この論文は、は、近代建築国際会議CIAM(Congres Internationaux d’Architecture Modern)のイギリス支部である、近代建築研究すなわちMARS(Modern Architectural Research)グループの活動を、その結成の年である1933年から、終焉の年である1957年までという時代的枠組みを設定し、その時代に見られるMARSグループの近代建築運動に関連する事績の建築史的考察、及びグループに関連した建築家の活動を検証することで、イギリスにおける近代建築運動の特質を解明することを目的としたものである。 第1章ではイギリス近代建築運動の受容過程を叙述している。 MARSグループは、1933年4月にイギリス国内のCIAM組織として結成された。CIAM創設の1928年からMARSグループ結成までの5年という期間に、イギリス近代建築運動のもつ遅れが存在する。1933年のCIAM4会議に4人の代表が、初めて正式に参加したのだが、ヨーロッパ諸国のMARSグループと同様な各国CIAMグループの結成が、1943年のフランス、ASCRALグループ結成まで存在していないことから、1928年のCIAM創設には、イギリスは関与していないといえども、グループとしての活動においては、ヨーロッパ諸国の先陣をきっていたといえる。 第二次大戦前におけるMARSグループの主要な活動としては、1938年のロンドンで開催された、MARS新建築展覧会があげられる。結果的には、展覧会の存在は、イギリス国内だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本に及ぶまで知られることになり、その目的は達成されたといえる。しかしながら、国際様式の近代建築のイギリスへの受容は、逆説的に近代建築のイギリス的なものへの模索を促すことになる。そして、イギリス近代建築運動の特質として、政治的にも組織的にも、ソビエト、ドイツに見られるように左翼、右翼において極端な立場をとらず、中庸的な姿勢を維持することを指摘している。 第2章ではイギリス近代建築運動の馴化について述べられる。 第二次大戦が開始されると同時に、MARSグループの活動は、スラム・クリアランスを中心とした、ロンドンの都市計画に重点が移動する。グループ内の都市計画委員会が組織され、1942年に、ロンドン・マスタープランの発表に至る。このMARSグループによる都市計画案は、1943年のLCCによるロンドン州計画に先駆けて発表されたにもかかわらず、ロンドン州計画が田園都市計画の伝統を受け継いでいたため、MARSグループのマスタープランが持つ左翼的革新性が否定的に働き、机上の空論として正当な評価を受けなかった。1944年には、MARSグループの主催によって、「近代建築とは何か」という題名をもつ討論会が開催され、近代建築に対する定義が一般に公開された議論を通して行われた。以上の二つの事績の経緯は、イギリス近代建築運動の特質の一つであると認識できる。第二次大戦後においては、1947年にイギリスでCIAM会議をはじめて開催し、MARSグループがその運営を行っていることを指摘している。 第3章はイギリス近代建築運動の発展についての章である。 MARSグループは、イギリス的都市計画の伝統を活用した、ニュー・タウンの計画と、ロンドン都心での近代建築の再建を計るべく、1951年のイギリス祭での都市におけるピクチャレスクの復活を主張した。加えて、1947年のCIAM6から、建築教育の提案が行われ、MARSグループが中心となり、CIAMサマー・スクールの開催に結実していった。1953年には、機能主義的都市計画に対して人間性と地域性が重視された新たなコミュニティをもつ都市計画が、スミッソンを中心にMARSグループの若い世代の建築家によって提唱された。彼等は、CIAMの狭義の近代主義に対して、また、MARSグループの安易なヨーロッパ大陸の近代建築の受容(新経験主義)とピクチャレスクという伝統回顧主義に対する抗議というかたちをとりながら、チーム・テンを統制的なCIAM、MARSグループに代わる、理想的なアソシエーション(組織)として結成していく。 チーム・テンは、1950年代におけるイギリスの芸術運動組織、インディペンデント・グループによる活動と相互に影響を及ぼしあいながら、近代主義に対する新たな認識を確立することを試みた。一方、MARSグループは、戦後すべてのCIAM会議に出席し、実践的な提案を行った。しかしながら、チーム・テンという若い世代の出現と、戦後において近代建築が実現化段階に至ることで、理論面から実践面へとシフトしたため、運動の存在理由をしだいに無くしていったことが明かにされる。 第4章ではイギリス近代建ス近代建築運動の転回を述べて結論を導いている。 活動が終焉に向かう中、1955年にTurn Again展覧会が、戦後のイギリスにおける都市計画の中心的命題であった、分散集中に抵抗したかたちで開催された。近代建築への積極的姿勢は、1967年のミースによるオフィスビル計画案を経て、1980年代のリチャード・ロジャーズによるハイ・テク建築の実現へ向けての最初の意識改革となった。 そして、1956年にMARSグループのメンバーを含めて、インディペンデント・グループを中心とした芸術家、建築家によって、This Is Tomorrwo展覧会が開かれた。ここでの新しい価値観の支持が、1960年代のポップ・カルチャーの基底的意識となったのであり、イギリスにおいてはアーキグラムのユートピア運動の発端となったのである。そして、この50年代の二つの展覧会には、建築自体がもつ高度な抽象性と高度な現実性、伝統と革新、芸術と技術という二律背反的性格を容認する姿勢が現出している。このことは、戦前からヨーロッパ大陸の影響を受けながら、MARSグループによってイギリスに馴化され、発展していった近代建築に対する認識であり、1960年代から80年代におけるイギリスの現代建築に流れる通奏底音といえるものであると結論する。 以上の結論は、これまで十分な研究の蓄積のなかったイギリス近代建築史の欠落部分を埋める実証的な研究成果であり、その指摘は現代建築の歴史的根拠を明かにするものでもあった。こうのような成果は、イギリスにおいても評価を受けているものであり、この研究の国際的な水準の高さを知ることができる。今後の近代建築史研究にとって、本研究がもたらした実証的な資料の博捜の手法は、方法的にも刺激を与えるものであった。こうした方法に立った研究成果は、これからの建築史学研究に大いに役立つものであろうと考えられる。 この論文は、わが国では研究者の層の薄い分野における貴重な研究業績として、価値が高い。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |