からのCIAM6会議からCIAM内において具体的に始まった。特に、ギーディオンによって画策されたニュー・モニュメンタリティという建築表現の問題は、美学という主観的認識への疑義と、戦後の再建設の必要性から、技術という実践的、客観的認識への偏重により、弱まっていく。

第3章イギリス近代建築運動の発展

 その後のCIAM会議においては、1949年のCIAM7のCIAMグリッドという都市計画における方法論の構築と、1951年のCIAM8での都市の核=中心、そして1953年のCIAM9での居住憲章の制定に見られるように、その中心的活動は、アテネ憲章を受け継ぐ合理主義、機能主義的都市計画の理論化と、戦後ヨーロッパにおける計画概念の統制を強化するものとなった。

 これに対して、MARSグループは、イギリス的都市計画の伝統を活用した、ニュー・タウンの計画と、ロンドン都心での近代建築の再建を計るべく、1951年のイギリス祭での都市におけるピクチャレスクの復活を主張した。加えて、1947年のCIAM6から、建築教育の提案が行われ、MARSグループが中心となり、CIAMサマー・スクールの開催に結実していった。1953年には、機能主義的都市計画に対して人間性と地域性が重視された新たなコミュニティをもつ都市計画が、スミッソンを中心にMARSグループの若い世代の建築家によって提唱された。彼等は、CIAMの狭義の近代主義に対して、また、MARSグループの安易なヨーロッパ大陸の近代建築の受容(新経験主義)とピクチャレスクという伝統回顧主義に対する抗議というかたちをとりながら、チーム・テンを、統制的なCIAM、MARSグループに代わる、理想的なアソシエーション(組織)として結成していく。

 チーム・テンは、1950年代におけるイギリスの芸術運動組織、インディペンデント・グループによる活動と相互に影響を及ぼしあいながら、近代主義に対する新たな認識を確立することを試みた。一方、MARSグループは、戦後すべてのCIAM会議に出席し、実践的な提案を行った。

 しかしながら、チーム・テンという若い世代の出現と、戦前からの近代建築の受容に際しての調査、研究という活動目的が、戦後において、近代建築の実現化という発展段階に至ることで、理論面から実践面へとシフトしたため、グループとしての活動の時間的猶予がなくなり、運動の存在理由をしだいに無くしていった。

第4章イギリス近代建築運動の転回

 活動が終焉に向かう中、1955年にMARSグループが主催したTurn Again展覧会が、戦後のイギリスにおける都市計画の中心的命題であった、分散集中に抵抗したかたちで開催された。その主題は、ロンドンの中心、シティ地区の再開発であり、近代建築の目的を改めて問い直すことであった。これは、ロンドン中心地区に現存する建築群の旧態然とした都市景観に異議を唱えたものであり、この近代建築への積極的姿勢は、1967年のミースによるオフィスビル計画案を経て、1980年代のリチャード・ロジャーズによるハイ・テク建築の実現へ向けての最初の意識改革となった。

 Turn Again展覧会に続いて、1956年にMARSグループのメンバーを含めて、インディペンデント・グループを中心とした芸術家、建築家によって、This Is Tomorrow展覧会が開かれた。ここでは、近代主義を超える価値観の多様性を意図する新しい思考と形態が、イギリス近代建築運動の特質の一つである、建築・絵画・彫刻の統合という協同性(アソシエーション)を方法論に持ちながら、提案された。この新しい価値観の支持が、1960年代のアメリカにおいてその消費文化を背景としたポップ・カルチャーの基底的意識となった。また、イギリスにおいてはアーキグラムに見られる社会的プログラムを問題とした、都市のユートピア運動の発端となった。

 そして、この50年代の二つの展覧会には、転回という題名に見られるように、近代建築の存在根拠を問い、建築自体がもつ高度な抽象性と高度な現実性、換言すれば、伝統と革新、芸術と技術という近代建築が内包する二律背反的性格を容認するという姿勢が写し出されている。これは、戦前からヨーロッパ大陸の影響を受けながら、MARSグループによってイギリスで馴化され、発展していった近代建運動の過程自体を示す現象であるとともに、1930年代から80年代に至るまでのイギリスの近現代建築に流れる基底的特質として認識される。

審査要旨

 この論文は、は、近代建築国際会議CIAM(Congres Internationaux d’Architecture Modern)のイギリス支部である、近代建築研究すなわちMARS(Modern Architectural Research)グループの活動を、その結成の年である1933年から、終焉の年である1957年までという時代的枠組みを設定し、その時代に見られるMARSグループの近代建築運動に関連する事績の建築史的考察、及びグループに関連した建築家の活動を検証することで、イギリスにおける近代建築運動の特質を解明することを目的としたものである。

 第1章ではイギリス近代建築運動の受容過程を叙述している。

 MARSグループは、1933年4月にイギリス国内のCIAM組織として結成された。CIAM創設の1928年からMARSグループ結成までの5年という期間に、イギリス近代建築運動のもつ遅れが存在する。1933年のCIAM4会議に4人の代表が、初めて正式に参加したのだが、ヨーロッパ諸国のMARSグループと同様な各国CIAMグループの結成が、1943年のフランス、ASCRALグループ結成まで存在していないことから、1928年のCIAM創設には、イギリスは関与していないといえども、グループとしての活動においては、ヨーロッパ諸国の先陣をきっていたといえる。

