学位論文要旨



No 214573
著者(漢字) 季武,嘉也
著者(英字)
著者(カナ) スエタケ,ヨシヤ
標題(和) 大正期の政治構造
標題(洋)
報告番号 214573
報告番号 乙14573
学位授与日 2000.02.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14573号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 教授 宮地,正人
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 鈴木,淳
内容要旨

 大正期の日本政治史に関する従来の研究は、明治期の藩閥・元老政治と、昭和初期の政党内閣時代の狭間として理解され、したがって主として政党政治への準備期間、すなわち政党勢力が徐々に非政党勢力を凌駕していく過程として分析されてきた。このような傾向は、「大正デモクラシー」という概念を軸として、三谷太一郎・松尾尊氏に代表される豊富な研究成果を生み出した。しかしその後、当時の歴史史料が次第に発掘され公開され始めると、それに誘発されて優れた研究も登場し、新たな事実や新たな視点が次々に提示されるようになってきた。宮地正人・坂野潤治・北岡伸一各氏等の研究がそれである。この結果、大正政治史が単に「大正デモクラシー」という観点からのみ動いていた訳ではなく、多彩な動機に基づいて複雑な政治構造を持っていた、ということも徐々に明らかになってきた。

 そこで、当時の政治家たちが一体何を考え何をしていたのか、ということを一次史料からもう一度洗い直し、それを軸に帰納的に大正政治史全体を再構築しようと試みたのが本論文である。以下、本論文の構成にしたがって、その要旨を記述していく。

 「序章 大正政治史研究の現状と課題」では、上記のような問題意識に基づき、本論文の分析方法を述べた。すなわち、当時の政治家が多用した「挙国一致」という言葉に着目し、その意味内容を分析および分類した。日露戦争・第一次世界大戦を経て世界の軍事的「一等国」となった日本は、次の段階として経済力・生産力でも「一等国」となることを目指し、欧米との「世界的経済戦争」に勝ち抜くことを多くの政治家は目標とした。そのためには、従来以上に多くの国民が自覚を持ちこの目標達成に協力することが必要だと考え、それが「挙国一致」という言葉として表現されたのであった。但し、この語の使われ方には、主として三つあった。第一は政界すべての政治集団指導者の協力体制を築く(「指導者集団挙国一致」)、第二はそれまでに国民の中に築き上げられてきた官僚機構、軍機構、政党機構とそれに伴う人的ネットワークを介在させて、中央から地方に至る比較的緩やかな協力体制を樹立する(「介在型挙国一致」)、第三は強力な政治中枢組織を作りそこから直接に国民を啓蒙したり、国民組織を作る(「直結型挙国一致」)、であった。この関係を図示すれば、図1となる(ただし「対外硬派的挙国一致」は、大正期には概ね「直結型挙国一致」に移行する)。以下、本論文はこの視角をもとに、大正期の政治構造およびそのダイナミックスを解明しようとした。

図1 大正期「挙国一致」論の関係

 「第1部 「桂園権」時代」は、明治44年の桂太郎首相と西園寺公望率いる立憲政友会の間の「情意投合」宣言から、第一次護憲運動を経て第一次山本権兵衛内閣崩壊までを時期的対象とした。日露戦争を指導した桂・西園寺・山本(「桂園権」)は、日露戦後、日本の国家目標を軍事から経済に切り換え、同時に政治的には伊藤博文・山県有朋等元老に替わって、彼らを中心とした「指導者集団挙国一致」体制を築こうと試みた。この最初の具体的成果が「情意投合」宣言であった。さらに、中でも最も積極的であった桂は、政党の組織を通じて一般国民までをも含めた形での「挙国一致」体制を樹立しようとし、桂新党(立憲同志会)を結成した。しかし、この急激な転換や桂個人に対する警戒心もあって強い反発が起こり、それが第一次護憲運動となったのであった。この結果、桂・西園寺は失脚し、また山本もジーメンス事件で内閣を維持出来なくなった。以上のように、この時期は元老(「第一世代」)の後継である桂ら「第二世代」が華々しく活躍し、また消えていった時代であったが、彼らが残した遺産つまり国家目標の転換と、一般国民までを含めた形での「挙国一致」の追求は誰しもが否定出来ず、こののちの最重要政治課題となっていった。

