学位論文要旨



No 214584
著者(漢字) 倉橋,良雄
著者(英字)
著者(カナ) クラハシ,ヨシオ
標題(和) イネいもち病防除剤カルプロパミド開発とその作用機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 214584
報告番号 乙14584
学位授与日 2000.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14584号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日比,忠明
 東京大学 助教授 山下,修一
 明治大学 教授 米山,勝美
 茨城大学 教授 阿久津,克己
 理化学研究所 主任研究員 山口,勇
内容要旨

 イネいもち病は日本農業において最大の被害をもたらす病害であるが、1950年代以降有機水銀剤に始まる優れたいもち病防除剤が次々と開発されて、比較的安定した米の生産を得ることができるようになり、平均的収量も500kg/10aに近づいた。しかし、数年の周期でおとずれるエルニーニョ現象など気象の変動から激しい発病に見舞われることがあり、従来のいもち剤では防除効力が十分に発揮できず、しばしば大きな被害を受けてきた。農業就労人口の減少など稲作をとりまく環境が次第に変化し、いもち病菌の感染時期を考慮した適期の防除が困難となったことも激発につながる背景になっている。

 このような状況の変化の中でいもち病防除には省力化に適した、浸透性や長期残効性を兼ね備えた薬剤の開発が嘱望されるようになった。

 そこで、新しいいもち病防除剤の開発を目指して、新規化合物の探索を進め、上記の特徴を備えたカルプロパミド剤の開発に成功し、さらに、その作用機構について解析した。得られた結果の概要は以下のとおりである。

1.シクロプロパン系化合物の誘導とカルプロパミドのいもち病防除効果

 クロル置換シクロプロパン系化合物の一部にいもち病菌のメラニン生合成阻害活性を示す化合物を見出したことが出発点となって、新しい基本骨格を導き、その一般式に基づいた誘導と最適化を行った結果、最終的に当初の目的に沿った浸透移行性があり長期残効性を示すNTN33853が選抜された。NTN33853は3個の不斉炭素を含み理論的には8個の異性体が存在するが、酸部位の合成では、原料の置換されたエチレンの幾何異性体E/Zを異性化することによってE体とし、カルベンと反応させる事でcis体の置換シクロプロパンカルボン酸(1RS,3SR)のみが合成される。従ってラセミ体のアミンと反応させたNTN33853に含まれる異性体は4個(1RS,3SR)RSの異性体の混合物となる。

 4個の異性体のうち絶対配置が(1S,3R)Rの1個のみがメラニン生合成阻害活性を示し、他の3個の異性体(1S,3R)S,(1R,3S)R,(1R,3S)Sはいもち病菌を使った試験でメラニン生合成阻害(MBI)活性を示さなかった。また、同じ平面構造でNTN33853には含まれていない4個の異性体(1RS,3RS)RSはシクロプロパンが置換エチレンのZ体から合成されるが、MBI活性は見られなかった。

 NTN33853には2組の鏡像異性体がほぼ同じ比率で含まれている。鏡像異性体のペアーは安定な結晶系を発達させやすいのでその比率を下げることによって水溶解度を高めることができる。活性異性体の比率を高め、水溶解度を高くする目的でRアミンが不斉合成され、主な絶対配位(1RS,3SR)Rの原体、カルプロパミドが合成された。活性異性体の比率を25%から47%へと高めたカルプロパミドはMBI活性が上昇し、水溶解度はNTN33853のおよそ2倍(3.8ppm)となり、その結果、浸透性による水面施用や箱施用の効果を安定させることが出来た。

 カルプロパミドは植物病原性の菌類や細菌の生育に直接的な活性を示さず、いもち病菌の胞子発芽、付着器形成に対しても実質的に活性がない。しかし、室内試験におけるMBI活性は顕著で処理した培地上で多くの菌類の菌叢の色が顕著に変化し、いもち病菌の付着器の着色が阻害された。その作用はすでに開発され実用化されているMBI剤と同じで、メラニン生合成阻害によるいもち病菌の付着器侵入の阻害であることが推測された。しかし、カルプロパミドは従来のMBI剤とは立体構造が大きく異り、まったく同じ作用機構によるMBI剤とは考えにくい。侵入阻害作用の検定ではセロファン法、葉鞘裏面接種法や胞子と薬液を混合してイネ葉に接種する貫穿阻害活性の比較ではカルプロパミドはトリシクラゾールに比べ同等以上の活性を示した。

 一方、箱施用によるカルプロパミドの長期残効性は従来の浸透性薬剤に見られない特徴で、カルプロパミドの強い活性に加え、水溶解度が低いことがその特徴を際だたせていることが考えられた。箱施用された薬剤は田植え後、根圏に局在してイネに吸収されるが、他の箱施用剤は比較的水溶解度が高く、次第に田面水などに拡散するのに対し、水溶解度が低いカルプロパミドは拡散しにくいので長く根圏に留まり、イネへ安定的に長期間供給される。オートラジオグラフィーによりカルプロパミドは根と葉鞘基部から吸収され、イネ体内に均一に移行し、分布することが明らかにされた。またイネ体重によって算出したイネ体内濃度は水溶解度をはるかに越えており、イネの導管内などに結晶化され貯蔵されている可能性が示された。