 第二次大戦前におけるMARSグループの主要な活動としては、1938年のロンドンで開催された、MARS新建築展覧会があげられる。結果的には、展覧会の存在は、イギリス国内だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本に及ぶまで知られることになり、その目的は達成されたといえる。しかしながら、国際様式の近代建築のイギリスへの受容は、逆説的に近代建築のイギリス的なものへの模索を促すことになる。そして、イギリス近代建築運動の特質として、政治的にも組織的にも、ソビエト、ドイツに見られるように左翼、右翼において極端な立場をとらず、中庸的な姿勢を維持することを指摘している。

 第2章ではイギリス近代建築運動の馴化について述べられる。

 第二次大戦が開始されると同時に、MARSグループの活動は、スラム・クリアランスを中心とした、ロンドンの都市計画に重点が移動する。グループ内の都市計画委員会が組織され、1942年に、ロンドン・マスタープランの発表に至る。このMARSグループによる都市計画案は、1943年のLCCによるロンドン州計画に先駆けて発表されたにもかかわらず、ロンドン州計画が田園都市計画の伝統を受け継いでいたため、MARSグループのマスタープランが持つ左翼的革新性が否定的に働き、机上の空論として正当な評価を受けなかった。1944年には、MARSグループの主催によって、「近代建築とは何か」という題名をもつ討論会が開催され、近代建築に対する定義が一般に公開された議論を通して行われた。以上の二つの事績の経緯は、イギリス近代建築運動の特質の一つであると認識できる。第二次大戦後においては、1947年にイギリスでCIAM会議をはじめて開催し、MARSグループがその運営を行っていることを指摘している。

 第3章はイギリス近代建築運動の発展についての章である。

 MARSグループは、イギリス的都市計画の伝統を活用した、ニュー・タウンの計画と、ロンドン都心での近代建築の再建を計るべく、1951年のイギリス祭での都市におけるピクチャレスクの復活を主張した。加えて、1947年のCIAM6から、建築教育の提案が行われ、MARSグループが中心となり、CIAMサマー・スクールの開催に結実していった。1953年には、機能主義的都市計画に対して人間性と地域性が重視された新たなコミュニティをもつ都市計画が、スミッソンを中心にMARSグループの若い世代の建築家によって提唱された。彼等は、CIAMの狭義の近代主義に対して、また、MARSグループの安易なヨーロッパ大陸の近代建築の受容(新経験主義)とピクチャレスクという伝統回顧主義に対する抗議というかたちをとりながら、チーム・テンを統制的なCIAM、MARSグループに代わる、理想的なアソシエーション(組織)として結成していく。

 チーム・テンは、1950年代におけるイギリスの芸術運動組織、インディペンデント・グループによる活動と相互に影響を及ぼしあいながら、近代主義に対する新たな認識を確立することを試みた。一方、MARSグループは、戦後すべてのCIAM会議に出席し、実践的な提案を行った。しかしながら、チーム・テンという若い世代の出現と、戦後において近代建築が実現化段階に至ることで、理論面から実践面へとシフトしたため、運動の存在理由をしだいに無くしていったことが明かにされる。

 第4章ではイギリス近代建ス近代建築運動の転回を述べて結論を導いている。

 活動が終焉に向かう中、1955年にTurn Again展覧会が、戦後のイギリスにおける都市計画の中心的命題であった、分散集中に抵抗したかたちで開催された。近代建築への積極的姿勢は、1967年のミースによるオフィスビル計画案を経て、1980年代のリチャード・ロジャーズによるハイ・テク建築の実現へ向けての最初の意識改革となった。

 そして、1956年にMARSグループのメンバーを含めて、インディペンデント・グループを中心とした芸術家、建築家によって、This Is Tomorrwo展覧会が開かれた。ここでの新しい価値観の支持が、1960年代のポップ・カルチャーの基底的意識となったのであり、イギリスにおいてはアーキグラムのユートピア運動の発端となったのである。そして、この50年代の二つの展覧会には、建築自体がもつ高度な抽象性と高度な現実性、伝統と革新、芸術と技術という二律背反的性格を容認する姿勢が現出している。このことは、戦前からヨーロッパ大陸の影響を受けながら、MARSグループによってイギリスに馴化され、発展していった近代建築に対する認識であり、1960年代から80年代におけるイギリスの現代建築に流れる通奏底音といえるものであると結論する。

 以上の結論は、これまで十分な研究の蓄積のなかったイギリス近代建築史の欠落部分を埋める実証的な研究成果であり、その指摘は現代建築の歴史的根拠を明かにするものでもあった。こうのような成果は、イギリスにおいても評価を受けているものであり、この研究の国際的な水準の高さを知ることができる。今後の近代建築史研究にとって、本研究がもたらした実証的な資料の博捜の手法は、方法的にも刺激を与えるものであった。こうした方法に立った研究成果は、これからの建築史学研究に大いに役立つものであろうと考えられる。

 この論文は、わが国では研究者の層の薄い分野における貴重な研究業績として、価値が高い。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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