 「第2部 第一次世界大戦と政界再編成」では、第一次大戦期中の二つの内閣(大隈重信・寺内正毅)下での政治構造の変容を解明しようとした。この時期の重要な問題は主に二つあった。第一は、第一次大戦の影響である。大戦中、欧州各国は戦争遂行のため、国民すべてを動員すべくいわゆる「総力戦」体制を国内に敷こうとした。このことは、直接軍事に関わる場面が少なかった日本にも次のような形で多大な影響を及ぼした。すなわち、上記のように日本でも既に「挙国一致」の必要性は十分認識されていたが、この点で「総力戦」体制を目指した欧州に決定的に立ち遅れてしまい、第一次大戦後に予想される「世界的経済戦争」にも非常に不利な立場に追い込まれてしまった、という強い危機感を与えたのであった。それ故に、より一層「挙国一致」が叫ばれるようになった。第二は、桂等の去った後の真空状態となった政界の主導権を、誰が握るかということであった。

 大正3年に成立した大隈内閣では山県有朋・井上馨という元老が復活し、元老中心の「指導者集団挙国一致」が模索された。彼らは大隈を元老に加え、大隈を通して立憲同志会を操縦することによって政界全体をコントロールしようとしたのであった。しかし、同志会はこれに反発した。まず、加藤高明外相・大浦兼武内相(憲政会官僚系グループ)は、元老に対する内閣の優位性を維持しようとし、結局彼らが主導権を握った。彼らの考え方は、官僚出身であり同時に政党幹部である彼らが官僚機構や政党機構を活用し、「介在型挙国一致」的な政治体制を作ることにあったといえよう。しかし、元老勢力および憲政会党人系グループの反撃によって、大正4年内閣から去っていった。そののち、大隈内閣は元老と憲政会党人系グループが中心となって運営されていった。このような中で、伊東巳代治・犬養毅・後藤新平のいわゆる「三角同盟」と呼ばれる政治グループが登場した。彼らの主張は、元老を排斥し桂等よりも若い世代(「第三世代」)の間での「指導者集団挙国一致」を築き、同時に従来の官僚・政党機構に依らない形の「直結型挙国一致」を目指そうとするものであった。そして、彼らが中心となって大正5年寺内内閣が成立した。但し、同内閣は一方で山県や原敬率いる政友会にも依存していた。

 以上のように、この時期は元老と若い世代の対立、或いは「介在型挙国一致」論と「直結型挙国一致」論の登場が見られたが、概ね図2のような環構造的な「指導者集団挙国一致」状況で推移したと考えられる。

 「第3部 第一次世界大戦後の政治状況」では、大正7年の原敬内閣成立から大正13年の第二次護憲運動を経て、大正14年護憲三派内閣が崩壊するまでを取り扱った。この時期の第一の特徴は、第一次大戦が終了したことにより、「指導者集団挙国一致」の必要性が減少し、その結果、「介在型挙国一致」論者と「直結型挙国一致」論者の間の対立が激化したことであった。第二は、政党内閣制が脚光を浴びるようになったことであった。政党内閣制度は明治期以来、政治的民主化の象徴として常に主張され続けてきたが、この時期ではそれ以外にし、欧州各国でそれが主流になったこと、「挙国一致」のための装置として有効であると国内でも認識されるようになったこと、がその要因であった。

