演出の問題は、舞台芸能である能にとって本質をなす分野であるはずだが、その研究は、歴史・文学的側面からの研究にくらべて大分遅れ、手の付けられていない部分も非常に多い。本論文は、能独特の表現方法や、作品ごとの演出の工夫、秘事秘伝として伝えられている特別演出等が、どのように形成されどのように変容してきたかを検討し、演出面から能の変遷を考えようとするものである。 I「世阿弥・禅竹時代の能演出」は、能の作品の中に広く見られ能を能たらしめている基本的な演出の、主に形成の面を考察している。 「〈序ノ舞〉の祖型」では、能の舞事の中で最も重要な位置をしめる〈序ノ舞〉の構造や成立を検討する。まず、金春禅鳳伝書の記事の解読と、室町末期の習事の検討を通して、禅鳳時代までの「序」のあり方や〈序ノ舞〉の祖型を示し、さらに白拍子の芸態との比較により、〈序ノ舞〉の祖型においては「序」こそが本質的な部分でありそれは白拍子舞の物真似としての意味を持っていたとの説を導く。最後に〈序ノ舞〉の成立に関して「付加説」を提示し、世阿弥時代の舞の体系についても従来の説とは別の見通しを示す。 「女体能における『世阿弥風』の確立」は、大和猿楽の中ですでに多くの作品が作られていた女体能のジャンルにおいて、新しい世阿弥風を確立するために試みられた工夫を取り上げている。世阿弥が「応永年間の人気曲」として示した女体能のうち、芸能者以外のシテが舞を舞う唯一の作品である〈松風〉では、「形見を身につける」ことが筋書き上は要求されず単なる演出の約束事として退き、舞台上の動作としての〈物着〉や〈舞〉は、形見への執着やそれほどの恋慕の思いの表現として利用されていることを指摘し、この「趣向を詞章に反映させない工夫」が、本来芸能の物真似だった歌舞を芸能者以外の人物に結びつけるにあたって重要な意味を持ち、後に鬘物の典型を生み出す素地になったと結論づける。 また「世阿弥の女体幽霊能と[ワカ受ケ]の機能」では、世阿弥周辺で作られた女体幽霊能に集中して現れる[ワカ受ケ]の機能と意義を考えつつ、世阿弥が女のシテに舞を舞わせるために行った工夫を見る。[ワカ受ケ]の機能とは、「本説の世界を繰り広げそこで舞うシテ」と「今ここでワキと言葉を交わすシテ」との微妙なズレを示し、かつその両者をつなげることであることを示し、他の小段のように一般化しなかったのは、時代が降ると美女の幽霊が舞うのに世阿弥時代のような厳密な理由付けが要らなくなり、シテが舞うために過去の特定の場面にスライドする必要も、そこから現在へ戻ってふと我に帰るための[ワカ受ケ]を使う必要もなくなったためと考える。 「〈二人静)の古態」は、現在は相舞を主な趣向とする〈二人静〉について、相舞を趣向とする作品全体の中で見ると異格の点が非常に多く、実は本来は憑き物の能であったろうこと、相舞演出はこの曲の初出記録である音阿弥所演の際の新演出だった可能性があることを指摘し、また、上掛リと下掛リの詞章の異動を検討することで、古態から現行に近い形への変遷過程を推定する。従来〈吉野静〉ばかりが観阿弥の「静が舞の能」や井阿弥の〈静〉と関連づけられてきたが、〈二人静〉が古い能であった可能性を考慮に入れて詞章を読み直した場合、『五音』所収の〈静〉の次第は〈吉野静〉よりも〈二人静〉の方にふさわしく、『三道』で井阿弥作と言われる〈静〉も〈二人静〉だった可能性の方が高い。〈二人静〉の一部に見える世阿弥的な修辞は、井阿弥の〈静〉に世阿弥が手を入れた結果と考え、それが『三道』の「静、古今有」の実態と考える。 「作リ物への中入と変身をめぐって」では、世阿弥・禅竹時代に記録が在り現行演出ではシテが作リ物に中入しそこで変身する作品を、詞章と演出との関わりに注目しながら順に検討し、作リ物へ中入したシテが風体を変えるほど大幅に着替え、再登場するという能の趣向は、世阿弥時代には存在しなかったのではないかとの説を提示する。また、シテの着替えのために作リ物を利用するのではなく作リ物自体の意味を変貌させる世阿弥の作能法を示し、禅竹時代成立の〈三輪〉において工夫された作リ物内での男装が、作リ物に中入りして変身する演比の先蹤となった可能性を指摘する。 II「室町後期・末期の新風体」は、室町後期・末期に新しく生まれた能の作風や演出の特徴と、当時の新しい観客層との関わりを、いくつかの角度から考えたものである。 「神事の能」では、室町後期に成立した能には神能・物狂能等のジャンルの別を越えて、地方の習俗や神事に強い興味を示す作品が多いことを指摘、当時の新しい観客層にとって、自分たちと関連のある地方や、自分たちが主な担い手となる祭礼に関する情報が、伝統的な歌枕に取って代わる重要なテーマであったとする。 「室町末期の能と観客」は、室町末期の能大夫であり最後の能作者だった観世長俊について、その作風や能大夫としてのあり方を検討し、同時に新ししい観客層の特徴を考察する。長俊の作品に関しては、派手な演出や能舞台では演じられないほど多くの登場人物など、能の枠組みを越えるような作風ばかりが強調され、また、それは応仁の乱以後貴族や幕府の後援を受けられなくなり大衆に受ける能を作らねばならなかったためと説明されることが多いが、実はそうした派手な能は彼の活動の一部であり、また当時の演能状況を見ても、基本的には世阿弥以来の伝統的な作品群が人気曲として何度も演じられていたことを明らかにする。また、演目の固定化により演出の工夫に関する興味が高まってくること、演じながら観る観客が大量に育っていること、芸に関する玄人と素人の区別が重要になってきていること等を順に確認しながら、社会の変動の中で生じてきた新しい観客層が従来の貴族や武士階級の観客に比べて決して劣ったものではなかったことを示す。 「天狗の能の作風」は、室町後期に初めて登場する天狗の能についての論。能が教養の一部となっている素人作者の作風が、オーソドックスな能の作りを非常に忠実になぞり、新しい素材を舞台化するのにも、既に在る能のルールをできる限り利用していること、天狗の能の面白さを受け止める観客側の想像力も能のルールに沿って十分に成熟していること、だからこそ当時の観客が実際に目で見たいものは何でも、能の伝統的な形式にあてはめさえすれば舞台化ができたこと等を述べる。「作品研究〈大会〉」は、具体的に作品を分析し、素材となった『十訓抄』との関わりや、早変わり・打合働等の演出上の趣向について検討する。 III「小書演出の成立と変遷」では、能の演出を豊かなものにしている「小書」の中でも特に重要なものとして古くから伝書類に見える「音取」「懺法」「クツロギ」「延年之舞」について順に検討しながら、これらの小書と室町期の伝書類に見える習事との関係や、新しく付け加えられた工夫、他への応用等、成立と変遷の過程を考察する。 「音取」「懺法」「延年之舞」についてはそれぞれ〈清経〉〈朝長〉〈安宅〉成立時から内容にふさわしい演出として工夫されていた簡単なものが、能の演出全体の類型化の過程ではじき出され、それをきっかけに習事として磨き上げられ、次第に習事であることを強調するような習いまで付け加えながら、一曲全体を常の演出とは違うものにする重々しい「小書」になっていく過程を跡づける。また〈安宅〉の場合は現在特に重い習事として扱われ、演出としても非常に面白い宝生流の「延年之舞」が、江戸時代中期に、それまでの演出を利用しながらもまったく新しく工夫されて成立した事情を述べる。「クツロギ」については、下間少進の伝書において「くつろぎ」という名で呼ばれていた働事や、一般的に「くつろぐ」と称されていた様々な動きが、江戸時代の中頃突然登場してくる小書演出「クツロギ」とどう関連しているのか、また小書「クツロギ」自体の成立と変遷の過程はどんなものかを考察。シテ方と囃子方との緊張関係の中で、習事が生み出されていった事情をも合わせて考える。 IV「演出史緒論」には短編を集めてある。〈定家〉の小書「露の紐解」は本来「露の紐取り」で、シテが〈序ノ舞〉を舞うか〈破ノ舞〉を舞うかの合図の名残だったこと、〈木賊〉において老人が舞う際の扮装の問題と「ヒットリノ序」の習事、〈大江山〉の見せ場である「首を取る演技」の変遷や前シテの解釈の幅、〈巴〉のシテが女武者から常の女出立へ変わる部分のバリエーションと、長刀捌きを見せる演出、〈小袖曽我〉には本来相舞が無かったこと等、能のさまざまな演出に関わる細かな問題を扱っている。また、最後の「狂言〈川上〉の妻」は、〈川上〉に描かれている夫婦像を、各流台本を比較しつつ考察し、和泉流の台本において、強い妻の姿から笑いの要素を消していく方向で演出が練られ、妻のわわしさよりも、むしろ「夫の覚醒」とその後の夫婦のしっとりした結びつきに重点が移っていく過程を示したものである。 |