 カルプロパミドは圃場試験で散布、水面施用、箱施用の何れの処理法でも対照剤に比べて勝る効果と安定した残効性を示した。しかし、投下薬剤のイネへの吸収効率,残効性の長さ、省力化などを考えるとき、箱施用が最も優れた処理方法であるとの結論に達し、箱施用剤として実用化されることとなった。有効成分で400g/haを移植直前に苗箱に処理することで、穂いもち病の発生に至るまで長い残効性を示したことから、稲作全期間を通じての投下薬量の低減が可能となった。

 カルプロパミドは公的機関による委託試験が行われ、多くの国公立試験場などで高い効果と安定した残効性が実証された。

 そのうち、カルプロパミドの効果が十分発揮されない試験圃場が稀に見いだされので、その原因について現地試験で検討した。新潟県小千谷市の圃場は夜間の低温が長く持続しやすいが、いもち病の発生しやすい条件が揃っていることから、例年7月中〜下旬にかけて低温条件下でも感染密度が極端に高まる。いもち病の感染を最も受け易い抽出直後の新葉では、低温条件でカルプロパミドの移行が緩慢で薬剤濃度の上昇が遅れ、十分な薬量に達する前に激しい感染を受けることが推測された。その対策として、新葉における薬剤の移行の遅れを補うために感染が著しくなる時期に1回の追加散布によって病勢を抑えることができることが明らかになった。

2.カルプロパミドによるいもち病防除効果の作用機構

 カルプロパミドは培養試験や胞子発芽試験等から、その作用機構はMBI活性による感染阻害と推定されたが、立体構造の違いから従来のMBI剤とはかなり異なるものと考えられた。カルプロパミドを処理したいもち病菌の培養液中には多量のシタロンと少量のバーメロンが検出された。メラニン中間体のシタロンやバーメロンはいもち病菌アルビノ株によってすばやく代謝され、黒色のメラニン色素に変換されるが、その代謝はカルプロパミドの添加培地では強く阻害された。また、菌体から抽出した無細胞粗酵素液によるシタロンの代謝は顕著であるが、その代謝はカルプロパミドによって強く阻害された。これらの実験結果から、カルプロパミドはシタロンとバーメロンを基質とする脱水酵素を直接阻害することでメラニンの生合成を阻害することが明らかとなり、還元酵素をターゲットとする従来のMBI剤とは異なることが示された。

 次いで、イネ植物体上のいもち病菌の1次感染行動に及ぼすカルプロパミドの作用を落射蛍光顕微鏡によって観察した。イネ葉上に接種したいもち病菌の胞子は接種後2時間以内で発芽し、多くの発芽管の先端に付着器細胞を分化しており、イネ葉上では人工膜のセロファン膜上に比べて、胞子発芽は幾分早く、また、付着器形成は著しく早いことが示された。およそ6時間後にはほとんどの付着器は最大に達し、8時間後には一部の付着器にメラニンの蓄積が観察された。イネ細胞への侵入は接種16時間前後と推定されるが、およそ接種44〜48時間後には最初の病変として、被侵入機動細胞の褐変が見られ、72時間後には侵入を受けた周辺の4-5細胞に褐変が拡大した。一方、カルプロパミドを処理した場合には胞子発芽、付着器形成に至る接種6時間後までは無処理の場合といもち病菌の形態的な差は見られなかったが、その後接種72時間後に至るまで付着器のメラニンの蓄積が全く認められず、感染の進行が停止したままでイネ細胞にもなんらの病変も見られなかった。

 メラニン生合成阻害剤は菌の感染後の処理では効力を失うと考えられているが、いもち病菌の接種後に経時的にカルプロパミドを処理した実験では薬剤の効果は接種6時間後までは十分発揮されたがメラニン生合成が開始される6時間後以降次第に効力が低下し、8時間後では効果が顕著に劣った。

 さらに、カルプロパミドはいもち病菌の二次感染を強く抑制することが明らかにされ、それはカルプロパミドがいもち病菌胞子が分生子柄から離脱するのを強く抑制することによることが見出された。この作用はカルプロパミド以外のMBI剤にも認められ、胞子離脱にメラニン蓄積が関与している可能性が示唆された。

 カルプロパミドのいもち病菌に対する主な作用はメラニン生合成阻害であるが、これに加えて、カルプロパミド処理後いもち病菌を接種したイネでは、抵抗性誘導に関係したパーオキシダーゼの活性が高まり、さらにイネのファイトアレキシンであるモミラクトンとサクラネチンが同時に誘導されることが示された。通常、いもち病菌の親和性レースの接種ではサクラネチンの誘導は認められないが、あらかじめカルプロパミドを処理することで感受性レースの接種によっても、サクラネチンが誘導されることから、抵抗性品種の反応と似た生理反応がカルプロパミドによって感受性のイネでも誘導されることが明らかとなった。

 一方、カルプロパミドを塗布処理したジャガイモ塊茎の切断面には自家蛍光物質が誘導されることが観察された。疫病菌を接種したジャガイモ塊茎でも同様の蛍光物質が認められるが、これは抵抗反応として菌の感染によって誘導されたスコポレチンが蛍光を発することが既に知られている。同様の蛍光がカルプロパミド処理8〜9時間後から観察されたが、蛍光発生前に疫病菌を接種した場合にはその後の菌糸生育は抑制されなかったが、蛍光発生後に接種した場合にはその生育が抑制された。カルプロパミドを処理し、蛍光を発したジャガイモ塊茎の抽出物のTLCやGC/MSによる分析で、誘導された蛍光物質がスコポレチンであることが確認された。以上の実験から、カルプロパミドが植物の抵抗性反応を促進することが裏付けられた。

 以上を要約するに、新規いもち病防除薬剤の探索とその実用化を目的として、シクロプロパンからメラニン生合成阻害活性を有するアミド化合物を誘導し、その最適化から有望な化合物NTN33853を選抜した後、その異性体の活性の解析を経て、強いいもち病防除活性と浸透性があり、安定した残効性を示す化合物カルプロパミドを開発した。

 ついで、カルプロパミドのいもち病防除の作用機構を解析した結果、その主たる作用はメラニン生合成系の脱水酵素反応阻害による感染阻害であることが示されたが、これに加えてイネに対する抵抗性の誘導ならびにいもち病菌の分生胞子離脱を抑制する作用も認められた。

審査要旨

 イネいもち病は日本農業において最大の被害をもたらす病害である。本研究では、省力化に適し、浸透性や長期残効性を兼ね備えた新しいいもち病防除剤の開発を目指して、新規化合物の探索を進め、これらの特徴を備えたカルプロパミド剤の開発に成功した。次いで、その作用機構について解析した。得られた結果の概要は以下のとおりである。

1.シクロプロパン系化合物の誘導とカルプロパミドのいもち病防除効果

 クロル置換シクロプロパン系化合物の一部にいもち病菌に対するメラニン生合成阻害(MBI)活性を示す化合物を見出し、それから新しい基本骨格を導いて誘導と最適化を行った結果、最終的に浸透移行性があり長期残効性を示すNTN33853を選抜した。その異性体のMBI活性に基づいて、主な絶対配位(1RS,3SR)Rの原体カルプロパミドを合成した。カルプロパミドは植物病原菌類の生育に直接的な活性を示さず、いもち病菌の胞子発芽、付着器形成に対しても実質的に活性がなかったが、MBI活性は顕著で、処理した多くの菌類の菌叢の色が変化し、いもち病菌の付着器の着色が阻害された。以上から本剤の主な作用はメラニン生合成阻害によるいもち病菌の付着器侵入の阻害であることが推測された。一方、箱施用によるカルプロパミドの長期残効性は従来の浸透性薬剤に見られない特徴であるが、これは、根と葉鞘基部から吸収されてイネ体内に均一に移行して分布するカルプロパミドが、導管内などでは結晶化して存在していることによることが示された。

 カルプロパミドは圃場試験で散布、水面施用、箱施用の何れの処理法でも対照剤に比べて優るいもち病防除効果と安定した残効性を示したが、特に箱施用の場合が最も優れていたため、箱施用剤として実用化することとした。有効成分で400g/haを移植直前に苗箱に処理することで、穂いもち病の発生に至るまで長い残効性を示し、稲作全期間を通じての投下薬量の低減が可能となった。

2.カルプロパミドによるいもち病防除効果の作用機構

 カルプロパミドの主な作用機構はMBI活性による感染阻害と推定されたが、さらにその詳細な作用機構について解析した。その結果、カルプロパミドはシタロンとバーメロンを基質とする脱水酵素を直接阻害することでメラニンの生合成を阻害し、還元酵素をターゲットとする従来のMBI剤とは異なることが示された。また、イネ植物体上のいもち病菌の1次感染行動を落射蛍光顕微鏡によって観察したところ、カルプロパミドを処理した場合には、いもち病菌の胞子発芽、付着器形成に至る接種6時間後までは無処理の場合と形態的な差は見られなかったが、その後接種72時間後に至るまで付着器のメラニンの蓄積がまったく認められず、感染の進行が停止したままであることが示された。また、カルプロパミド処理後にいもち病菌を接種したイネでは、抵抗性誘導に関係したパーオキシダーゼの活性が高まり、イネのファイトアレキシンであるモミラクトンとサクラネチンも同時に誘導されることが示された。さらに、カルプロパミドがいもち病菌胞子の分生子柄からの離脱を抑制することによって、本菌の二次感染を防止することが明らかにされた。

 以上を要するに、本研究は、シクロプロパンからメラニン生合成阻害活性を有するアミド化合物を誘導し、その異性体から、強いいもち病防除活性と浸透性があり、安定した残効性を示す化合物カルプロパミドを開発した。次いで、カルプロパミドの作用機構を解析した結果、その主たる作用はメラニン生合成系の脱水酵素反応阻害による感染阻害であることが示され、これに加えてイネに対する抵抗性の誘導ならびにいもち病菌の分生胞子離脱を抑制する作用も認められた。本研究で得られた成果は学術上、応用上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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