 原内閣以降、政界は「介在型挙国一致」グループ(図2でいえば、政友会官僚系、西園寺・牧野・平田、憲政会官僚系各グループ)と、「直結型挙国一致」グループ(政友会党人系、「三角同盟」周辺、憲政会党人系各グループ)の亀裂が除々に拡大し、同時に両グループ内での親近性が増大した。大正12年の第二次山本内閣は「直結型挙国一致」グループを、大正13年清浦奎吾内閣は「介在型挙国一致」グループを総結集しようという試みでもあった。そして、清浦内閣に反対した第二次護憲運動は、「直結型挙国一致」グループの「介在型挙国一致」グループに対する反対運動でもあった。この後、護憲三派内閣によって「指導者集団挙国一致」は維持されるが、田中義一が政友会総裁になるに及んで政界は二つに大分裂し、「直結型挙国一致」グループは主として政友会に(憲政会党人系グループは当時与党ということもあり、党を離れるのは昭和6年になる)、「介在型挙国一致」グループは主として民政党に集まっていき、昭和初期の二大政党時代に突入していく。同時に、大正期の環構造的「指導者集団挙国一致」も崩壊し、固有の構造を持った大正政治もここに終焉するのであった。

図2 大正中期の政界配置
審査要旨

 本論文は、日露戦後の桂園時代から昭和初年の田中内閣期までを考察の対象として、大正期日本のさまざまな政治勢力が、世界的な経済戦争のなかでいかに政治を運営していったらよいのかという危機意識を共通にもっていたことに着目することによって、大正期の政治構造の解明に迫ったものであるが、とりわけ次の諸点で研究史上画期的な意義をもっている。

 1 史料の博捜をふまえて、大正期の新しい政治像を描いた。大正期に登場する特徴的な政治集団のもっていた政治意識を「挙国一致」論という視角の導入によって分類し、それによってその集団の位置づけを行い、結果として大正時代の全体像を描くことに成功している。これまで大正期は、政党政治の実現過程として、あるいは国家に対する社会の自立過程として論じられてきた。しかしこれらの研究動向は、いずれも、政治の形式に注目した議論であり、実は政治の目的を分析することによって得られた議論ではなかった。つまり、政治の形式と政治の目的のつながりは語られてこなかったのである。これに対して本論文は、日本が今後、世界的な経済競争にさらされるとの危機認識をもつさまざまな政治集団が、いかに国民の英知を動員し組織化しようとしたのか、すなわち政治集団の抱いていた目的とその実現のために想定された形式をともに描いている。

 2 本論文では、当時の政治指導者たちがさかんに用いた「挙国一致」という言葉を三つのタイプに分類している。第一は政界すべての政治集団指導者の協力体制を築く「指導者集団挙国一致」論、第二はそれまでに国民の中に築き上げられてきた官僚機構・軍機構・政党機構とそれに伴う人的ネットワークを介在させて、中央から地方に至る緩やかな協力体制の樹立を目指す「介在型挙国一致」論、第三は強力な政治中枢組織を作りそこで国民を啓蒙する「直結型挙国一致」論である。

 このように概念を整理した結果、多くの研究史上の通説が書きかえられた。たとえば桂と西園寺によるいわゆる「情意投合」も、元老の後継の第二世代が、国家の目標を軍事から経済に切り換え、政党組織を通じて一般国民までをも含めた形での「挙国一致」を安定的に生み出すものと位置づけられる。また、第二次大隈内閣期の政治対立については、大隈を元老に加えて「指導者集団挙国一致」をめざす山県有朋らと、「介在型挙国一致」をめざす立憲同志会との対立として説明される。

 3 独自に発掘した一次史料によって、これまで注目されてこなかった政治集団の重要性を、大正政治史のメインストリームに結びつけることに成功している。桂・西園寺・山本権兵衛の3人が同じ認識を共有していたこと、薩派と呼ばれる官界のつながりが外務省・大蔵省・海軍など広い連携をもっていたこと、伊東巳代治・犬養毅・後藤新平の3人が「三角同盟」などと呼ばれる程に密接に提携していたことなどは、本論文で初めて明らかにされた点である。

 一方、本論文の問題点として、大正期の政治集団を規定した危機意識の中身としては、対外的なもの以外にも、労働運動・農民運動・社会主義思想などに対する危機感も考えられるが、そのような論点が慮外におかれる結果となっていることは指摘されなければならない。

 しかし、上記のような成果を上げていることを考慮すれば、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク