学位論文要旨



No 214577
著者(漢字) 後藤,智隆
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,トシタカ
標題(和) 前立腺癌の分化誘導療法に関する基礎的検討
標題(洋)
報告番号 214577
報告番号 乙14577
学位授与日 2000.02.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14577号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 玉置,邦彦
 東京大学 教授 名川,弘一
 東京大学 助教授 河原崎,秀雄
 東京大学 助教授 平井,久丸
 東京大学 講師 高橋,悟
内容要旨 1.研究目的、研究の背景

 前立腺癌は、先進国における男子悪性腫瘍の最たる疾患で、本邦においても近年急激な増加傾向を示している。前立腺癌死亡率は、欧米先進国と比較すると我が国ではいまだに少ないが、人口の高齢化や生活習慣の欧米化に伴い今後さらに増加することが予想されるため、前立腺癌に対する早急な対策が必要である。現在、進行前立腺癌患者には抗アンドロゲン療法が行なわれ優れた治療効果を示しているが、ほとんどの症例はその後数年でホルモン不応癌となり再燃するため、根治は期待できない。ホルモン不応性前立腺癌に対して、化学療法、放射線療法、免疫療法などが試みられているが、いずれも満足のいく結果は得られていない。したがって、全く新しい視点に立った治療法の研究、開発が進行前立腺癌患者の治療に不可欠である。分化誘導療法は、癌細胞を終末分化へと誘導し、増殖を停止させる新しい試みである。すでに急性前骨髄球性白血病においてはretinoic acidによる分化誘導療法が患者を高率に完全緩解に導くことが明らかにされているが、前立腺癌を含め固形癌に対する分化誘導の研究は極めて乏しく、ほとんど進展していないのが現状である。そうした中で、ヒト由来前立腺癌細胞株のLNCaP細胞は、分化誘導物質として知られている種々の薬剤に反応して、増殖能の低下や形態変化を示すことが報告されており、中でもDibutyryl-cyclic-AMPは神経内分泌細胞への分化を誘導するとされている。ところで進行前立腺癌では高率に神経内分泌細胞への分化が認められる事が知られているが、その細胞の機能や存在意義については解明されていない。しかし、神経内分泌細胞自体は増殖能が停止した細胞であることから、前立腺癌の終末的な分化形態である可能性がある。したがって、これを効果的に誘導する副作用の少ない適切な分化誘導物質の発見、開発が、進行前立腺癌患者の治療に結び付くことが期待される。

 細胞内adenosine3’,5’-cyclic monophosphate(cAMP)は、cAMP依存性キナーゼを活性化し増殖能や細胞分化など様々な機能に関与していると考えられている。一般にcAMP濃度は、その生成酵素であるadenylate cyclase及び分解酵素である3’,5’-cyclic nucleotide phosphodiesterase(phosphodiesterase)により調節されているが、腫瘍内cAMP濃度の増加は、adenylate cyclaseの賦活化のみでは不十分で、phosphodiesteraseの阻害が必要とされている。phosphodiesteraseは、腫瘍のタイプによってその活性は異なり、また同一組織内においても複数のisozymesが存在するとされているが、前立腺癌細胞におけるphosphodiesteraseに関しては、その酵素学的性状についての研究は皆無で、腫瘍内cAMP濃度に与える影響は不明である。そこで今回、まずcAMPの非特異的な分解阻害剤であるphosphodiesterase inhibitorを用いて、前立腺癌細胞における形態変化作用を調べ,最も効果的に分化を誘導しる物質を発見する。次いでその物質による分化誘導に伴う細胞の性状の変化を分析し、さらに悪性化形質の変化について検討する事を目的とした。

2.研究方法2-1.細胞培養及び形態変化の観察

 3種類のヒト前立腺癌株LNCaP、PC-3、DU145について検討した。細胞を1日培養(37℃、5%CO2)後、各種試薬を添加した培地に交換し、さらに1〜6日間培養して細胞の形態の変化を光顕的に観察した。形態変化の基準は、突起の長さが胞体の2倍以上に伸張した細胞を陽性とし、細胞300個をカウントして陽性細胞数の割合を%で示した。

2-2.分化誘導物質

 細胞内cAMPの分解を抑制するphosphodiesterase非特異的阻害剤として、Papaverine、Theophylline、3-isobutyl-1-methylxanthine(IBMX)の3種類の試薬を使用した。

2-3.細胞増殖能の測定

 各試薬の至適濃度の決定はMTT法にて行った。生細胞数の経時的変化の測定は、hemocytometerを用いて行なった。LNCaP細胞を1日培養してから、各試薬を添加し2〜6日間培養した後、トリパンブルー染色しhemocytometerにて生細胞数を算出し、同時に細胞のviabilityも測定した。

2-4.フローサイトメトリー

 細胞周期の変化をフローサイトメトリーにて解析した。Papaverineにて6日間培養した細胞を処理した後、FACScanにて測定した。

2-5.細胞内cAMP濃度の測定

 LNCaP細胞に各試薬を加え15分〜15時間培養した後、ELA法にてcAMP濃度を測定した。

2-6.透過型電子顕微鏡

 Papaverine(10-5M)にて6日間培養したLNCaP細胞を用い、透過型電子顕微鏡(日立H-700)にて観察した。

2-7.免疫細胞染色

 Papaverine(10-5M)にて処理したLNCaP細胞でのNSEの発現をAbitin-Biotin-Conplex法にて染色した。

2-8.細胞内NSE濃度の測定

 Papaverine(10-5M)にて処理したLNCaP細胞を用い、PIA法にて測定した。

2-9.ウエスタンブロット

 Papaverine(10-5M)にて処理したLNCaP細胞を用いて電気泳動(SDS-PAGE)し蛋白分画を行った。ProtoBlot 2 AP System(Promega社)を用い、一次抗体として抗Acetlycholine esterase(AchE)抗体を使用した。

2-10.ノザンブロット

 Papaverine(10-5M)にて6日間培養したLNCaP細胞からAGPC法にて全RNAを抽出し、電気泳動しナイロン膜に転写した。cDNAプローブ(PSAmRNA、c-myc)を用い、膜上のRNAとハイブリダイゼーションし、オートラジオグラフィーで検出した。

2-11.PSA濃度の測定

 Papaverine(10-5M)を加えLNCaP細胞を6日間培養して得られた培地中のPSA濃度を、Tandem R kitを用いRIA法にて測定した。

2-12.in vitroインベージョンアッセイ

 Papaverine(10-5M)にて6日間培養したLNCaP細胞の浸潤能を、マトリゲルインベージョンチャンバー(Becton Dickinson社)を用いて測定した。

3.実験結果3-1.細胞の形態変化、増殖能の変化

 ヒト前立腺癌細胞株LNCaP、PC-3、DU145をphosphodiesterase阻害剤であるPapaverine、IBMX、Theophyllineの3剤で処理した結果、LNCaP細胞のみが特徴的な形態変化を示し、その変化はPapaverine(10-5M)により最も高率に認められた。また形態変化した細胞は胞体が小さくなり、細長い突起が伸び、近傍の細胞同士が連結するようになった。変化した細胞の電顕像は、突起様の部位に微小神経管構造を認め、また細胞質に電子密度の高い顆粒を認め、神経内分泌細胞への分化誘導を示唆する所見であった。また、この形態変化は非可逆的でPapaverineを除去しても一度神経内分泌細胞様の分化を来した細胞は、再び元の形態に戻ることなく増殖も停止したままであった。さらに細胞内cAMP濃度の上昇も、Papaverine投与により最も高率にみられた。LNCaP細胞の増殖能は、Papaverine(10-5M)により抑制されたが、3×10-5M以上の濃度では細胞毒性が強く致死的であった。フローサイトメトリーによる細胞周期解析では、G2/M期、S期の減少とG0/G1期の増加がみらね、G1 arrestが確認された。

3-2.細胞の性状の変化

 Papaverine(10-5M)によLNCaP細胞の性状の変化についての解析では,ノザンブロットでPSAmRNAの発現の減少が認められた。また、LNCaP細胞で見られる癌遺伝子であるc-mycの発現の減少も認められた。神経系のマーカーとされているNSE、AchEの発現を免疫染色、ウエスタンブロットで解析した結果、NSEの発現の変化は認められなかったが、AchEの発現の増大が認められた。in vitroインベージョンアッセイでは、細胞浸潤能の著明な低下が認められた。

4.まとめ

 ヒト前立腺癌細胞株LNCaP、PC-3、DU145をphosphodiesterase阻害剤であるPapaverine、IBMX、Theophyllineの3剤で処理した結果、LNCaP細胞のみが特徴的な形態変化を示し、それはPapaverine(10-5M、Day6)により最も高率に認められた。また形態変化した細胞は胞体が小さくなり、細長い突起が伸び、近傍の細胞同士が連結するようになった。その電顕像は、突起の部位に微小神経管構造を認め、また細胞質に電子密度の高い顆粒を認め、神経内分泌細胞への分化誘導を示唆する所見であった。また、PapaverineによるLNCaP細胞の形態変化の割合は、細胞内cAMP濃度の上昇に関連していることが確認された。さらにPapaverineによりLNCaP細胞でcytostaticな増殖抑制、G1 arrestが認められた。LNCaP細胞の性状の変化についての解析では、神経系のマーカーとされているNSE、AchEの発現を免疫染色、ウエスタンブロットで解析した結果、NSEの発現の変化は認められなかったが、AchEの発現の増大が認められた。腫瘍マーカーであるPSAや癌遺伝子であるc-mycの発現の低下が認めらた。浸潤能の著明な低下も認めらたが、それは細胞増殖抑制に伴う変化ではないことから、分化誘導による効果と思われた。ヒト前立腺癌細胞株LNCaPは、Papaverineにより、高率に神経内分泌細胞様の形態変化を示し、増殖能の低下、G1 arrestに加え、腫瘍マーカーや癌遺伝子の発現減少、浸潤能の低下を示した事から、悪性化形質が低下したと考えられた。これは癌の終末的な分化形態の一つである可能性があり、こうした変化を積極的に誘導することが制癌につながるのではないかと思われた。

審査要旨

 本研究は前立腺癌に対する分化誘導療法の有効性を確認するために、ヒト由来前立腺癌細胞株をcAMPの分解阻害剤である種々のphosphodiesterase inhibitorにて処理し、その物質による分化誘導効果について調べ、下記の結果を得ている。

 1.ヒト前立腺癌細胞株LNCaP、PC-3、DU145をphosphodiesterase inhibitorであるPapaverine、IBMX、Theophyllineの3剤で処理した結果、LNCaP細胞のみが特徴的な形態変化を示し、その変化はPapaverine(10-5M)により最も高率に認められた。また、細胞内cAMP濃度の上昇も、Papaverine投与により最も高率にみられ、LNCaP細胞の形態変化の割合は、細胞内cAMP濃度の上昇に関連していることが確認された。

 2.LNCaP細胞の増殖能は、Papaverine(10-5M)により抑制されるとがMTT法により確認されたが、Viabilityの低下は認められなかった。また、フローサイトメトリーによる細胞周期解析では、G2/M期、S期の減少とG0/G1期の増加がみられ、G1 arrestが確認された。このことから、LNCaP細胞はPapaverineによりactiveな細胞周期から静止状態のG0期への移行を生ずる可能性が考えられ、細胞分裂を起こさない終末分化の細胞の性状に近付くものと思われた。

 3.Papaverine(10-5M)により形態変化したLNCaP細胞は胞体が小さくなり、細長い突起が伸び、近傍の細胞同士が連結するようになった。また、変化した細胞の電顕像は、突起様の部位に微小神経管構造を認め、また細胞質に電子密度の高い顆粒を認め、神経内分泌細胞への分化誘導を示唆する所見であった。また、この形態変化は非可逆的でPapaverineを除去しても一度神経内分泌細胞様の分化を来した細胞は、再び元の形態に戻ることなく増殖も停止したままであった。さらに、神経系のマーカーとされているNSE、AchEの発現を免疫染色、ウエスタンブロットで解析した結果、NSEの発現の変化は認められなかったが、AchEの発現の増大が認められた。

 4.Papaverine(10-5M)によるLNCaP細胞の性状の変化についての解析では、ノザンブロットで腫瘍マーカーであるPSAmRNAや癌遺伝子であるc-mycの発現の低下が認めらた。in vitroインベージョンアッセイでは、細胞浸潤能の著明な低下が認められたが、それは細胞増殖抑制に伴う変化ではないことから、分化誘導による効果と考えられた。

 以上、本論文はphosphodiesterase inhibitorであるPapaverineがヒト前立腺癌細胞LNCaPに作用し、終末的な分化形態へ誘導する可能性があることを明らかにした。本研究はこれまでほとんど行われていなかったヒト前立腺癌に対する分化誘導療法の発展に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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